3 / 56
プロローグ 長雨の 触れし人肌懐かしき 幾世の夢を望む鬼
しおりを挟む『おい!』
太陽の見せない空は、黒く重い雲が垂れ込めている。
生暖かい雨が身体を濡らし、体温を削りながら無情に芯から冷やした。
『おい! 生きてるか?』
男は久方振りに人の声を聞いた。
雨の生臭い臭いに、ふわりと優しい香りと温もり。
――何の香りだろう。
嗅覚と聴覚はどうにか機能していることに自分で驚きながらも、身体はピクリとも動かない。
顔を上げて香りの元を確認しようとしても、指の先も眉の毛も動いてくれない。
――怠い。
重い鉛を全身に背負っているようだ。
それでは力自慢だろうが到底無理であろう。
『――酷い熱だ。俺の家が近いから、辛いと思うけど連れて行くよ?』
ふわりと暖かい物が身体を覆った。
香りと同じく柔らかい口調の声は、男の力を失った腕を自分の肩に回して抱え起こすと、ふらつきながら一歩足を動かした。
『――……』
男は離れようにも声も出ない。
このままでは声の人間を潰してしまう、と触れる身体の細さにヒヤヒヤした。
――ああ……自分はまだ人を気遣える程の余裕を持っているのか。
口を僅かに開くと、そこに頬を伝って雨が滑り込んでしまい、気管に不時着してしまった。
思わず咳き込むと、声の人間が息を切らしながら声を掛けてくれた。
『だ、大丈夫、か?』
しかし、咳き込むので限界を迎えてしまった男は、そこで意識を飛ばした。
ビルとビルの隙間。
男は人通りから見えない場所に踞っていた。
――もう歩けない。
ずっとさ迷っていた気がする。
いつからさ迷っていたのか、当の男ですら既に分からない。
空腹で、雨に体力を奪われ、裸足で、血に染まって――。
いつから何も口にしていないのか、いつから裸足なのか、いつから――雨が降っているのか。
気付いた時には雨は降っていて、裸足で、空腹で。
でも。
――どうでもいい。
人知れず死ぬのだろう、と意識が薄れる中で思った。
それでも良い。と思った。
――もう充分生きた、充分。
だのに――。
男に気付いた人間がいた。
――気付いてしまった。
男も気付いた。
――気付いてしまった。
温もりに。
優しさに。
もう二度と味わうことの無い筈の生きた人の感触に。
数百年も昔に味わった切りの、いとおしい人間の心に――。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
13
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる