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しおりを挟む「ねえねえ、秋名さんって子どもがいるらしいよ。知ってる?」
たまたま立ち寄ったトイレの個室で聞こえてきた言葉。凛子は出ようと触れたドアに手を添えたまま、動けなくなった。
今日は省吾に頼まれ、資料を勤め先のビルまで持ってきたところだった。朝から突然言われて、慌てて実家に亮を預け、無事その役目を終えた彼女は一息ついてから帰ろうとしていた。だが、聞きたくもない話題が偶然耳に飛び込んできてしまい、立ち往生を余儀なくされる。
仕方なしにその場に留まることにした。話をしている社員たちは、恐らく省吾や秋名と近い関係なのだろう。「知ってる」と返した女性が続ける。
「たしか、もうすぐ一歳になるのよね」
「そうそう。秋名さん、しばらく傷病で休んでたっていうけど、出産でしょ? あれ、絶対副社長の子どもよね。この間、ショッピングモールで見かけたもん。驚いて何度も見たから間違いないよ」
その言葉に、ドクンと鼓動が跳ねる。すでに知っている事実でも、他の人から、しかも会社の人からの言葉で聞くのはやはり緊張する。体が強張る中、外では新たな声が加わる。
「え、岡本副社長の子、来月一歳だって言ってなかった? もしかして結婚後すぐ不倫したってこと?」
「どうかな。最初から付き合ってたんじゃないの? 同時進行って感じ。ほら、相性が良くなかったってだけでさ」
それより、と落ち着いた女性の声が言った。
「次の会議、誰が議事録だっけ? 資料って配り終えてた?」
「うわ、忘れてた」
「議事録は私。すぐ行くよ」
早くしよう、と言いながら、彼女たちは出ていく。去っていく足音を聞いて、静かになったタイミングで凛子が個室から出てきた。手を洗いながら、知らずに溜め息を吐く。
「……はあ…」
会社でも知られている関係、二人の浅はかさに怒りを通り越して呆れてしまう。ハンカチで拭きながらも頭を抱えて、けれどふと、ショッピングモールという言葉を思い出した。
省吾は今まで一度もショッピングモールなど、凛子と一緒に行ったことはなかった。結婚するまでは、有名なデートスポットになるような海沿いや観光施設が多く、亮が生まれてからは一度近所の衣料品店に行ったきり。
凛子は勝手に、彼はそういう大衆的な場所にはいかないと思い込んでいた。だが、今の話を聞いた限り、秋名とは一緒に過ごしているようだ。凛子は、ハンカチを握る手に力を込めた。
やはり自分はただ、跡取りを生むだけに結婚しただけだった。
だが同時に思う。そんなに秋名のそばで過ごしたいのなら、希望通りにさせてあげる、と。
凛子は目の前の鏡を見つめる。その瞳は鋭く輝いていた。
* * *
凛子がビルから出ると、ちょうど省吾が出先から戻ってくるところだった。彼は妻を見かけると近づき不満を口にする。
「まだいたのか。亮はまた実家に預けたのか? 母親の自覚はあるのか?」
どの口が言う、と思いながら、凛子は「すぐに戻るわ」と答えた。
「それより今日は約束通り早く帰ってこられるのよね? 会合が始まる前に、壮士お義父さまにご挨拶したいの」
岡本壮士は現当主で、省吾の父だ。今回の縁談を水面下で押し進めたのもあって、凛子と亮のことには誰よりも気にかけていた。
本来であれば、一週間後の亮の誕生日にゆっくり会える予定だった。だが、その予定が潰えた以上、最後に義父に会えるのは今夜しかなかった。
自宅からほど近いホテル開かれる会合。その合間の時間に挨拶だけ、と凛子は思っていた。詳しいことは言えないが、せめて顔だけでも見せたい。
凛子の問いに、省吾は軽く答える。
「ああ、もちろんだ。君は先に行っていてくれ。俺は寄るところがあるからな」
「……東郷さんのところ、かしら?」
もう一週間もすれば離婚になる。そのためにも二人の不倫を一族の前で暴露するつもりで、それまでは警戒されるようなことは言わない。そう決めていたはずなのに、凛子は口を滑らせてしまう。そんな衝動的な行動をしたのは、直前に耳にした話のせいかもしれない。
言った直後、凛子はハッとする。対して、省吾は眉間に皺を寄せた。
「なぜアイツのところに? そんな話をしたか?」
「さ、さっきお手洗いを借りたの。そこで二人がよく一緒にいると聞いたから」
「誰がそんなことを……とにかく、秋名と会う予定はない。バカなことを言ってないで、君はもう帰れ」
「そうよね。よく考えたら、おかしな話だし。どちらにせよ、もう関係ないのだから、そうさせてもらうわ」
それじゃあ、と身を翻す凛子。踏み出す寸前、腕をグッと掴まれてバランスを崩してしまう。
「っ!」
トンっと抱き留めたのは省吾。思わず凛子が見上げると、彼は酷く顔を顰めた。
「関係がないと聞こえたが。どういう意味だ?」
「……え? あ……」
自分のことなど気にしてないと思っていた凛子は、油断してしまったらしい。軽く出した言葉に反応されて戸惑う。返す言葉もすっかり抜け落ちてしまった。それでも言い訳めいた言葉を手繰り寄せる。
「それは……もうあなたと結婚してるし、私には関係ないかなって」
「そうか。ならいい。引き留めて悪かったな」
そっと凛子から離れて省吾が背を向ける。そのまま彼はビルに入っていった。残された凛子の心臓は驚きや緊張がまだ残っている。いつまでもドキドキと騒ぎ立てたまま、収まる様子がない。彼女は、落ち着かせるように大きく息を吐き出した。
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