今日、俺の彼女が死にまして

睦月

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「ガボッ!?」
「宗介!?」

突然海に引きずりこまれた宗介は混乱した。自分の足元を見ると、半透明の小さな手が無数に伸び宗介の脚に絡みついていた。

「お盆の時期に海に入っちゃいけないんだよ。」

葵の言葉を思い出し、一気に恐怖が湧き上がってきた。宗介はパニックに陥り、掴んできた腕を振りほどく様に暴れ、そのうちどちらが水面かも分からなくなった。怖い、苦しい。宗介は死がヒタヒタと近づいて来るのを感じ、恐怖した。俺はここで死ぬんだ。宗介は半ば諦めかけていた。
生きている宗介と死んだ葵の同居生活などという歪んだ日常の中で、宗介の精神は人知れず壊れかけていた。自分も死んだら、葵とずっと一緒に居られる。葵と生活するようになってもうすぐ三ヶ月。何度そう思ったかわからない。しかしいつも最後は死ぬのが怖くて実行に移すことはなかった。葵も、宗介に死を進める事は決してなかった。
ここに来て死が間近に迫り、宗介は死にたくない、と強く思った。まだ生きていたい。やりたいことがたくさんある。でも、葵は?葵はいつまで宗介と一緒にいるのだろう。成長する宗介の隣であの時の姿のままずっと側にいるのだろうか。葵と過ごした三年間が走馬灯のように頭をよぎった。空気を求める度に肺に水が入り、苦痛が増した。脚には相変わらず無数の手が絡み付いており、宗介を仲間に入れんと海の底に引きずり込んでいた。

「宗介!!」

不意に葵の声を聞いたような気がして、宗介は上を見た。すると唇に何か柔らかいものが触れるとともに肺に空気が送り込まれた。酸素が入ったことで徐々に冷静になった宗介は、葵が海の中にいることにやっと気がついた。慌てて葵を抱きしめようと手を伸ばした。手の先が何かに触れる感覚があり、それを思い切り抱きしめた宗介は、気がつけば水面に上がっていた。

「ブハ!ゲホッゲホ!」

肺に入った水を吐き出すように咳き込み、やっとまともに呼吸できるようになってから宗介は周囲を見回した。

「葵!?」

宗介が掴んだのは、浮輪だった。辺りを見渡せど、そこにあるのは青い海のみ。葵の姿はどこにもなかった。

「大丈夫ですか!」

ライフセーバーが宗介の異変を察知し駆けつけてきた。そのすぐ後に亮介も続いている。

「大丈夫ですか?」
「宗介!大丈夫か!?お前が急に浮輪からいなくなったんでビビった。」
「あ、ああ…でも、葵が…」
「え、もう一人溺れているんですか!?大変だ。」
「い、いや、彼は、一人で泳いでました。葵っていう子は…今日は来てません。」
「は?そ、そうですか…。なら戻りましょう。あなたは浮輪にしっかりつかまって。」
「葵、葵が…俺を助けて、葵、葵…」

うわ言のように葵の名を繰り返しつぶやく宗介を見て、ライフセーバーはショックを受けた所為であると結論付け、陸まで誘導した。

三人が陸に上がるのを見て、桃華と咲が駆けつけた。亮介はライフセーバーに礼を言い、ライフセーバーは仕事ですからと言って去っていった。

「四谷君!大丈夫?」
「四谷、脚でもつったの!?ビックリしたよ。
…あれ?浮輪の紐、腰につけてんじゃん!良かった、それで浮いたんだね。」
「え?」

宗介が自分の腰に目をやると、確かに浮き輪の紐がしっかりと結び付けられていた。宗介は紐を付けた覚えがなかった。葵に忠告された時も、子供じゃあるまいしと断った。では一体誰が。
そんなの決まっている。

「う、葵が、葵が…」
「よ、四谷君…?」
「葵が、死んじゃったんだ…」
「四谷君…」

それきり言葉を発することも出来ず、宗介は葵が死んで以来、初めて涙を流した。
宗介は亮介に支えられるようにしてパラソルの下に戻り、そのまま泣き続けた。何だ何だと集まってくるゼミの仲間を、気を利かせた咲が引き連れこの場を離れた。パラソルの下にいるのは、宗介とそれに寄り添う桃華と亮介。

「葵が、死んじゃったんだ。」
「うん、」
「ずっと一緒にいたのに、死んだ後も俺の部屋にいて…」
「うん?」
「一緒に成仏する方法を探そうって、約束したのに…溺れた俺を助けて、海に溶けて消えてしまった。今日、葵が、死んだんだ…本当に、死んじゃったんだ…」

涙を流しながら不可解なことを言う宗介に、桃華と亮介は顔を見合わせた。葵は死後、宗介にずっと憑いていたと言う。彼の言ったことが本当なのか、それとも現実を直視できなかった宗介が見せた幻覚なのか。判断はつかなかったが、今は余計なことを言うべきではないと結論付け、そっと背中をさすり続けた。
宗介自身、幽霊の葵は自分の妄想が作り出した幻なのではないかと思う事はあった。宗介が葵の死を完全に受け止めた時に、葵は消えるのではないかと。葵の死を知る前に幽霊の葵に出会ったのも、あまりの悲しみから過去の記憶さえ変えてしまったのではないかと、この三ヶ月間そう思わずにはいられなかった。しかし今日、葵は確かにここにいた。溺れた時に葵から送られた酸素と、腰に巻かれた浮輪の紐が何よりの証拠だ。それも宗介の妄想だと言われればそれまでだが。

宗介の涙は中々止まらず、やがて太陽が傾き始めた。気を利かせた亮介が残りのメンバーを先に返し、砂浜には宗介、亮介、桃華の三人が残っていた。亮介は周りに指示を出したりパラソルを返却しに動き回っていたが、桃華はただじっと宗介に寄り添った。宗介は涙を流し、葵の名前を呟きながらずっと海を見ていた。
太陽が水平線に消える頃、宗介の涙も止まった。ずっと見つめていた海からやっと目を離し、宗介は桃華と亮介に話しかけた。

「なんかごめん。ずっとつき合わせちゃったね。」
「気にすんなよ、俺たちが勝手にやってるんだから。それより落ち着いたか?」
「うん、俺、変なこと言ってただろ?」
「まあ、な。」
「全部忘れてくれていいから。この三ヶ月間、ずっと妄想に囚われていたのかも。」
「でも、お前は真実だと思ってるんだろ?」
「そりゃあね。葵が来てくれて、嬉しかったんだ。今日だって助けてくれた。妄想なんかで片付けたくない。」
「じゃあ、俺も信じる。」
「わ、私も信じます!幽霊なんて見たことないからビックリしたけど、四谷君が本当だって言うんなら信じる。葵さんはきっと、四谷君のことが心配だったんだね。」
「葵が言ってたんだ。幽霊は水に溶けるって。本で読んだことあるって。水に溶けた幽霊は海に流されて、そこに留まり続けるしかないんだ。葵は、俺の所為で海に囚われた。もう成仏することもできない。俺の所為なんだ。」
「どうなるかなんて、誰にもわかんねーだろ。」
「え?」
「それ書いたの、生きてる人間なんだろ?そんなの本当のことか分からないじゃん。仮に幽霊が水に溶ける現場を見ていたのだとしても、その先は知りようがない。そんなの作者の妄想だ。そうだろ?ちゃんと、成仏できてるかもしれないじゃん。それに、全ての幽霊が海に溜まったままなんて、それじゃあ海は幽霊でドロドロじゃん!俺そんな中泳いでたわけ!?絶対無理、海に溶けても、成仏できるって!」
「そ、そうだよ。きっと葵さん、今日この日の為にずっと四谷君の側にいたんだよ。きっと今頃安心して、天に昇ってるところだよ。」
「そうかな…」
「絶対そうだよ、信じよう、な?」
「うん。ありがとう、二人とも。」

三人は水着から着替え、家路に着いた。

「葵は、俺といて幸せだったかな。」
「幸せに決まってるよ。一緒にいたかったから、亡くなった後も四谷君に会いに行ったんだよ。」
「そっか。そうだよね。」

朦朧としながらも最後に見た葵の顔は、この三ヶ月間見たことのなかった満面の笑みを浮かべていた気がした。
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