『手取り18万のパスポート —定年退職、逆襲のラグジュアリー—』

かおるこ

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第10話:通帳には書けない残高

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第10話:通帳には書けない残高

「……戻ったな」

健一は、ATMの前で通帳を見つめた。

**180,000**

あの日と同じ数字。
インクの匂いも、印字の音も、何も変わらない。

「十八万」

小さくつぶやく。

けれど、胸の奥は、あのときとは違っていた。

「どうだった?」

美津子が、隣で尋ねる。

「変わらない」

「数字はね」

健一は、通帳を閉じる。

パタン、という音が軽い。

あの日は重く響いたのに。

外に出ると、板橋の空気がひやりと頬に触れる。
ダナンの湿った熱気とはまるで違う。
けれど、その違いが妙に愛おしい。

帰宅。

靴を脱ぎ、リビングに入ると、どこか懐かしい畳の匂いが広がる。

「やっぱり家は落ち着くわね」

美津子が、スーツケースを開けながら言う。

中から、砂のついたサンダル。
小さな市場の袋。
五つ星ホテルのルーフトップバーのコースター。

健一は、スマホを取り出す。

アルバムを開く。

「……多いな」

「何枚ある?」

「二千三百」

「そんなに?」

画面には、黄金色のミークアン。
屋台の笑顔。
バイクの群れ。
夜の海。

そして、ルーフトップバー。

「これ」

美津子が、写真を指さす。

高い場所から見た、ダナンの夜景。
グラスの中の泡が、光を受けてきらめいている。

「シャンパン、一杯だけな」

健一が笑う。

「二人で分けた」

「でも、十分だった」

美津子が、静かに言う。

健一は、通帳をテーブルに置く。

「なあ」

「なに?」

「十八万だ」

「うん」

「でも、減ってない」

美津子が首をかしげる。

「減ったでしょ」

「残高はな」

健一は、スマホを持ち上げる。

「でも、ここは増えた」

アルバムの中の写真が、スクロールされる。

フォーをすする顔。
ミークアンを食べて笑う自分たち。
市場で値段交渉している動画。

「俺、こんな顔してたか?」

「若いわよ」

「若くはない」

「でも、生きてる」

健一は、ふっと息を吐く。

「通帳には書けない残高だな」

「なにそれ」

「経験残高」

美津子が、声を立てて笑う。

「銀行、受け付けてくれないわよ」

「だろうな」

健一は、椅子に腰を下ろす。

足の裏に、まだ南国の砂の感触が残っている気がする。

「なあ、美津子」

「なに?」

「最初、十八万を見たとき、負けたと思った」

「うん」

「でもな」

健一は、ゆっくりと言う。

「今は、額面以上だ」

美津子が、静かにうなずく。

「工夫したものね」

「削って、悩んで、喧嘩して」

「写真も撮って」

「ミークアンも食べた」

二人で、くすっと笑う。

窓の外で、夕暮れがゆっくりと街を染める。

健一は、スマホを持ったまま、指を止める。

「次は」

「え?」

「どこにする」

美津子の目が、輝く。

「もう次?」

「十八万は、来月も来る」

「……そうね」

健一は、アプリを開く。

ポイ活の画面。

「今月、三千二百ポイント」

「増えてる」

「コツコツな」

通知音が鳴る。

ピロン。

「期間限定マイルキャンペーン」

美津子が、身を乗り出す。

「どこ?」

「台湾、往復特典航空券割引」

「近いわね」

「近いな」

健一は、少しだけ目を細める。

「ダナンも良かったが」

「台湾も美味しいわよ」

「食べること前提だな」

「当然」

健一は、通帳とスマホを並べる。

一方は、動かない数字。

一方は、積み重なるポイント。

「なあ」

「なに?」

「十八万は変わらない」

「うん」

「でも、俺たちは変わった」

美津子は、そっと健一の手を握る。

その手は、少し日焼けしている。

「王様、次はどこへ?」

健一は、笑う。

「王様じゃない」

「旅人?」

「ああ」

スマホの画面が、次の候補地を映す。

台湾、タイ、韓国。

どこへでも行けるわけじゃない。

でも、工夫すれば届く場所がある。

健一は、次のキャンペーンをタップする。

「行くぞ」

「どこへ?」

「額面以上の人生へ」

美津子が、笑いながら首を振る。

「大げさ」

「でも本気だ」

外で、電車が走る音がする。

板橋の空気は、少し冷たい。

けれど、健一の胸の奥には、ダナンの熱がまだ残っている。

通帳には書けない残高。

それは、二人の中に確かに増えていた。

「次の写真、何枚撮る?」

美津子が聞く。

健一は、スマホを握りしめる。

「容量いっぱいまでな」

二人の笑い声が、静かな部屋に広がった。

十八万の数字は、今日も変わらない。

だが、人生の残高は、確実に増え続けていた。

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