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13、お春(前)
しおりを挟む「おかしいな。」
私は呟いた。道を間違えたはずはない。スエキチの家は胡麻ねえさんの家の近く、碁盤の如き田園の十二番目の区画に建っていると知っている。緑がかった瓦と蕎麦色の壁が印象的な、小さな家だったはずだ。
それなのに……。
《—————そんな家はないわ。柚子ちゃん。》
「ないなんて、そんなのおかしいよ。」
ひらひらと飛び回る青鶴ちゃんの言葉を、私はにべもなく取り下げる。しかし。認めたくはないのだが、状況としては青鶴ちゃんが限りなく正しかった。ゆらゆらと青く稲穂を波うたせる夏の田は、今、目の前ではっきりと断絶されてしまっていた。一本の線が引かれたように田んぼが終わり、全く別の光景が広がっている。
青鶴ちゃんの言葉を認めたくなくて、私は構わず進み続ける。と、だんだんと地面が湿っぽくなってくるとともに、辺りは緑色の小さな崖のようなものに囲まれ始めた。薄暗くなってくる視界と樹々の生い茂る勢い。とうとう目の前に一本の渓谷が現れて、私は立ち止まるしかなくなってしまった。朱色に塗られた朽ちかけた吊り橋が、ブランとぶら下がっている。もうここまで来れば、畦道や田んぼの影も形も何もない。
《—————お弁当屋さんなんて、どこにもないわ。》
そう。家を出る時にも、青鶴ちゃんに同じことを言われた。拳を固めて、そんなのあり得ないと、私は反論した。なぜなら、つい昨日に私はスエキチとお喋りをしたからだ。お弁当屋さんから、美味しい鰻重を持ってきてくれた。そのお弁当屋さんが存在しないなど、いくら何でも変だ。
《—————それでも、ないの。》
何度も何度も繰り返す青鶴ちゃん。私は途方に暮れてしまった。それに少し薄気味の悪いような気分もある。さすがの私にも、これ以上先に進む勇気はない。目の前にぶら下がる色褪せボロボロの吊り橋は、人が渡るにはあまりにも危なっかしかった。
『多分、もう二度と会うことはないだろうね!』底抜けに明るい太陽のようだったあの声を思い出して、私はスウッと背筋が薄寒くなるのを感じた。
私はくるりと吊り橋から回れ右をする。きっと、道を間違えただけだ。この世界は色々と入り組んでいるから、迷ってしまったのだ。そうだ、良い考えがある。胡麻ねえさんに会いに行こう。そうすれば、息子の居場所ぐらい喜んで教えてくれるだろう。案内もしてくれるかもしれない。私は深呼吸で自分の心を落ち着けて、来た道を睨む。
まだ何か言い足りなそうな青鶴ちゃんの言葉を心の中から締め出して、その場から小走りで駆け出した。
♢
私は、とある家の前で突っ立っていた。
桃色の屋根。クリーム色の壁。丸い窓。お菓子屋さんかと見まごう可愛らしい家は、エレーの神の世に来る前、人里においては本当にお菓子屋さんだった。
「えっと……。」
人間界において、その店の主は、夏樹兄さん。
彼の第一印象は大人しい人、というもので、長く伸ばした黒髪を後ろで束ねている。
彼は日曜日にだけ、和菓子専門店を開くのだ。売る物はお萩や団子、煎餅や饅頭など、ミニサイズの甘い芸術品。平日は他の人と同じように農作業に出ているけれど、ふと見ると木陰で料理本に没頭していることがよくある不思議な人だった。
「どうしよう……なんか辿り着いちゃった。」
私は困惑していた。初めは胡麻ねえさんに会いにいくつもりだったのに、気づけば別の道に出ていて、ついにはここまで来てしまった。
《—————スエキチくんの家だった場所から一番近いからね。一本道よ。だからじゃない?》
「……家“だった”?。」
《そうよ。でも、ねえ、そんなどうでも良いことより柚子ちゃん?ちょっとノックしてみない?》
「この家?」
《うん。きっと良いことあるわよ。》
妙に強引に励ましているように思える青鶴ちゃん。急にどうしちゃったんだろう、と訝しがる私に、青鶴ちゃんはさらに言った。
《—————柚子ちゃん。色んなオバケに仕事選びの方法、聞いてみたいって言ってた。これはチャンスだよ?》
「う、うん……。」
そうは言うものの、友人でもないのにいきなり尋ねて来るような真似をして良いのだろうか。私にはエレーの神の世の常識は全く分からない。しかしどうやら、大丈夫なようだった。もちろん青鶴ちゃんの様子を信じる限り、ということになるけれど。そして青鶴ちゃんの言葉に一理あると思ったのも、確かだった。少し戸惑いながらも、玄関の扉を叩いた………のだが。
コン、コン、コン。
—————ジャァ………
(えっと…?)
返事はない。その代わりに、勢いよく水が流れる音が響き出した。ドアの外まで響いているそれは、一体何なのだろうか。私はしばらくドアの前で突っ立ったまま、途方に暮れてしまった。
「あの……。」
勇気を出して呼びかけてみる。けれども、やっぱり返事はない。ただひたすらに、水が流れる音が続く。駄目だよそんな小っちゃな声じゃ、と青鶴ちゃんに叱られて、私はとうとう心を決めた。
「ごめんください!」
思い切りお腹に息を溜めて叫んだ時、中で響いていた水音がぴたりと止まった。私は息を詰めてその瞬間を待つ。
……ギイィ。
ゆっくりと、扉に隙間が開いた。
「——————お客さん?」
臆病を滲ませた薄桃色の二つの眼が、隙間に光っていた。
♢
「……いらっしゃいませ。どうぞ。」
「えっと、お邪魔します。」
見た目は八歳ほどだろうか。小さな薄桃色の瞳。さらさらの絹のような黒髪。クリーム色と藤色のツートンカラーのワンピース。
あまりにも儚げな気配を纏っているので、初めは空蝉に続く第二の幽霊かとも思った。けれども、そう思ってからものの数秒で、その考えは間違いだったということが判明した。
—————顔が、消えた。
え?と思った時には、そのオバケの顔がなくなっていた。意味がわからないと思うけれども、そこにはきちんと体があり、頭があり、髪の毛もあり、しかし顔というものがなくなっていた。のっぺりと真っ白なただの平面。眉毛や唇や鼻筋など、全ての顔のパーツが存在していなかった。
もしかして、と思い当たる。
「……のっぺらぼう?」
私が呟くと、少女はハッと気付いたように顔を伏せて、そして蚊の鳴くような声で呟いた。
「…………ハイ。のっぺらぼうのお春です。」
そしてすぐに、
「……驚かせてごめんなさい。緊張すると顔がなくなっちゃうんです……。」と付け加えて頭を下げる。
俯いた顔は影に隠れて全く見えなくなった。もともと小さな体をしゅんと丸めて、余計に小さくなっている。
どうやらお春は人見知りなオバケらしいと、私は出来るだけ優しい声音を意識して話しかけてみた。
「えっと、全然大丈夫だよ。私の方こそ、突然お邪魔してびっくりさせてしまったみたいでごめんね。」
「……いえ。そんな……。」
どうしよう、と私は思案に暮れた。
あまりにもお春が緊張していて、私の笑顔が逆に萎縮させる原因になってしまっているようだった。
青鶴ちゃんを探してみたが、彼女はいつの間にか屋根の上までひらひら舞い上がって高みの見物を決め込んでいる。私はうーんうーんと悩んだ挙句。
「よもぎのお団子があるんだけど……。」
すなわち、お土産袋を差し出してみることにしたのだ。
もちろんお土産なんてもの、初めはなかった。私が荷物を入れてきたのはただの布鞄。しかしそれを『食品棚』だと思い込むことで、私はそこから食べ物を取り出すことに成功してしまった。
我ながら、何を言っているかよくわからない。けれども、家に備えつけの空っぽの棚から勝手に人参やら肉やら味噌やらが飛び出してくるのだ。鞄からよもぎの団子が出てくるくらいで、もう驚きはしない。
「私からのお土産だよ。受け取ってくれるかな?」
瞬間だった。
キラリ。と。
文字通りにお春の目の色が変わった。よもぎそっくりの青磁の色の瞳が、長いまつ毛の元で煌々と輝いている。薄桃色の小さな瞳はどこへ行った?と思ったが、そういえば彼女はのっぺらぼうだった。顔のパーツの色くらい自由に変えることは簡単にできるのだろう。地面を向いたままの彼女の顔が、妙に妖気を孕んで見えた。
「……………い。」
「……?」
囁くような声が聞こえてきたと思ったら、お春の唇が震えている。何と言ったのだろう、と首を傾げた瞬間だった。お春がクワッとこちらを見上げたのは。
「柚子さん!お茶を淹れますので、どうぞご一緒して下さい!」
「は、はいっ。」
豹変の具合で言えば、芋虫が蝶になることよりも凄かったかもしれない。何せ、サナギという中間点を経ることなくこうなったのだから。お菓子を見るだけで目が煌めく。警戒心が一気に薄れたお春に、私は安堵と同時に畏怖すら感じていた。
私は完全に圧倒されながら、無事に入室を許可されてお春の家へとお邪魔した。
♢
お春は、ちょうどお皿を洗っているところだったらしい。
台所には、うず高く積まれた食器の山。ほとんど天井に届きそうなそれは、微妙なバランスにより完璧なピラミッドとなっている。どう考えても一人分だとは思えない洗い物。私がちょいと指先で突いただけで崩れそうだった。
……小学生ほどの背丈で、一体どうやってあんな高さへ皿を積んだのだろうか。甚だ不思議だ。
他にも、山のように積み重ねられた洗濯物や、そのそばのアイロン台など、お春は器用に避けながら歩いていく。さながらアスレチックの障害物迷路のコースのようだった。それなのに、部屋の中は暗かった。それはこの家の住人の趣味に違いない。私は何度も躓きそうになりながら、必死にお春に付いていった。
「……これは。」
「実は私、家政婦なんです。」
と、お春は心底申し訳なさそうに言った。
「でも、人様の家だと緊張してしまって顔がなくなっちゃうし、上手くお仕事ができないんです。だから、こうして自宅へ持ち帰るんです。皿洗いや洗濯、アイロン掛けや料理なんかは全部、ここで片付けられますから。」
「なるほど……。」
「………散らかり放題でごめんなさい。お客さんをこんなに奥に通すなんて、思わなかったんです。」
「あっいや。むしろ突然押しかけた私のせいだから全然気にしないよ。」
「お気遣いいただきすみません……。」
そんな遣り取りをしながら通されたダイニングも薄暗かった。
そして不思議の国に迷い込んだような異彩を放つ場所だった。
窓には山吹色のカーテンが何重にも重なってゆらゆらと揺れている。机の上には橙色の蝋燭の炎が燭台に乗ってぼんやりと光を放っているし、小さな籐の揺り椅子には、瓢箪のような植物が絡み付いて薄い黄緑色の果実を垂らしている。床に敷かれたカーペットはペルシャ織物のような呪術的な紋様が染め込まれていた。
「お茶を淹れるのでちょっと待っていて下さい。」と言って、お春が台所へ引っ込む。しかし全然待つ必要はなかった。私が鞄から改めてよもぎ団子を取り出し、机の上に並べて腰掛けた時には、全ての準備が終わってしまったからだ。
淹れたての緑茶。ゆらゆらと立ち上る青白い湯気。白い泡が三日月に浮かび、新緑の粉が湯呑みの奥に沈んでいる。この完璧なお茶の出来からは想像も出来ない、とんでもない早業だった。
「……お茶、すごい。」
思わず呟いた。すると間髪入れずに返事が返ってくる。
「お仕事の技術ですから。」
少しだけ照れたように、お春が俯いていた。
「何年も携わっています。家政婦として、家事全般の腕を磨くのは当然のことです。」
「……すごいね。」
「いえ。私なんかはまだまだ至らないところばっかりで。」
毅然と言うお春。彼女は本気で、自分のことをまだまだ能力が足りないオバケだと思っているようだった。まだまだ見た目は子供だが、こういうものをプロ意識と呼ぶのだろうか。
私はふと、全ての所作に自信が満ち溢れていたスエキチを思い出した。彼のプロ意識はお春とはまた違う。お弁当屋の接客をこなす時、自信に裏付けされたあの幸福の笑顔はきっと役に立つ。おそらく彼は生来の明るさで、いつでも前向きに笑っていられるのだろう。
思わず微笑みながら、私はお春と一緒に頂きますを言ってお団子へ手を合わせた。
お春は本当に美味しそうにお団子を食べた。私がお春の淹れた緑茶に夢中になったのと同じくらいに、お春も私が念じて取り出したよもぎの団子を気に入ってくれたようで、それは素朴に嬉しかった。何より、お菓子を見せた途端、お春の緊張が林檎の皮が剥けたようにポロリと取れてくれたのもほっとした。
あむあむと口いっぱいに頬張って目を輝かせるお春は可愛らしい。私は少し微笑むと、タイミングを見計らってお春に聞いてみることにした。
「……唐突なんだけど。お春ちゃんが家政婦になったキッカケとか、そういうのってあるの?」
「キッカケ、ですか?」
私はとっくにお団子を食べ終わっていたが、口の小さいお春はまだまだ半分以上残っていた。目を上げたお春は、もぐもぐ口を動かしながら、面食らったように首を傾げた。
「それはまあ、色々ありますけれど……。」
何故わざわざそんなことを、と言いたげにパチパチ瞬きをするお春。その表情は次第に訝しげな緊張に覆われ—————
「……もしかして。柚子さん、新聞記者のスパイさん?」
「違うよ!それから私は怪しい者じゃないんだから緊張してのっぺらぼうにならなくていいんだよ!」
「で、でもそうやって探ってくるってことは……それにその雨の香…きっと人間のフリをした……」
「まさか!それに新聞記者なんて職業、こんなちっちゃい里にいらないでしょ!」
「そ、そう?」
おずおずと顔を上げたお春。一応、薄桃色の瞳と小さな唇、整った鼻筋などの顔のパーツは元に戻っていた。
私は思わずふぅとため息をついて、ポツポツと話を始めた。
「私、どんな仕事に就いたらいいのか悩んでるの。もちろんそれは、私が元いた世界に帰れた後のことだから、いつになるかはわからないんだけど。」
——————柚子さんだけは、出ようと思えば出られるんだよ。
記憶の中の空蝉の声を無視して、私は目を瞑って息を吐く。
「仕事選びって、物凄く難しい。ここではオバケによってわかりやすく能力が違うし、私の能力は“紙人形使い”だってことがわかった。でも、向こうの世界はそんなに単純じゃない。向いてる仕事どころか、私の得意なことすらもよくわからないから、本当にどうしたらいいのかわからないんだよ。」
『きみだけは、外へ出るための鍵を持つ、唯一の生き物だから。』と、空蝉は言った。
その“鍵“とは何なのか、それは私にはわからない。けれども、まずは他人に頼ってみること。そういうものを、今は大切にしたかった。帰るための努力、なんてぼんやりした言葉を掴むために、私が出来ることは本当に限られているのだから。何の確証もないままに私は霞の海を泳いでいるような気分だけれど、案外これで正解なのではないかとも思ったりしている。
「本当に些細な個人的な体験談でいいから、色々なオバケに仕事の選び方を教えてもらいたくて。お春ちゃんはどうして家政婦になったのか、せっかくだから聞いてみようと思ったの。」
「……なるほど。」
お春は、ワンピースの袖を捲ってうーんと悩むような声を漏らした。
「私流の選び方の話でいいんだったら……。」
「もちろんそれでいいよ。」
「じゃあ。」
私の胸の内に巣食う不安。
それを感じ取ったのか、否か。お春はにわかに真面目な表情になると、私の目をゆっくりと見上げた。
「『二択問題チャンピオン方式』」
少女の瞳が、深い藤紫色に煌めきながらこちらを見つめていた。
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