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十九、偽りの花嫁
しおりを挟む――夢を見ていた。
僕は何かを必死に叫んでいた。
嵐の中、大切な人を探して一心不乱に叫び続けている。
どうしてだかわからない。
誰を探しているのか。
どこを彷徨っているのか。
恐らく、尋ねられたとしても何も答えることが出来なかったろう。
しかし、その人を失くすことは、僕の人生は終わりにも等しい。
あまりにも現実味を帯びた絶望が、僕を包んでいた。
それは例えるなら、豪雨の中、川べりに大切な人が乗っていた歪んだ自転車が雨に打たれているかのような。
屋上の淵に、好きな人の靴が並んで揃えてあるかのような、生々しい絶望。
探しているのは誰だかわからない。
ただ、とても大切な人だ。
それだけは、この震える手と声からもはっきりとわかる。
両腕で霧の中をもがきながら歩き続けているみたいだ。
足も限界になった頃、焦燥に駆られて思わず地面に呟いた。
「見つからないかもしれない……」
自身の口にした言葉が、僕の影を夜へと変えていく。
そして、僕はとぷんと闇の中に吞み込まれた。
* * *
冷や汗を流しながら飛び起きる。
呼吸がうまく出来ない。
吸って吐いてのタイミングがままならない。
は、は、と荒く吐き出す息と、酸素を取り込もうとする身体が噛み合わず、激しい咳を引き起こした。
「――柚!」
寝台の傍ら、眠っていたアルが起き上がる。
(良かった……。夢だ)
先ほどの悪夢はすべて絵空事だったのだ。
そう思うには、鉛のように重いものが沈殿している。
「ごめんね……、アル。起こしちゃ……っ、よ、ね……」
アルが居てくれたことが嬉しくて、けれど起こしてしまったのが申し訳なくて、微笑する。
更に深い咳が喉をせりあがった。
「お前が目を覚ますかと思ってここに居たんだ! 大丈夫か。今医者を呼んで来る」
アルは僕の髪を撫でた。
まだ夜明け前だ。
辺りは薄暗く、太陽はまだ顔を出さない。
背を向けたアルは、薄明りの中に溶け込んで消えてしまいそうに見えた。
僕は思わず、アルの逞しい手首に両手で縋った。
「行かな……で」
「柚?」
アルは驚いて振り返る。
「大丈夫、だから。アル――お願……い。ここに、いて」
アルは呆然と呟く。
「柚。どうして――泣いているんだ」
気付けば瞳から涙が溢れていた。
アルは少し迷って、ベッドの脇に腰を下ろした。
「本当に、医者を呼ばなくて良いのだな」
「ちょっとだけ……喘息気味なだけだから……」
アルは、イスハークが用意してくれたというレモン水を手渡してくれた。こくりと少しずつ飲む様子を、アルは不安そうに見守っている。
「何かして欲しいことはないか」
「――大丈夫。驚かせてごめんね」
まだ手が僅かに震えている。
しかし、笑みを浮かべて悟られまいとした。
アルはぐいと、自身の胸に僕を抱き込んだ。
何も出来ないことを悔いるように、秀麗な面差しを歪ませる。
喉の奥から絞り出すようなアルの声が、薄暗い部屋に響いた。
「お前は強がり過ぎる。無理をしているのが丸わかりだ。もっと俺に頼れ。俺に何でも我儘を言え。俺なしでは――息も出来なくなればいい」
「それは……だめだよ。アル様に、迷惑が掛かっちゃう」
抱き締められて、驚くと同時に何故か安堵していた。
「何かして欲しいことを言え。この際何でも聞いてやる。豪奢な宝石でも、日本の食べ物でも何でもいい。車でも、家でも何でも与えてやる。――お前は何が欲しいんだ」
わからない。
僕は何が欲しいのか。
ただ幸運を求めて、生きて来た。
――それだけだ。
しかし、今この瞬間に欲しいものならば、決まっていた。
ぽつりと、僕の唇は言ってはならぬ言葉を紡ぐ。
「……アルに、陽が昇るまで、こうして抱き締めていて欲しい」
「そんなこと、いくらでもしてやる」
鍛え上げた腕が、少し強引に僕を抱擁する。
肌寒い気温の中、アルの腕の中は温かかった。
アスアドを裏切ったわけではない。
けれど、アルに出逢ってしまった。
僕は、本当に、アスアドに嫁ぐことが出来るのだろうか。
アルに、笑ってお別れを言えるのだろうか。
しかしいずれ、そうせざるを得ないときはやって来る。
笑顔を張り付けて、嘘を吐く。
「アスアド様に嫁げて幸せです」
そう、笑って告げるときが来る。
僕は――偽りの花嫁だ。
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