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【第1話】境界線の向こう側
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アスファルトが焼ける、独特の匂いがしていた。
大阪府八尾市、中小の町工場がひしめく路地の奥。淡い黄色の外壁が剥げかけた長屋の前で、志乃はホースを握っていた。
「かなわんなぁ、この暑さは」
独り言が口をつく。ホースの先を指で窄めると、水が扇状に広がり、西日に透けて小さな虹を作った。
「あ、にじや」
鈴を転がすような声がして、志乃は隣の家の前を振り返った。そこに、その子はいた。
おかっぱ頭の毛先が、首筋に張り付いている。色白で、折れてしまいそうなほど細い手足。ハナ——自分のことをそう呼んでいた少女だ。
「綺麗やねぇ、ハナちゃん。こっちおいで、涼しいよ」
志乃が目を細めて笑いかけると、ハナは一歩、また一歩と、まるでおびえる小動物のように距離を詰めてきた。志乃はこの子が、長屋に住む「孫」だと聞いていた。けれど、不思議なほど生活の音が聞こえてこないのだ。洗濯物が干される様子も、母親が叱る声も、父親が仕事から帰る足音も。
「……はな、にじ、だいすき」
ハナは虹の根元を掴もうとするように、小さな手を空中に伸ばした。
「そうか、大好きか。ハナちゃんは、いくつになったん?」
「……はな。はな、いうの」
ハナは年齢には答えず、ただ自分の名前を繰り返した。その瞳は、吸い込まれそうなほど純粋で、同時にひどく虚ろだった。
「お腹、空いてへんか? おばちゃん、飴さん持ってるよ」
志乃がポケットを探ると、ハナは急に強張った顔をして、淡黄色の長屋の奥を、背後を、振り返った。
「……いかな、あかん」
「ハナちゃん? お家、誰かいてはるの?」
志乃の問いに、ハナは答えなかった。ただ、薄暗い玄関の奥へと吸い込まれるように消えていった。バタン、と力なく閉まったドアの音。その後に残るのは、工場の機械が刻む単調な重低音と、乾き始めたアスファルトの匂いだけだった。
「寂しい子やなぁ」
志乃は胸の奥を、冷たい風が吹き抜けるような感覚を覚えた。あの子はいつも一人だ。友だちもいない。学校に行く年齢になっても、ランドセルを背負う姿を見たことがない。
でも、きっと。
「きっと、お母さんが夜にお仕事してはるんやわ。大変なんやろな」
そう自分に言い聞かせた。それが、最も「都合のいい」解釈だったから。
季節は巡り、セミの声が消え、冷たい木枯らしが吹き抜けるようになったある日のこと。
ふと、気づいた。
隣の家から、あの、微かな気配すら消えていることに。
「あれ、ハナちゃんは? おじいさんは?」
志乃は長屋の前に立って、閉ざされた扉を見つめた。郵便受けにはチラシが溜まり始めている。志乃は、掃き掃除をしていた近所の女性に声をかけた。
「隣のハナちゃん、最近見えへんね。引っ越さはったんかな」
女性は手を止めず、そっけなく答えた。
「さあな。あそこの孫、お母さんが迎えに来て、どっかええとこへ引っ越したん違うか。あんなボロい長屋より、そのほうが幸せやろ」
——幸せな転居。
その言葉は、志乃の胸にすとんと落ちた。
「そうやね。よかったわ、あんな寂しそうにしてはったもんね。今頃、お母さんと一緒に、もっと日当たりのええところで、学校通うてるんやわ」
志乃は、自分を納得させた。
ハナがいなくなった理由を、それ以上探るのをやめた。
行政に届けることも、警察に相談することも、考えもしなかった。だって、一介の近隣住民が、他人の家庭の事情に首を突っ込むなんて、この街では野暮なことだ。
それからだ。志乃の時計の中で、ハナという存在が「思い出」という名の引き出しに仕舞い込まれたのは。
1年が過ぎ、5年が過ぎた。
八尾の街も少しずつ姿を変えた。中小の工場は潰れ、更地になり、新しい住宅が建った。けれど、あの淡黄色の長屋だけは、時間が止まったようにそこに在り続けた。
志乃は、その前を通るたびに、無意識に視線を逸らすようになった。
なぜだろう。
ハナちゃんは、今頃もう中学生やろな。
ハナちゃんは、もう大人になってるやろな。
そう思うたびに、心臓の奥がチリチリと焼けるように痛む。
あの時、ハナが掴もうとした虹。
あの子が自分の名前を繰り返した、あの震えるような声。
「私はここにいるよ」という、音にならない叫びだったのではないか。
——いや、考えすぎや。
志乃は、老いた首を振る。
あの子は、どこかで幸せに暮らしている。
そう思わなければ、自分の日常が壊れてしまうような気がした。
だが、現実は残酷だった。
ある冬の朝、長屋の周囲に黄色いテープが張り巡らされた。
パトカーの赤い灯が、志乃の家の窓を不気味に照らす。
野次馬のささやき声が、冷たい空気の中を伝わってきた。
「床下から……コンクリート……」
「女の子の骨やったらしいわ……」
志乃は、崩れ落ちるように玄関に座り込んだ。
膝が震えて止まらない。
奥歯がガタガタと鳴る。
視界が急激に歪み、18年前のあの夏の日が、鮮明なカラーで蘇る。
虹を掴もうとした、小さな白い手。
「はな、いうの」と笑った、あのおかっぱ頭。
あの子は、どこへも行っていなかった。
ずっと、あそこにいた。
私が「幸せな転居」を信じ、お茶を飲み、テレビを見て、笑って過ごしていた18年間。
あの子は、冷たいコンクリートの中で、光も音もない暗闇に閉じ込められていた。
「ハナちゃん……ごめん。ごめん……」
志乃の口から、嗚咽が漏れた。
あの時、ホースから出た水が作った虹は、あの子にとって、この世で最後に見た「外の世界」の色だったのかもしれない。
志乃は、自分が「加害者」であると悟った。
暴力を振るった叔父でも、見放した母でもない。
けれど、すぐ隣にいながら、違和感に気づきながら、「きっと大丈夫」と自分に言い聞かせて目を逸らし続けた、この18年間の沈黙。
その沈黙こそが、コンクリートを流し込んだ誰かの手助けをしていたのだ。
窓の外では、18年前と変わらぬ、冷たい夕暮れが迫っている。
志乃はホースを握る力もないまま、ただ、あの子の名前を呼び続けた。
ハナ。
ハナ。
ハナ。
それは、もはや誰にも届かない、後悔という名の祈りだった。
境界線の向こう側で、一人の少女が確かに生きていたという証拠は、今や冷たい骨と、色あせた記憶の中にしか残されていなかった。
(第一話 完)
大阪府八尾市、中小の町工場がひしめく路地の奥。淡い黄色の外壁が剥げかけた長屋の前で、志乃はホースを握っていた。
「かなわんなぁ、この暑さは」
独り言が口をつく。ホースの先を指で窄めると、水が扇状に広がり、西日に透けて小さな虹を作った。
「あ、にじや」
鈴を転がすような声がして、志乃は隣の家の前を振り返った。そこに、その子はいた。
おかっぱ頭の毛先が、首筋に張り付いている。色白で、折れてしまいそうなほど細い手足。ハナ——自分のことをそう呼んでいた少女だ。
「綺麗やねぇ、ハナちゃん。こっちおいで、涼しいよ」
志乃が目を細めて笑いかけると、ハナは一歩、また一歩と、まるでおびえる小動物のように距離を詰めてきた。志乃はこの子が、長屋に住む「孫」だと聞いていた。けれど、不思議なほど生活の音が聞こえてこないのだ。洗濯物が干される様子も、母親が叱る声も、父親が仕事から帰る足音も。
「……はな、にじ、だいすき」
ハナは虹の根元を掴もうとするように、小さな手を空中に伸ばした。
「そうか、大好きか。ハナちゃんは、いくつになったん?」
「……はな。はな、いうの」
ハナは年齢には答えず、ただ自分の名前を繰り返した。その瞳は、吸い込まれそうなほど純粋で、同時にひどく虚ろだった。
「お腹、空いてへんか? おばちゃん、飴さん持ってるよ」
志乃がポケットを探ると、ハナは急に強張った顔をして、淡黄色の長屋の奥を、背後を、振り返った。
「……いかな、あかん」
「ハナちゃん? お家、誰かいてはるの?」
志乃の問いに、ハナは答えなかった。ただ、薄暗い玄関の奥へと吸い込まれるように消えていった。バタン、と力なく閉まったドアの音。その後に残るのは、工場の機械が刻む単調な重低音と、乾き始めたアスファルトの匂いだけだった。
「寂しい子やなぁ」
志乃は胸の奥を、冷たい風が吹き抜けるような感覚を覚えた。あの子はいつも一人だ。友だちもいない。学校に行く年齢になっても、ランドセルを背負う姿を見たことがない。
でも、きっと。
「きっと、お母さんが夜にお仕事してはるんやわ。大変なんやろな」
そう自分に言い聞かせた。それが、最も「都合のいい」解釈だったから。
季節は巡り、セミの声が消え、冷たい木枯らしが吹き抜けるようになったある日のこと。
ふと、気づいた。
隣の家から、あの、微かな気配すら消えていることに。
「あれ、ハナちゃんは? おじいさんは?」
志乃は長屋の前に立って、閉ざされた扉を見つめた。郵便受けにはチラシが溜まり始めている。志乃は、掃き掃除をしていた近所の女性に声をかけた。
「隣のハナちゃん、最近見えへんね。引っ越さはったんかな」
女性は手を止めず、そっけなく答えた。
「さあな。あそこの孫、お母さんが迎えに来て、どっかええとこへ引っ越したん違うか。あんなボロい長屋より、そのほうが幸せやろ」
——幸せな転居。
その言葉は、志乃の胸にすとんと落ちた。
「そうやね。よかったわ、あんな寂しそうにしてはったもんね。今頃、お母さんと一緒に、もっと日当たりのええところで、学校通うてるんやわ」
志乃は、自分を納得させた。
ハナがいなくなった理由を、それ以上探るのをやめた。
行政に届けることも、警察に相談することも、考えもしなかった。だって、一介の近隣住民が、他人の家庭の事情に首を突っ込むなんて、この街では野暮なことだ。
それからだ。志乃の時計の中で、ハナという存在が「思い出」という名の引き出しに仕舞い込まれたのは。
1年が過ぎ、5年が過ぎた。
八尾の街も少しずつ姿を変えた。中小の工場は潰れ、更地になり、新しい住宅が建った。けれど、あの淡黄色の長屋だけは、時間が止まったようにそこに在り続けた。
志乃は、その前を通るたびに、無意識に視線を逸らすようになった。
なぜだろう。
ハナちゃんは、今頃もう中学生やろな。
ハナちゃんは、もう大人になってるやろな。
そう思うたびに、心臓の奥がチリチリと焼けるように痛む。
あの時、ハナが掴もうとした虹。
あの子が自分の名前を繰り返した、あの震えるような声。
「私はここにいるよ」という、音にならない叫びだったのではないか。
——いや、考えすぎや。
志乃は、老いた首を振る。
あの子は、どこかで幸せに暮らしている。
そう思わなければ、自分の日常が壊れてしまうような気がした。
だが、現実は残酷だった。
ある冬の朝、長屋の周囲に黄色いテープが張り巡らされた。
パトカーの赤い灯が、志乃の家の窓を不気味に照らす。
野次馬のささやき声が、冷たい空気の中を伝わってきた。
「床下から……コンクリート……」
「女の子の骨やったらしいわ……」
志乃は、崩れ落ちるように玄関に座り込んだ。
膝が震えて止まらない。
奥歯がガタガタと鳴る。
視界が急激に歪み、18年前のあの夏の日が、鮮明なカラーで蘇る。
虹を掴もうとした、小さな白い手。
「はな、いうの」と笑った、あのおかっぱ頭。
あの子は、どこへも行っていなかった。
ずっと、あそこにいた。
私が「幸せな転居」を信じ、お茶を飲み、テレビを見て、笑って過ごしていた18年間。
あの子は、冷たいコンクリートの中で、光も音もない暗闇に閉じ込められていた。
「ハナちゃん……ごめん。ごめん……」
志乃の口から、嗚咽が漏れた。
あの時、ホースから出た水が作った虹は、あの子にとって、この世で最後に見た「外の世界」の色だったのかもしれない。
志乃は、自分が「加害者」であると悟った。
暴力を振るった叔父でも、見放した母でもない。
けれど、すぐ隣にいながら、違和感に気づきながら、「きっと大丈夫」と自分に言い聞かせて目を逸らし続けた、この18年間の沈黙。
その沈黙こそが、コンクリートを流し込んだ誰かの手助けをしていたのだ。
窓の外では、18年前と変わらぬ、冷たい夕暮れが迫っている。
志乃はホースを握る力もないまま、ただ、あの子の名前を呼び続けた。
ハナ。
ハナ。
ハナ。
それは、もはや誰にも届かない、後悔という名の祈りだった。
境界線の向こう側で、一人の少女が確かに生きていたという証拠は、今や冷たい骨と、色あせた記憶の中にしか残されていなかった。
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