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12、闇笠(後)
しおりを挟む「ただいま。」
戸を開けた途端、なんとも言えない良い香りが漂ってきた。胡麻のタレが焼けるような、山椒の粉が舞うような。もくもくと上がっている白いモヤは、魚が焼けて立ち上る甘い湯気。
思わずスンスン、と鼻を鳴らした時。
「おかえりー!鰻重だよー!」
しゃもじを持ったスエキチが、ニコニコ笑顔で飛び出してきた。いつの間に着替えたのか、緑色のほっかむりに加えて黄緑色のエプロンも装着している。小柄な体がぴょんぴょんと飛び跳ね、さながら本物の蝦蟇のようだ。
彼が温めたのだろう、大きな黒いプラスチック容器に入ったお弁当が二つ、机の上に載っていた。それは当然のように“鰻重”の弁当。脂の乗った美しい鰻が、ぶつ切りにされてたっぷりのタレとともに焼き焦がされている。ゴクリと唾が湧いてきた。恐る恐る、私はそれを見つめて口を開いた。
「えっと…………鰻?それ高級魚じゃない?」
「ううん全然!」
「しょ、庶民にとっても?」
「安い安い!」
「……そうなんだ。」
この世界は非常識だ。
それをまた実感した。買ってもいない食材が冷蔵庫の中に入っているとか、同じ庭で桜・百日紅・栗・柿が同時に見頃の季節を迎えているとかは、すでに日常茶飯事の部類に入っている。
鰻の捕獲ルートについても、何か特別な事情があるに違いない。
「スエキチくん。逆に、高級な食材って何かあるの?」
私はふと気になって、何気なく尋ねてみた。返ってきたのは、意外なものの名前だった。
「氷。」
「え?」
「あとは、アイスとか。シャーベットとか。」
「……冷凍系全滅?」
思ってもみなかった品目に私が驚くと、スエキチは「そうなんだよねー。」と残念そうに笑った。
「いやぁ、みんな二の足を踏むんだよ。氷を手に入れようと思ったら、氷魔女屋敷に頼るしかないからね。つまり、管理者の雪さまと直接会って作って貰わなくちゃならない。でも、あそこは怖い怖い“影“が守っているから、どんな勇者も腰が引けちゃうんだ。それで結局氷は滅多に口に出来ない珍しいものになって、値段も勝手に高くなるんだね。」
「……なるほど。」
「僕としては、もっと氷を適当にばら撒いても良いなぁって思うんだけどね。年中氷山の浮いてる池とか作っちゃえばさ、もっとみんな気軽に氷を取ってこれて便利だよ。柚子ちゃんもそう思わない?」
「そう……かもしれないね。」
歯切れの悪い返事に、おや、とスエキチがこちらを覗き込む。
“影“。確かに、そんなものに出会ったような気がする。雪が叱り飛ばしてあっという間に霧散させたから、助かった。あの時が、雪との初めての出会いだった。
それにしても奇妙な感覚だ。雪とは数日前に別れたばかりなのに、彼女の屋敷で過ごした日々はどこか遠い昔の出来事のようだった。
氷魔女屋敷、雪さま、などのスエキチの言葉を、繰り返し何度も小さく呟いてみる。
………儚げな薄水色の着物。ハタキ。白い化粧。味噌汁。冷めたお風呂。キラリと耳元を飾る、雪の結晶のイヤリング………フラッシュのように蘇る断片的な映像。すでに雪との会話の半分も思い出せなくなっている自分に、私は愕然とした。
二人で並んで布団に横になった晩。あの夜の記憶は、陽炎の夢だったのだろうか……。
「……アハハ!まあ、そういうわけだけど、鰻は安くてもメチャクチャおいしいからね!」
「……うん。」
「よし!冷めないうちに食べよう!」
私たちは、部屋の中央に据えつけてある丸い木の机に向かい合って座る。お弁当を前に、手を合わせた。
「いっただきまーす!」
「いただきます。」
蓋の取り払われたお弁当。
湯気の立ち上る白米。炒り胡麻ベースのタレに漬け込まれた鰻に、ふわりと舞い上がる山椒の香。
チョンチョンと箸で突つき、続いて恐る恐る、齧り付いた。
瞬間、目を見開いた。
ねっとりと強烈なタレの味。舌を焼きながら溶けてゆく熱々の脂。とにかくくどさとしつこさでは敵わない厳つい料理のはずなのに、何故だかするりと喉の奥へと滑り落ちてゆく。一噛みごとに歯を撫でる細かな棘たちまでが、調和した繊細な音楽を奏でている。
(……美味しい)
美味しかった。
気付けば、涙が出ていた。
「……鰻って、美味しいんだね。」
「そうだよ!店長さんの鰻は世界一だよ!」
「うん。」
「わあ。もしかして柚子ちゃん泣いてる?」
「な、泣いてない。」
「アハハ!誤魔化さなくて良いのになー。」
「うるさいよ。」
慌てて鼻を啜る私を、黄緑色の優しいギョロ目がニコニコと見つめていた。
全てを飾らない彼は、子供っぽい見た目に反して案外行儀良くお弁当を食べている。ご飯粒一粒も残さずに丁寧に食べ切るつもりだろう。本当に徹底的に、鰻の尻尾まで呑み込んでいる。多分、海老フライが入っていたら殻まで綺麗に平らげてしまうのだろう。あと、飾りのお花とかも。それぐらい素晴らしい食べっぷりだ。
「……今日の私は、涙もろいみたい。」
「うんうん。そういう日もあるよね!」
「いつもは美味しいもの食べたくらいじゃ泣かないから。」
「えぇ~そうかなぁ。」
「そうだよ。」
食べ終わるとスエキチは、ご馳走様でした、と手を合わせてお辞儀をした。
そして空っぽになったお弁当の黒い容器を指さすと、「それはあげる。プレゼントだよ!」と言って朗らかに笑った。いや、別に、使い終わったプラスチック容器などいらないのだけれど。捨てる手間を省きたいだけだろうと、まだもぐもぐしている私が口の中身を呑み込んで反論する間も無く、彼はたたっとドアの方へ駆けて行って、
「それじゃあね!多分、もう二度と会うことはないだろうね!」と一言残すと、風のように飛び出していった。
呆気に取られた私がしばらく経ってから慌てて追いかけるも、すでにドアの向こう側にはスエキチの影も形もなく。
——————本当に、二度と会うことはなかったのだった。
♢
真っ暗闇の中、空蝉は宇宙の成り立ちに関する哲学書を読んでいるようだった。やけに小難しそうな漢字が大量に並んでいて、私には読む気も起きないような退屈そうな本だった。そうこうしているうちにも、空蝉がまたペラリ、とページを捲る。
「……柚子さんだけは、出ようと思えば出られるんだよ。」
唐突に、空蝉はそんなことを言った。
「え?」
「……オバケは違う。鳥籠に捕らわれた小鳥。抜け出せる時は、死んでお墓に埋められる時だけ。……だけど。」
ルビーのように紅い瞳が、突然にこちらを向く。
私はハッと息を呑んだ。人形に嵌められたガラス玉のような双眼。それが強い光を持って、私を射抜くように見つめている。透き通るような青ざめた唇が、静かに動いた。
「柚子さんだけは、いつでも出られる。」
「……私、だけ?」
「そうだ。きみだけは、外へ出るための鍵を持つ、唯一の生き物だから。」
「じゃあ。どうやったら出られるの?」
「……………わからない。」
「そう。」
私は静かにため息をついた。
空蝉が『わからない』と言う時。彼の眼は、いつにも増して虚になる。ぽっかりと空いた宇宙の穴のように。何も映さない無表情になる。
「それじゃ、三つの質問をするよ。」
「うん。」
虚ろに呟くように言う空蝉の無表情は、あまり好きではない。私は、努めて気にしないようにと目を逸らした。
「光と闇と、どちらの言葉が好き?」
「闇。」
「箒と雑巾、どちらで掃除する?」
「箒。」
「リボンとシール、贈り物に飾るならどちら?」
「リボン。」
「よし。」
空蝉が宙に手を伸ばしたのをきっかけに、私はすっと目を閉じて、呼吸する。きっと目の前には、薄青色の文字が表示されるのだろうと想像する。しかし、目を開けたくなかった。読んでも何も変わらないものを、もう読みたいと思わなくなっていた。
「……三番を。」
「わかった。」
ポロン、と。
偽札が選択されたことを示すいつもの音が鳴り、私はフーッと息を吐いて目を開けた。
「……また明日。空蝉。」
「また明日。柚子さん。」
空中に手を翳すと、ドアの輪郭が浮かび上がる。秋カカシの森の丸太小屋に繋がるそれの取手を掴み、私は日常の世界に戻っていった。
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