離れて後悔するのは、あなたの方

翠月るるな

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「省吾……正直に言え。この書類は本物か?」
「いえ、それは……だから」

 省吾は震え、手に汗をかき、顔色を悪くして口ごもる。だがそれを許さないように壮士が怒鳴り付けた。

「省吾!!」
「! も、申し訳ありません!」

 弾かれた様子でピンと体が強張り、彼は慌てて床に崩れ額を擦り付けた。壮士がわなわなと震え、今にも殴りかかりそうだった。

 それを止めたのは凛子だった。

「お義父様。安心してください。この件の損失はこちらで回収済みです」

 一瞬、動きを止めて、ゆっくりと凛子を見る。壮士は、会社員時代の凛子を思い出した。役員会にまで名が出ていた日和凛子。数々の事業案を出しながらも、細かな配慮で取引先からも覚えられている人物である。それもあって、省吾の嫁と認めた。やはりその判断は間違いなかったようだ。

 彼は大きく呼吸をすると、ホッとした顔をする。

「さすがは凛子さんだ。あれはもう見過ごせない金額だったからな。だがまさか、こんな形で探していた書類を手にするとは思いもしなかったぞ、省吾」

 そう言って、再び省吾の方を睨み付ける。彼は呆然と凛子を見ていたが、その視線に気づくと、また床に頭を擦り付ける。

 壮士は不快そうに眉根を寄せたが、凛子に視線を戻すと表情をやわらげた。

「して、その回収した金はどこに。すでに戻してあるのか?」

 壮士の言葉に凛子は緩やかに首を振る。「その前にこちらを」と渡された書類は契約書だった。何かを売り渡す内容のようだが、壮士はざっと流し見ただけで凛子に目を戻す。

 彼女は「良く見てください」と促した。

「それはコピーですが、すでに原本は先方に渡っています。東郷さんが郵送した海外の取引先に」
「藤堂!」
「はっ!」

 すぐに藤堂が壮士の眼鏡を渡す。受け取った彼はその紙をしっかりと読み直した。そこには省吾の持つ子会社の一つを売り渡すといった内容が綴られている。

 それも省吾のサイン済みで。事態の深刻さに秋名が震え始める。一歩二歩下がったところで壮士の怒鳴り声が再び響いた。

「なんてことをしたんだ省吾!!」
「ま、待ってくれ父さん! それはなんだ? 見せてくれ」

 動揺しながらも省吾が立ち上がり、書類を見る。秋名はその隙に身を翻し、逃げ出そうとした。しかし、段差につかえて転んでしまう。

「っ!」

 ドタンッと秋名の後ろで、省吾が驚愕している。そして「どういうことだ!」と言った。

 ズンズンと秋名の傍までいって腕を掴む。
 
「おい、なぜ俺のサインが入ってる!?」
「いたっ! 離して! あなたがくれるって言ったお金がなかなか手に入らないから、仕方なかったのよ! よく読まずにサインしたあなたが悪いんでしょう!? 子会社の一つくらいいいじゃない!」
「なんてことを言うんだ!!」

 壮士が声を荒らげ、省吾が秋名を揺さぶる。秋名は逃れようとがむしゃらに腕を動かした。その中で凛子が静かな声を出す。

「ですが、まだ間に合います」

 さほど大きくはない、その声が響いたように聞こえた。ピタリと止まる省吾が、秋名から手を離して「なぜだ」と聞く。

「ちょうど書類を受け取ったのが、私の知り合いだったの。用事があって連絡したら届いたって教えてくれたわ。だから、手違いかもしれないから一旦持っていてって頼んだのよ」
「なんだ……」

 一気に気が抜けたのか、大きく息を吐いてヘナヘナと座り込む。「悪いな」と省吾が言う。

「今回ばかりは助かった。早くソイツに連絡を取ってくれ。返送はすぐだよな」
「その前にやることがあるわよ、省吾」
「何を」

 凛子が弁護士の藤波を呼ぶ。本来であれば、彼女はとっくにこの場を離れていた。すでに今ごろは両親と息子と新たな土地で過ごしていたはずだった。

 その代わりに、藤波が一連の証拠を出し、二人の間を公表し結婚生活を続けられないと周りに思わせてから、後日離婚を請求するつもりだった。

 しかし、図らずも秋名に見つかり、無理やり連れ出されてしまう。そのために不快ではあったが、凛子は同時にチャンスとも思った。

 藤波が取り出した離婚届一式、省吾に書かせるつもりの書類を差し出す。

「これを書いて。そしたらすぐに返送してもらうわ」
「なんだこれは……!」

 封筒を覗き込んで目を見開く。顔を上げて眉根を寄せて、「本気か」と返した。

「本気で別れるつもりか」
「ええ」
「経済力もないのにやっていけるのか?」
「もう勤め先は決まってるわ」
「亮を……片親にするつもりなのか」
「……」

 最後まで凛子の悩んでいたことを口にする省吾。自分の身勝手で父親を奪ってしまうと、自身を責めたこともあった。だが彼女は一度目を閉じて、再び強い視線を省吾に向ける。

「そう、私はもう決めたの。あなたとは別の道を行くと」
「凛子……」
「とにかく離婚届だけ先に書いて。そうすればすぐ向こうに連絡を取るわ」

 後の書類は不服があれば、弁護士を通して聞く、と彼女は言う。二人の様子を見ていた壮士が「早くしろ」と急かした。

「お前の落ち度だろう。責任を取らないか」
「でも父さん……」
「藤堂」
「はい。すぐに」

 後ろに控えていた藤堂は前に出ると、胸ポケットのペンを取って、腕に持っていたクリップボードを省吾の前に差し出す。それを見て、省吾が力なく手を伸ばした。

 凛子が優秀とは言え、やはり倅の不祥事を隠したかったのだろう。それに、二人が離婚しても最悪、水樹がいる。後継にするには何も問題ない、と踏んだ壮士は短く「書け」と言った。

「っ、……」

 省吾は震える手でペンを握り、離婚届に重ねる。凛子がジッと見つめる中、彼は悩むように唸り始める。そうして、しばらく逡巡したものの結局一文字も書けず、そっとペンを置いた。

「……出来ません」

 壮士が眉間にシワを寄せる。口を開けかけたが、その前に凛子がカッとなって前のめりになった。咄嗟に藤堂が引き留める。だが、感情が爆発して激しい言葉をぶつける。

「出来ない!? あなたの名前を書くだけよ! 何を躊躇う必要があるのよ!! ことあるごとに秋名と比べ、挙げ句犯罪に手を染め、それでまだ私を縛るつもり!?」

 今まで見たことのない妻の姿に、ギョッとした省吾は戸惑いながら反論し始めた。

「凛子、違うんだ! 聞いてくれ! これは魔が差したというか、お前といられない寂しさがあって……それに、養うためには金が必要で、秋名の策に乗ったが買収は決して俺じゃない! 気持ちだってないんだ! あくまで」
「気持ちがないなんて! 省吾さん! なんてこというの!? あんなに愛してるって言ったじゃない!」
「勝手なことをしたお前が悪いんだろう!」

 騒ぎ始めた二人に壮士が頭を抱える。そして「静かにしろ!」と一喝した。

「省吾、貴様は早くサインしろ。君はひとまず離れなさい」

 壮士に促されて、秋名は少し距離を取る。だが、突然キッと凛子を睨み付けた。

「たかが遺伝子なんてもので岡本グループに入っただけの女が! 結局捨てられたじゃない! 早く消えなさいよ! 愛されてもいないくせに!!」

 殴りかかろうとしたところを、傍にいた弁護士の助手の吉井が止める。彼女はキリキリと歯を噛み締めた。その姿を見ながら凛子はスッと視線を省吾に向けた。

「短い間だったけれど、世話になったわ。書類は藤波さんに渡して。あと、最後にプレゼントを残しておいたから受け取って」
「凛子……今さらかもしれないが、すまなかった。もうやり直すことは出来ないのか」
「ええ、そうね。とにかく私はもう行くわ」

 さよなら、と言って、壮士に「失礼します」と頭を下げる。すると、省吾が未練がましく腕にすがって膝をついた。

「凛子! 頼む! 許してくれ!」
「いい加減にして。手を離して」
「省吾さん! なんでそんな女に! 生意気だって言ったじゃない!」

 秋名が省吾に掴みかかる瞬間を逃さず、凛子はサッと離れる。軽く身なりを整えて、そのまま騒然とする会場を背に彼女は出ていった。
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