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呼応するように名を口にした、そのあとで
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雨はしばらくして、名残惜しそうに音を潜めた。
ガゼボの外では、濡れた落葉が光を宿して輝いている。まるで、この静かなひとときを彩る装飾のように。
けれど、殿下はすぐには立ち上がられなかった。
私もまた、袖にかけられたままの上着をそっと胸元で押さえながら、沈黙の中で呼吸を整えておりました。
「……もう止んだようですわね」
そう声をかけたのは、私から。けれど、それに返ってきた殿下の声は、どこか低く、静かな熱を帯びておりました。
「……そうだな。だが、もう少し、このままでもいい」
私はその言葉に、ふと胸を打たれました。
そうして、隣を見ると、殿下はまだ私を見てはおられません。ただ前を向いて、どこか考え込むように微かに眉を寄せておられました。
「ミリア」
ふたたび、名を呼ばれます。けれど今度は、迷いのない声音でした。
「……はい」
「呼んでみたかった。ただの名ではない、お前だけに許された響きを」
それは、まるで独白のようでした。けれど確かに私へと向けられた言葉でもあって。
胸の奥で、そっとなにかがほどける音がしました。
「では、わたくしも」
言いかけて、少しだけ視線を落とします。
殿下を名前で呼ぶなど、いまだ一度も口にしたことがありません。でも、きっとそれは、ここにしかない距離だからこそ許されるもの。
「……クラウディオ様と、呼んでもよろしいでしょうか」
その瞬間、殿下の瞳がわずかに揺れたのを、私は見逃しませんでした。
けれど彼はすぐに静かに頷き、
「……ああ」
と、短く答えられました。
まるで、それだけで充分だとでも言うように。
そうして、ふたり、しばし何も言葉を交わさぬまま、静かな時間が過ぎていきました。
やがて、私たちはほとんど同時に、わずかに腰を浮かせました。
「ご一緒に、図書館まで戻りましょうか」
提案するようにそう言うと、殿下は「構わない」と小さく頷き、私の歩みにあわせて外へ出られました。
雨に濡れた石畳には、陽が射してきらめく水たまりがあちこちに浮かんでいます。その中を、ふたり並んで歩いていく。
歩幅を合わせてくださっているのがわかり、それだけでも胸の奥が熱を帯びるのを感じました。
道の途中で、小さな水音が跳ねます。私がよけきれずに足元の水たまりを踏んだのを見て、殿下がふと微笑まれました。
「……気をつけろ」
「……はい」
その短いやりとりが、どこか心地よくて。
もうすぐ図書館の裏口が見えてきたころ、私は上着をそっと手に取って、立ち止まりました。
「こちら、お返しいたします。ありがとうございました」
両手で丁寧に差し出すと、殿下は一瞬だけ視線を落とし、それからゆっくりとそれを受け取られました。
「……濡れたままで悪いな。仕立て直しが利くものではないが、俺は気にしない」
「いえ、そんな……大切なお召し物を、わたくしに」
そう言いかけた私に、殿下は静かに目を細めて言われました。
「大切だから、貸したのだ」
その言葉に、私は返す言葉を失いました。
ただ、顔を伏せ、胸の奥に宿った熱をそっと抱きしめながら、再び歩き出したのです。
この庭は、図書館のほど近くにあるものの、通りすがる者のほとんどいない静かな一角。
この日、偶然のように訪れたふたりきりの空間で、わたくしたちは、ただ少しずつ、距離を縮めてゆくのでした。
ほんのわずかに。けれど、確かに。
ガゼボの外では、濡れた落葉が光を宿して輝いている。まるで、この静かなひとときを彩る装飾のように。
けれど、殿下はすぐには立ち上がられなかった。
私もまた、袖にかけられたままの上着をそっと胸元で押さえながら、沈黙の中で呼吸を整えておりました。
「……もう止んだようですわね」
そう声をかけたのは、私から。けれど、それに返ってきた殿下の声は、どこか低く、静かな熱を帯びておりました。
「……そうだな。だが、もう少し、このままでもいい」
私はその言葉に、ふと胸を打たれました。
そうして、隣を見ると、殿下はまだ私を見てはおられません。ただ前を向いて、どこか考え込むように微かに眉を寄せておられました。
「ミリア」
ふたたび、名を呼ばれます。けれど今度は、迷いのない声音でした。
「……はい」
「呼んでみたかった。ただの名ではない、お前だけに許された響きを」
それは、まるで独白のようでした。けれど確かに私へと向けられた言葉でもあって。
胸の奥で、そっとなにかがほどける音がしました。
「では、わたくしも」
言いかけて、少しだけ視線を落とします。
殿下を名前で呼ぶなど、いまだ一度も口にしたことがありません。でも、きっとそれは、ここにしかない距離だからこそ許されるもの。
「……クラウディオ様と、呼んでもよろしいでしょうか」
その瞬間、殿下の瞳がわずかに揺れたのを、私は見逃しませんでした。
けれど彼はすぐに静かに頷き、
「……ああ」
と、短く答えられました。
まるで、それだけで充分だとでも言うように。
そうして、ふたり、しばし何も言葉を交わさぬまま、静かな時間が過ぎていきました。
やがて、私たちはほとんど同時に、わずかに腰を浮かせました。
「ご一緒に、図書館まで戻りましょうか」
提案するようにそう言うと、殿下は「構わない」と小さく頷き、私の歩みにあわせて外へ出られました。
雨に濡れた石畳には、陽が射してきらめく水たまりがあちこちに浮かんでいます。その中を、ふたり並んで歩いていく。
歩幅を合わせてくださっているのがわかり、それだけでも胸の奥が熱を帯びるのを感じました。
道の途中で、小さな水音が跳ねます。私がよけきれずに足元の水たまりを踏んだのを見て、殿下がふと微笑まれました。
「……気をつけろ」
「……はい」
その短いやりとりが、どこか心地よくて。
もうすぐ図書館の裏口が見えてきたころ、私は上着をそっと手に取って、立ち止まりました。
「こちら、お返しいたします。ありがとうございました」
両手で丁寧に差し出すと、殿下は一瞬だけ視線を落とし、それからゆっくりとそれを受け取られました。
「……濡れたままで悪いな。仕立て直しが利くものではないが、俺は気にしない」
「いえ、そんな……大切なお召し物を、わたくしに」
そう言いかけた私に、殿下は静かに目を細めて言われました。
「大切だから、貸したのだ」
その言葉に、私は返す言葉を失いました。
ただ、顔を伏せ、胸の奥に宿った熱をそっと抱きしめながら、再び歩き出したのです。
この庭は、図書館のほど近くにあるものの、通りすがる者のほとんどいない静かな一角。
この日、偶然のように訪れたふたりきりの空間で、わたくしたちは、ただ少しずつ、距離を縮めてゆくのでした。
ほんのわずかに。けれど、確かに。
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