創作ギリシャ神話

かおるこ

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火を盗んだ神と、最後に残ったもの テミス

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火を盗んだ神と、最後に残ったもの

 神々の宮殿オリュンポスには、冷たい朝の空気が流れていた。雲の上に立つ大理石の柱は白く輝き、遠くで雷鳴が低くうなる。

 玉座の間の中央に、静かな足音が響く。

 法と掟の女神――テミスが歩いていた。
 白い衣がさらりと床をなぞる。片手には秤、もう一方には剣。目には布が巻かれている。

 その隣の玉座で、雷神ゼウスが腕を組んでいた。

「人間は傲慢になった」

 低い声が大理石の壁に反響する。

「神に祈ることも忘れ、火を使い、鉄を溶かし、世界を自分のもののように振る舞っている」

 テミスは静かに言った。

「それが罪なのですか?」

「度を越えれば罪だ」

 ゼウスは雷をまとった瞳で地上を見下ろす。

「火は取り上げる」

 空気がぴりりと張り詰めた。

「人間は暗闇で震えるがいい」

 その言葉は、冷たい決定だった。

 *

 夜。

 地上では風が吹き、火のない村は暗闇に沈んでいた。

 焚き火の跡には灰だけが残り、冷たい土の匂いが漂う。

 子供が泣いていた。

「寒いよ……」

 母親は震える手で子を抱きしめる。

「我慢するのよ……」

 遠くの岩陰から、それを見つめる神がいた。

 炎のような知性を宿す目。

 プロメテウスだった。

「……あれが、ゼウスの望んだ世界か」

 彼は呟いた。

 冷たい風が頬を刺す。夜の匂い。人間の恐怖。

 プロメテウスは歯を食いしばった。

「神が人間を見捨てるなら」

 彼の瞳に決意が灯る。

「俺が助ける」

 *

 オリュンポスの夜。

 神々の鍛冶場から、金属を打つ音が響いていた。

 火花が散る。

 鉄の匂い。

 炉の前で汗を流していたのは鍛冶神――ヘパイストス。

「ふぅ……」

 彼が背を向けた一瞬。

 影が動いた。

 プロメテウスだった。

 炉の中には、神々の火が燃えている。

 黄金の炎。まぶしい熱。

 彼は松明を差し入れた。

 炎が燃え移る。

 熱が指を焼く。

「くっ……!」

 焦げた匂いが立つ。それでも彼は松明を握り続けた。

「これが……人間の未来だ」

 そして彼は夜空へ飛び去った。

 *

 次の日。

 人間の村に火が灯った。

 ぱちぱちと薪が弾ける。

 暖かい光。

「火だ!」

「火が戻った!」

 人々の歓声が夜空に響く。

 肉が焼ける匂い。煙。笑い声。

 その様子を見て、プロメテウスは静かに笑った。

「それでいい」

 *

 しかし。

 オリュンポスで雷が落ちた。

「誰だ」

 ゼウスの怒声が世界を震わせる。

 空が黒く裂けた。

「火を盗んだ愚か者は!」

 神々が震える中、プロメテウスは前へ出た。

「俺だ」

 ゼウスの瞳が燃え上がる。

「お前か」

「人間は希望を持つべきだ」

 プロメテウスはまっすぐ言った。

「火はその希望だ」

「神に逆らうか」

「正しいことをしただけだ」

 次の瞬間。

 雷が落ちた。

 *

 コーカサスの山。

 冷たい岩と雪の匂い。

 プロメテウスは岩に鎖で縛られていた。

 鉄が肌に食い込み、血の匂いが風に混じる。

 空から影が降りてきた。

 巨大な鷲。

 鋭いくちばしが彼の腹を裂いた。

「ぐあああ!!」

 肉が裂ける音。

 肝臓をついばむ感触。

 痛みが全身を焼く。

 しかし夜になると、肉は再生した。

 そして翌日――

 また鷲が来る。

 永遠の苦痛だった。

 *

 長い年月の後。

 山道を歩く男がいた。

 弓を背負い、筋肉の盛り上がった腕。

 英雄――ヘラクレス。

 彼は岩の上の神を見て眉をひそめた。

「おい……これはひどいな」

 鷲が降りてくる。

 プロメテウスは苦しげに言った。

「……放っておけ」

「そんな顔で言うな」

 ヘラクレスは弓を構えた。

 弦のきしむ音。

 矢が飛ぶ。

 次の瞬間。

 鷲は胸を貫かれて落ちた。

 岩に血が散る。

 ヘラクレスは鎖を叩き切った。

「ほらよ」

 鉄が砕けた。

 プロメテウスは崩れるように地面に座り込む。

「……助かった」

「礼はいらねえ」

 ヘラクレスは笑った。

「人間に火をくれた神を、見捨てるわけにいかないだろ」

 *

 だがゼウスの怒りは消えていなかった。

「人間に罰を与える」

 彼は命じた。

「ヘパイストス」

「はい」

「女を作れ」

 炉が燃え上がる。

 黄金の粘土から、美しい女が形作られた。

 長い髪。輝く瞳。

 彼女の名は――パンドラ。

 ゼウスは小さな箱を渡した。

「これを持って行け」

「中には何が?」

 パンドラが首を傾げる。

 ゼウスは微笑んだ。

「決して開けるな」

 *

 地上。

 パンドラはエピメテウスの家を訪れた。

 扉が開く。

「……君は?」

「旅人です」

 彼女が笑うと、花の香りが漂った。

 エピメテウスはすぐに心を奪われた。

「ぜひ家に入ってくれ」

 二人はすぐ恋に落ち、結婚した。

 *

 しかし。

 箱はいつも部屋の隅にあった。

 木の匂い。

 小さな蓋。

 パンドラは何度も見つめる。

(中には何があるの?)

 胸がざわつく。

 ある夜。

 ついに彼女は箱を持ち上げた。

「少しだけ……」

 蓋を開けた。

 その瞬間。

 黒い霧が飛び出した。

 病気。

 憎しみ。

 盗み。

 悲しみ。

 叫び声のような風が世界へ散った。

「いや……!」

 パンドラは慌てて箱を閉じた。

 部屋は静まり返る。

 彼女は震えながら箱を開いた。

 すると。

 小さな光が残っていた。

 柔らかい光。

「……あなたは?」

 光が優しく答えた。

「私は希望」

 パンドラの頬を涙が伝った。

 外では嵐が吹いている。

 それでも、その小さな光だけは消えなかった。

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