プリンス・オブ・メランコリー

百瀬圭井子

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第5章2「終章」

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 「───どうしたんです? 主任」
「ああ、王子に見せたいものがあって………」
 深夜を少し回った頃、王子の部屋の前まで来た高村は、ドアの前に立っている部下に手にした新聞を見せた。
 説明がいるかと思ったが、部下は興味を示さなかった。
「もう寝てるか?」
「いや、寝てないと思います。まだほかに誰かいるみたいですから」
「仕事か?」
「どうですかね」
「少し早いが交代しよう。永井にはきみから言っておいてくれ」
「了解です」
 部下の挨拶を目礼で返すと、高村は相手が足音も立てずに去っていくのを待たず、ドアをノックした。
「はい」
 顔を覗かせたのは、もう見慣れた女性秘書だった。
「よろしいですか?」
「どうぞ」
 リビングに王子の姿はなかった。
「もうお休みでしょうか?」
「どうでしょう。なんのご用ですか?」
「このホテルにあった地方新聞の芸術欄に、たまたま美術展のことが載っていたのでお持ちしました。とても好意的な記事で、作品についての論考なども載っていましたので、殿下には興味深いものではないかと」
「そうですの。では私がお預かりしておきましょう」
「もしお休みでなかったら、じかにお渡ししたいのですが」
「しかし、急ぐ用事ではないのでは?」
「───どうした?」
 夜分に合わせて低い声で話していたが、そう広くはない続き間のこと、寝てはいなかったらしい王子が白いシャツにナイトガウンを羽織った姿で隣の部屋から姿を見せた。
「まあ、殿下」
 秘書はチラリと、主人の安息を破った高村を睨んだ。
「失礼しました。お休みでしたか?」
 軽く頭を下げた高村は、素知らぬ顔で尋ねた。
「いや、本を読んでいました。どうしたんですか?」
 時刻は真夜中。
 王子は『日本側の警護主任が時間外に訪ねてくるなんて何事か?』といった顔をしていた。
 そこで高村は同じ台詞を繰り返した。
「それはわざわざ───」
 相手は少し驚きながら、高村から新聞を受け取った。
「大きい欄ではありませんが………付箋がしてあるところです」
 立ったまま王子がパラリと新聞を広げる。
 上部に付けられた黄色い付箋には、鉛筆で一言、日本語が書かれていた。
『二人きりで』
「………」
 記事を読むように新聞を近づけた王子は、ふと気づいたように秘書に目をやった。
「あなたはもういいです。部屋に戻ってください」
「しかし」
「明日はまた長旅ですよ。私もこれを読んだら寝ます」
「そうですか、それでは………」
 秘書は自分が高村より先に退出することが不満なのか、どことなく口惜しそうな面持ちをしながらも部屋を出て行った。
「………」
 仕事上で近しい関係だろうと、かなり年が離れていようと、男女がこんな遅くまで二人きりでいていいのだろうかと、高村は杓子定規なことを考えた。
 王子の方ははっきりと一線を引いているのが見えるが、秘書の方は忠誠と好意の線引きができていないような………───少なくともそれを第三者に示す配慮は忘れているようだ。
 もっとも彼女が“向こう側の人間”でさえなければ、彼にとってはどうでもいいことだったが。
「なにがあったんですか?」
 王子はまっすぐに高村を見つめながら尋ねた。
 思慮深そうな光を湛えているが、どこかまだ少年のあどけなさを残す、吸い込まれそうな大きな瞳だった。
 甘酸っぱさではなく本物の苦さで胸がうずく。
「───ついさっき、室田という人物が私を訪ねてきました」
「えっ?」
「あなたに伝えて欲しいと───おじいさまがさっき病院で亡くなられたそうです」
「なんで………!」
 思わず漏れた声に、高村は咄嗟にドアの外を気にした。
「こちらへ………」
 と言って、彼は相手の腰に軽く触れ、奥の寝室に導いた。
 ソファセットのスタンドには明かりが、テーブルには本が置きっぱなしになっていた。 高村は王子を広々としたベッドに腰掛けさせた。
「───持病があったんだそうです。それが急変して………。お二人が帰られた後に病院に救急搬送されたそうです」
「………」
「殿下───室田に連絡して、詳しくお尋ねになりますか?」
「え?」
「施設は………この時間はもう連絡は取れないでしょうが」
「………」
 すると相手はきつく目を閉じた。
 そこに表われた苦悶の表情には、胸の内の混乱を収めようとしている様子がまざまざと見て取れた。
 だが、すぐに消化できるようなものではないだろう。
「───なにか飲み物でもお持ちします」
 高村は居間に戻ろうとしたが、相手は腕を掴んで引き留めた。
「殿下」
「話せなかったんです………母のことも忘れていた」
 どこかまだ呆然とした口調だった。
「病気だったと───」
 高村は慰めるように答えると、逡巡した末、王子の手をそっと外しながら隣に腰掛けた。
 スプリングが沈み、王子がわずかに揺れた。
 相手はそのまま───高村の肩にほんの少しだけ寄り掛かった。
 手入れが行き届いた、日本人のものより少し明るい、柔らかそうな栗色の髪が高村の目に飛び込む。
「………もしかしたら、遠く離れた異国の生活の中で、いつの間にか理想化してしまっていたのかもしれません。でも母にとって祖父は───父は、家族を───他人を尊重する、心の広い、素晴らしい人だったんです」
「………」
「だから、その人と二度と会えない人生を選んでしまったことを───悲しませてしまったことを、口に出したことはなかったけれど、とても嘆いていた………」
 その代わりに───?
 不意に高村は思った。
 親不孝をしてしまったと嘆いていた母親の代わりに、彼は多くの犠牲を払い、母親への孝行も込めて、日本にいる唯一の肉親───祖父に会おうとした。
 二度とこのような機会はないと覚悟していただろう。
 それなのにようやく会えた直後に(それ自体、病気に阻まれた悲劇的なものだったけれど)、まさか永遠の別れを迎えるとは───想像もしていなかったに違いない。
 思いも寄らぬ巡り合わせに、長い睫毛を震わせている───けれど、決して泣いてはいない───王子の心中は、高村には計り知れなかった。
「母の代わりに会えたのは嬉しいです。でも………どんな人だったのか、僕にはもう分からなくて………」
 王子は呟いた。
 母が理想の父親だと語っていた人。だがすでに夢の中に入ってしまった今の姿からは、当時の面影を見いだすことはできなかった。
「───店をやっていた頃、周囲の人には慕われていたようですよ。だからきっと、お母さまが思ってらしたそのままの方だったのではないでしょうか」
 高村は先ほどの室田との会話を思い出しながら、穏やかな口調で言った。
「───病気になっても、亡くなっても、その方が体験された記憶はきっといつまでもその方を幸せにしているはずです」
「………なんだか神父さまみたいですね」
「え?」
「神父さまに慰められているようです」
「───似合わないことを言いました」
 高村は恥じ入るように呟いた。
 彼は拳銃を手にする警察官だ。
 神父には程遠い。
「そんなことはありません。似合ってますよ。───似合いすぎです」
「まさか」
「初めて会った時───」
 彼は目をつぶると、再び相手の肩に肩を寄せた。
「───驚きました。とても綺麗な人がいたので」
「き───」
 高村の肩が揺れた。
「失礼なこと言いましたか?」
「や………」
「でも、そうですね。やはりあなたは神父さまではない」
「はい」
「それに天使さまでもない」
「───もちろんです」
「お子さんはいるんですか?」
「いえ。独身です」
「そうですか………」
 そこで会話が途切れた。
 あのチャペルの時は慌ただしかった。しかし今は真夜中過ぎのホテルの寝室。
 高村は、相手が話したい気分ならそれにつき合うし、黙りたい気分ならば、いつまででも黙ったままそばにいようと思った。
 肩にわずかな重みと熱を感じる限り………おそらく、それは許されているのだろう。
 彼は小さく視線を動かしたが、寄りかかる相手の栗色の髪しか見えなかった。
 眠ったのか………。
 けれど、軽く触れただけの肩がそうでないことを告げていた。
 彼は不意に、三日前のナショナル・ギャラリーで、無心に眠る赤子の絵を見つめていた王子の顔を思い出した。
 あの無防備に眠る───眠れることのできる赤ちゃんに、王子は自分の願望を重ねていたのではないだろうか。
 赤ちゃんだった頃、彼はとても幸せだったに違いない。
 新聞を届けた朝、寝ぼけたように抱き締められたのも、恋人に間違えられたのではなく、習慣的にそういうことをしている訳でもなく、王子自身が子どもに返って父親に───あるいは母親に、抱き締めてもらいたかったのではないだろうか。
 年上というだけの自分のどこに“父親めいたもの”を感じたのか、見当もつかなかったが………。
 相手はまだ二十代の若者。
 そうでなくても背負っているものが大きすぎる。
 それはきっと彼には想像もつかない重さであり………。
 彼は、相手に寄りかかられていない方の手をわずかに動かした。
 その手を目の前まで持ってきてためらう。
 まさか男相手に───付け加えるならば“王子様”相手に───こんなシチュエーションに陥ろうとは思ってもみなかったが………。
 彼は相手の肩に手を回すと、挟まれていた腕も持ち上げ、両手で相手を抱きしめた。
「───!」
 彼の鎖骨辺りに額を押しつけられた王子は驚いたように身じろぎした。
「………」
 しかし、やがて、微笑のような───あるいは何かをこらえるような───表情を淡く浮かべると、目を閉じて、自分も相手の体に腕を回した。

 熱い血の通う他人の体温が、十二月の空気に冷えた心を温めていく………。

 二度とこんなにも心を込めて他人を抱き締めることはないと思えるような………。
 忘れられない、優しい抱擁だった。



 ───やがて、腕を解き、互いの体が離れていく時、まるでただの偶然、とでもいうかのように、相手の唇が、額にかかる栗色の髪の毛の上、かすかに押しつけられていくのを、彼は半ば夢見心地で受け止めると、そのまま本物の夢の中へと滑り落ちていった。

 彼はとうとう───時の間とはいえ───憧れて止まなかった至福の眠りを手に入れたのだ。

 それはあの絵の中の赤子と同じくらい幸せそうな寝顔だった。
 見つめているのはただ一人ではあったが………。







 翌朝。
 行きと違い、一行は新幹線で帰路に着いた。
 透明な冬の日射しが差し込むグリーン車の個室は、大半の者がうつらうつらと寝入っていて、とても静かだった。
 そんな中、トイレにでも立ったのか、個室から出てきた王子が入り口付近に立つ高村の前を通り過ぎようとした。
 その時、
「また会えますか?」
 王子が唐突に、天気の話でもするかのようなさり気ない口調で高村に向かって話しかけた。
 近くにほかに日本語を解するような人間はいなかった。
 個室の前に立つボディーガードが無表情に二人を見つめていた。
「───無理だと思います」
 高村は軽く首を振りながら、英語で答えた。
「そうですか」
 王子もまた英語で応じると、高村の前を通り過ぎていった。



 東京駅から羽田空港まではリムジンで移動した。
 空港内の貴賓室でチャーター便の搭乗手続きを待つ間、外務省の人間や美術展の関係者によって、ささやかな歓送レセプションが催された。
 すっきりとした紺のスーツに身を包んだ王子は、絶え間なく寄せられる人々からの挨拶に、五日前と変わらぬ落ち着いた物腰で応じていた。
 やがてグランドホステスがやってきて、一同はそのまま王子たち一行を送り出す形になった。
 係員に先導されて、出口に向かう途中、王子は部屋の隅に控えていた高村たちの側まで歩いてくると、
「いろいろお世話になりました。もう一人の方にもよろしくお伝え下さい」
 と、優雅な口調で高村ともう一人の部下に向けて言った。
 三人で一チームだった彼らは、この最後の場所では交代の必要はないため、一人を先に警視庁に戻していた。
 わざわざ自分たちに───! と感激し、固まってしまった部下の隣で、代表で答えるのは主任である高村の役目だった。
 彼は上体を傾けてお辞儀をすると、
「ありがたいお言葉、痛み入ります。どうか帰路もご快適なものでありますように」
 と淀みなく答えた。
 頭を上げてまっすぐに返す視線も、なにも含みはしない。
 それどころか、相手の胸に去来するものを互いに想像することすらせずに───。
 彼らは別れの眼差しを交わした。
 王子は頷くと、いつかも聞いた甘さの帯びぬ香りを残して、高村の前から去っていった。
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