離れて後悔するのは、あなたの方

翠月るるな

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 会合先のホテルでは、岡本グループの関係者が集まっているためか、見知った顔が行き交っている。凛子は時々利用しているベビーシッターのスタッフに亮を抱いてもらい、彼女と連れ立って、義父の岡本壮士を探していた。途中途中で、勤めていた頃の得意先に呼び止められては、軽く言葉を交わす。

 そんな風にして廊下を歩いていると、壮士の秘書の藤堂昭一を見つけた。

 早速と凛子が声をかける。

「藤堂さん!」
「おや、日和さん……っと、失礼。今はあなたも岡本さんですね。お久しぶりです。この間の食事会以来ですかね」
「ええ、お久しぶりです。あの、突然ですみません、義父はもう到着していますか?」
「もちろん、いらっしゃいますよ。ただ」

 周りを見渡し、声を潜めて藤堂は続ける。

「前期からの不明瞭な資金流出について、別室で話し合っているようです」

 岡本グループはたくさんの事業を手掛けている。それ故に、資金を巡るトラブルは度々あった。だが今回のは一つのプロジェクトで与えられる予算を、大きく上回った金額が消えていた。

 さすがに感化できず、当主やそれに準ずる役職者が探っていた。

 その大まかな内容は省吾の妻である凛子も聞いている。「なるほど」と頷く凛子に藤堂はさらに言う。

「心配しないでくださいね。ほとんど調査は完了しているようですから。ただ、今夜はその件で忙しくしていると思います」
「そうですよね……分かりました」
「ああ、ついでで申し訳ありませんが副社長が到着したら、ご当主のもとに行くよう言っていただけませんか?」
「ええ、伝えておきます」
「よろしくお願いします」

 藤堂が軽く頭を下げて、離れていく。凛子はふと、腕時計に視線を落とした。あと一時間もすれば会合が始まってしまう。その前に省吾が義父に会えるよう、連絡しようとして、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。だが直後、彼女の動きが止まる。

 正面から秋名を伴って省吾が現れたから。

「……」

 凛子は取り出したばかりのスマートフォンを強く握り、ツカツカと二人に近づき、省吾に声をかける。

「遅い到着ね。今ちょうど連絡しようと思ったところなのよ」

 だが、すかさず秋名が答えた。

「申し訳ありません、凛子さん。私が無理を言って、省吾さんを付き合わせてしまって……お怒りはもっともですが、仕事の話だったんです。ご理解ください」

 しおらしく眉を下げて、恐縮した様子で言う。そんな秋名を守るように省吾は彼女を背に隠した。

「秋名の言う通りだ。急な話だったんだ。会合には間に合ったんだから、問題ないだろう。コイツは置いておいていい、行くぞ」

 スッと凛子の横を通り過ぎ、会場に向かう。秋名がその後ろで、ゆるく口角を上げて後を追った。

 残された凛子は、ただただ佇む。見かねたベビーシッターのスタッフが伺うように聞いた。

「あの、私たちも行きましょうか」

 少しして、凛子が「そうね」と答えた。


*  *  *


 壮士たちが会合をする予定の貸し会議室と、続き部屋になっているホールにはちょっとした休憩用に使えるよう、ドリンクや軽食が用意されている。

 凛子はその部屋で義父を待つことにした。今夜は忙しいと言われたが、やはり一目会いたいと思った。会合の終わりにでも、と考える。

 亮は一度ぐずってしまったために、スタッフが外へ連れ出している。場合によっては母が迎えに来る手筈になっていた。

 そうして凛子はホールに留まったが、周囲の人たちはもうすぐ始まる会議のために慌ただしく動いていた。凛子はどこか疎外感を覚えて窓際で景色を眺め始めた。

 そんな中、書類を抱えた一人の女性が近づいてくる。端にいる凛子に声をかけたのは、秋名だった。

 彼女は呆れた声で言う。

「まだいたのね、あなた。待ってたところで省吾さんは来ないわよ」
「省吾を待ってる訳じゃないわ。義父を待ってるのよ」
「ああ、お義父様ね。お義父様なら……何?」

 凛子の眉間にシワが寄ったのに気づいた秋名がしれっと言う。彼女はフフッと笑った。

「呼び方が気に入らなかったのかしら」
「そうね。あなたの義父ではないもの」
「まだ、でしょ?」
「まだかどうかは知らないけど、今この場では不適切だわ。そんなことも分からないの?」
「省吾さんに相手にしてもらえないのに生意気ね」
「それは関係ないことだわ」

 凛子の言葉に言い返そうとした秋名が、ふと入り口の方を見た。ちょうど省吾が入ってくるところだった。彼女は声のトーンを下げて、書類を見せつける。

「ねえ、凛子さん。この資料、省吾さんの大切なものなのよ」
「それが何? 大切な資料を任された、とでも言いたいわけ?」

 資料を秘書である秋名に預けるのは当然だろう。彼女の言動に理解できず、さらに顔をしかめる。だが、秋名がわずかに笑みを浮かべると嫌な予感が掠めた。

 次の瞬間、秋名は答えもせず、知り合いと談笑する省吾に目を向けてから、そばのテーブルのワイングラスを手に取る。凛子がハッと彼女の意図に気付き、咄嗟に手を伸ばした。

「っ!」

 だが直後、盛大に自分へかけた秋名はそのままワイングラスを滑り落とした。パリンッと割れたグラスの音に重なる悲鳴。

「キャアア!!」
「なっ……!」

 凛子が息をのむ。周りの人が足を止め、その視線が二人に集まった。省吾も気づいて「失礼」と人を退かし、カツカツと足早に近づいてきた。だが、ワインに濡れた秋名を見て凛子を睨みつける。

「お前がやったのか」
「私が? なぜ?」
「お前以外に誰が……」

 不意に秋名へ視線を落とした省吾が、書類を見て目を見開く。凛子が強く反論する。

「私はやってな……っ!」

 だが最後まで言う前にパシンッと、乾いた音が飛ぶ。叩かれた頬に痛みが走る。凛子は反射的に手を当てて、顔を戻し驚きのまま省吾を見た。

「……なんで」

 凛子の声に、弾かれた様子で自身の手を見る。省吾は動揺したようにその手を握り、早口で言い訳を連ねる。

「フン! お前が悪いんだろう!? 見るからにそうじゃないか。人に手を出しておいて、被害者面か。そもそもこの書類は……あ、おい!!」

 省吾の決めつけた言い方に凛子は表情を歪め、パッと身を翻し駆け出した。

 赤く腫れた頬よりも強く胸元を握ったまま。耐えきれないように、逃れるようにその場を離れる。

「くそっ……」

 省吾は、その背を追うことはなかった。


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