馬鹿な婚約者と自称ヒロインがまぐわっておりましたので、婚約破棄後に真実の愛とやらの行く末を見守りますわ

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どうして、あの瞳だけは忘れられないのでしょう

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 母様がお帰りになったあと、私はそっと立ち上がり、窓辺へと歩みを進めました。

 薄絹のカーテンを指先でそっと払い、夜空を仰ぎます。

 雲ひとつない澄み切った空に、静かに浮かぶ満月。けれどその光は、どこか冷ややかで……まるで、胸の奥にしまいきれなかった想いを映し出すかのようでございました。

 ――異性に心を惹かれたことなど、一度としてなかったはずなのに。

 なのに、どうして、あの瞳の色だけは……。

 月光に溶けていくような、紅玉のように深いその瞳。
 目を閉じてもなお、記憶の奥に焼きついたままのあの輝きが、幾度となく意識に浮かび、そして、消えずに残り続けております。

 私はしばし月の光に心を預けたのち、そっと踵を返し、静かな眠りの支度へと向かいました。

 ────
 登校初めの静けさの中、私はいつもの席に腰を下ろし、ゆっくりとノートを開きました。

 朝の光は淡く、まだ誰もいない教室は、息を潜めたような静寂に包まれております。けれど間もなく、その空気にひとつの気配が差し込みました。

 殿下。

 音もなく扉が開き、気配を感じたまま顔を上げると、金の髪と深紅の瞳が静かに近づいてくるのが見えました。

「……おはよう」

 その声は、まるで静寂にだけ響く楽の音のよう。凛としていて、けれどなぜか、耳に心地よく溶けてまいります。

「……おはようございます、殿下」

 私は軽く会釈し、ノートへと視線を戻しました。けれど胸の奥では、ほんのわずかに、昨日の舞踏の記憶が残響を奏でていたのです。

 クラウディオ殿下は私の隣へと腰を下ろし、無言のまま軽く頷かれました。

 その自然な振る舞いに、気がつけば私の心も不思議と落ち着いていくようで……まるで、呼吸のリズムが合っていくような感覚さえ覚えます。

 その沈黙が心地よくすらあるころ、ふと、殿下がぽつりと呟かれました。

「ユミリア嬢がここにいると、不思議だ……空気が澄むように感じる」

 あまりに唐突で、私は手元のペンを止めてしまいました。

 澄むという言葉。

 それは“静か”という単語よりもずっと繊細で、まるで私という存在そのものに、意味を見出してくださったような響きでした。

「……それは、試験疲れの影響ではございませんこと?」

 冗談めかした口調で返したのは、鼓動の高鳴りを悟られぬようにするため。けれど殿下は、まるで気にも留めないように続けられます。

「違う。……昨日から、ずっと思っていた。ユミリア嬢といると、妙に心が静まる。名前を呼びたくなるのも、初めてだ」

「……え?」

 不意に告げられた言葉に、私はわずかに目を見開きました。

 それは、甘い囁きでも賛辞でもございません。ただ、思ったことをそのまま言葉にされたのだとわかっていても。

 心のどこかが熱を帯びるのを、私は否応なく感じてしまいます。

「ユミリア嬢は、あまり話さない。それなのに、何も言わなくても伝わるような気がする。不思議なことだ」

 殿下の瞳が、窓から射す光を受けて、かすかに輝いておりました。

 それは、まるで心の奥底から、私という存在を見つめてくださっているかのようで。

「……そう、でございますか。わたくしなどが、殿下にそのような感覚を抱かせてしまうとは……少々、恐縮でございます」

「謙遜しなくていい。……それはユミリア嬢だけの特別な在り方だ。誰にも真似できない」

 そのお声は、どこまでも穏やかで、けれど……まっすぐに私の胸を打ち抜いてまいります。

 自覚なき甘さ。それを向けられるたび、私は自分の心の変化に気づかずにはいられません。

 どうして、殿下の声はこうも真っ直ぐに届いてしまうのでしょう。

 どうして、紅いその瞳が、まぶたの裏にまで焼きついて離れないのでしょう。

 私は、知らず知らずのうちに、ひとつの問いを自らに投げかけておりました。

 この静けさを、嫌ではないと感じるようになったのは、いつからでございましょう。

 あの瞳が、私の名を呼ぼうとしてくださるその瞬間だけ、私の世界がほんの少し色づいてしまうのです。

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