馬鹿な婚約者と自称ヒロインがまぐわっておりましたので、婚約破棄後に真実の愛とやらの行く末を見守りますわ

文字の大きさ
97 / 108

呼応するように名を口にした、そのあとで

しおりを挟む
 雨はしばらくして、名残惜しそうに音を潜めた。

 ガゼボの外では、濡れた落葉が光を宿して輝いている。まるで、この静かなひとときを彩る装飾のように。

 けれど、殿下はすぐには立ち上がられなかった。

 私もまた、袖にかけられたままの上着をそっと胸元で押さえながら、沈黙の中で呼吸を整えておりました。

「……もう止んだようですわね」

 そう声をかけたのは、私から。けれど、それに返ってきた殿下の声は、どこか低く、静かな熱を帯びておりました。

「……そうだな。だが、もう少し、このままでもいい」

 私はその言葉に、ふと胸を打たれました。

 そうして、隣を見ると、殿下はまだ私を見てはおられません。ただ前を向いて、どこか考え込むように微かに眉を寄せておられました。

「ミリア」

 ふたたび、名を呼ばれます。けれど今度は、迷いのない声音でした。

「……はい」

「呼んでみたかった。ただの名ではない、お前だけに許された響きを」

 それは、まるで独白のようでした。けれど確かに私へと向けられた言葉でもあって。

 胸の奥で、そっとなにかがほどける音がしました。

「では、わたくしも」

 言いかけて、少しだけ視線を落とします。

 殿下を名前で呼ぶなど、いまだ一度も口にしたことがありません。でも、きっとそれは、ここにしかない距離だからこそ許されるもの。

「……クラウディオ様と、呼んでもよろしいでしょうか」

 その瞬間、殿下の瞳がわずかに揺れたのを、私は見逃しませんでした。

 けれど彼はすぐに静かに頷き、

「……ああ」

 と、短く答えられました。

 まるで、それだけで充分だとでも言うように。

 そうして、ふたり、しばし何も言葉を交わさぬまま、静かな時間が過ぎていきました。

 やがて、私たちはほとんど同時に、わずかに腰を浮かせました。

「ご一緒に、図書館まで戻りましょうか」

 提案するようにそう言うと、殿下は「構わない」と小さく頷き、私の歩みにあわせて外へ出られました。

 雨に濡れた石畳には、陽が射してきらめく水たまりがあちこちに浮かんでいます。その中を、ふたり並んで歩いていく。

 歩幅を合わせてくださっているのがわかり、それだけでも胸の奥が熱を帯びるのを感じました。

 道の途中で、小さな水音が跳ねます。私がよけきれずに足元の水たまりを踏んだのを見て、殿下がふと微笑まれました。

「……気をつけろ」

「……はい」

 その短いやりとりが、どこか心地よくて。

 もうすぐ図書館の裏口が見えてきたころ、私は上着をそっと手に取って、立ち止まりました。

「こちら、お返しいたします。ありがとうございました」

 両手で丁寧に差し出すと、殿下は一瞬だけ視線を落とし、それからゆっくりとそれを受け取られました。

「……濡れたままで悪いな。仕立て直しが利くものではないが、俺は気にしない」

「いえ、そんな……大切なお召し物を、わたくしに」

 そう言いかけた私に、殿下は静かに目を細めて言われました。

「大切だから、貸したのだ」

 その言葉に、私は返す言葉を失いました。

 ただ、顔を伏せ、胸の奥に宿った熱をそっと抱きしめながら、再び歩き出したのです。

 この庭は、図書館のほど近くにあるものの、通りすがる者のほとんどいない静かな一角。

 この日、偶然のように訪れたふたりきりの空間で、わたくしたちは、ただ少しずつ、距離を縮めてゆくのでした。

 ほんのわずかに。けれど、確かに。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

邪魔者は消えますので、どうぞお幸せに 婚約者は私の死をお望みです

ごろごろみかん。
恋愛
旧題:ゼラニウムの花束をあなたに リリネリア・ブライシフィックは八歳のあの日に死んだ。死んだこととされたのだ。リリネリアであった彼女はあの絶望を忘れはしない。 じわじわと壊れていったリリネリアはある日、自身の元婚約者だった王太子レジナルド・リームヴと再会した。 レジナルドは少し前に隣国の王女を娶ったと聞く。だけどもうリリネリアには何も関係の無い話だ。何もかもがどうでもいい。リリネリアは何も期待していない。誰にも、何にも。 二人は知らない。 国王夫妻と公爵夫妻が、良かれと思ってしたことがリリネリアを追い詰めたことに。レジナルドを絶望させたことを、彼らは知らない。 彼らが偶然再会したのは運命のいたずらなのか、ただ単純に偶然なのか。だけどリリネリアは何一つ望んでいなかったし、レジナルドは何一つ知らなかった。ただそれだけなのである。 ※タイトル変更しました

[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで

みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める 婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様 私を愛してくれる人の為にももう自由になります

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。

ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。 彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。 「誰も、お前なんか必要としていない」 最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。 だけどそれも、意味のないことだったのだ。 彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。 なぜ時が戻ったのかは分からない。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。 私は、私の生きたいように生きます。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

全てを捨てて、わたしらしく生きていきます。

彩華(あやはな)
恋愛
3年前にリゼッタお姉様が風邪で死んだ後、お姉様の婚約者であるバルト様と結婚したわたし、サリーナ。バルト様はお姉様の事を愛していたため、わたしに愛情を向けることはなかった。じっと耐えた3年間。でも、人との出会いはわたしを変えていく。自由になるために全てを捨てる覚悟を決め、わたしはわたしらしく生きる事を決意する。

(完結)あなたが婚約破棄とおっしゃったのですよ? 

青空一夏
恋愛
スワンはチャーリー王子殿下の婚約者。 チャーリー王子殿下は冴えない容姿の伯爵令嬢にすぎないスワンをぞんざいに扱い、ついには婚約破棄を言い渡す。 しかし、チャーリー王子殿下は知らなかった。それは…… これは、身の程知らずな王子がギャフンと言わされる物語です。コメディー調になる予定で す。過度な残酷描写はしません(多分(•́ε•̀;ก)💦) それぞれの登場人物視点から話が展開していく方式です。 異世界中世ヨーロッパ風のゆるふわ設定ご都合主義。タグ途中で変更追加の可能性あり。

(完)貴女は私の全てを奪う妹のふりをする他人ですよね?

青空一夏
恋愛
公爵令嬢の私は婚約者の王太子殿下と優しい家族に、気の合う親友に囲まれ充実した生活を送っていた。それは完璧なバランスがとれた幸せな世界。 けれど、それは一人の女のせいで歪んだ世界になっていくのだった。なぜ私がこんな思いをしなければならないの? 中世ヨーロッパ風異世界。魔道具使用により現代文明のような便利さが普通仕様になっている異世界です。

処理中です...