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四十二、草原からの使者【Ⅲ】 《過去篇》
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淡い紫色の長い髪は艶やかな藤色、肌は透き通るような白磁の肌。瞳は見惚れるような氷青色。
体つきは華奢で、一人称が「僕」でなければ少女だと思ったかもしれない。
イシュタルという、愛と豊穣、戦と金星の女神の名を冠されているのは、彼の外見があまりにも可憐であるせいかもしれない。
ユースフはハッと正気に戻って、村長に教えられた挨拶を述べた。
「ワシはユースフと申す者じゃ。未来永劫、ムガール帝国と貴国が繁栄するよう、特使としてやって参った。何卒よろしく頼む」
ユースフに付き従っていた衛兵が、思わずといった様子で、噴き出した。どうやら悪気がなさそうなのが、逆に始末に悪い。
その場に居た王と皇后は流石に噴き出すことはなかったが、皆笑いを堪えるか言葉を失くしている。
イシュタルはきょとんとした表情をしていて、ユースフは村長の外国語教育の失敗を悟った。
(あんなにスパルタだったのに村長~~~~!!)
教え込まれた時間がすべて無駄だったかと思うと泣きたい。
「あの……」
せめておかしな言葉でも、お詫びの言葉を述べようとしたところだった。
イシュタルだけが、きらきらとした尊敬の瞳でユースフを見つめている。
「――イシュタル様?」
「古の大魔法使いみたい……。カッコイイ……!」
イシュタルは興奮した様子で、ユースフに問いかけた。
「ねえ、その言葉誰に教えて貰ったの!? あっ同じ年だから敬語じゃなくていいかな? 凄いね! この国の言葉を勉強してきてくれたんだ!?」
イシュタルは本気で感動しているらしい。
「我が国の村長に……習ったんじゃが……」
「それで大人っぽい話し方なんだね! 凄く素敵!」
素敵なことがあろうか。
衛兵を始め、王と皇后さえも絶句する挨拶をしたのだ。
「あの、本当にすまんのう。言葉遣いがおかしければ、きちんと覚え直すつもりじゃ。ワシに教えてくれんかの」
「教えるのは構わないけれど、全然おかしいことはないよ。少しご年配のお話の仕方なだけ。でも恰好良いよ。いずれ年齢の方が、話し方に追い付くさ。僕は君の喋り方、好きだな」
「そ、そうかの?」
「うん。僕、学校にも行っていないから、外の世界を知らないんだ。ユースフ様。僕に色々教えて欲しい」
擦れたところの一つもない、あまりに純粋な瞳にユースフはたじろいだ。
(これが王族……? 本当に、王の息子だろうか。今時遊牧民族だって、もっと世間のことを知っているのに)
知略謀略渦巻く、王宮とは一体何だったのか。
――いや、油断するな。
もう一人の自分が、心の中で冷たく告げた。
これが作戦かもしれない。
ユースフを油断させて、わざと無礼な振る舞いを誘い、スパッと首を斬る為の嘘かもしれない。
――心を許すな。
自分はたった一人で異国の地にやって来た、侵入者なのだ。
王も皇后も、そしてこの王子も、優しそうに見せかけて実際何を考えているかわからない。
所詮この国は、ムガール帝国を属国にしようという腹でしかない。
何故なら、ユースフの一番大事な名前すら、奪っていくのだから。
* * *
宴や食事会が催され、ユースフは、気が付けば多くの人が見守る中、王の謁見の間に居た。
ユースフは跪き、肩にはこれまでに見たことのないほど立派な、白い毛皮のマントが掛けられている。
王が巻物を読み上げた。
「ムガール帝国より、平和友好条約特使として貴公を迎える。ユースフ・ムガール。当国からも、友好の証として、貴公の半永久的な当国への滞在を許す。ついては、当国から貴公に、新たな名を授ける。――ユーフォルビア。今後は、貴公の名をユーフォルビア・ムガールとし、我らと共に歩み、互いの国の発展に力を尽くして欲しい」
「――御意」
この日から、ユースフはユーフォルビアとなった。
草原の民、ユースフ・ムガールは、消滅した。
今この瞬間から、ユーフォルビア・ムガールとして生まれ変わった。
もう草木が生い茂る村に帰ることはなく、力強い草原の青い香りを嗅ぐこともない。
同じ言葉を話す、騎馬の得意な同胞は一人としておらず、満天の星の下で、焚火を囲んでヤギのミルクを飲み交わすこともない。
ぐ、とせりあがった嗚咽を飲み下す。
無理やり嚥下したせいで、喉がぐぅ、と低い音が鳴った。
郷愁など、自分には関係のないものだと思っていた。
しかし、二度と帰ることが出来ないと思うと、どうしようもなく恋しかった。
脳裏では、あの青い草原の光景も、草の匂いさえも、触感もすべて完璧に想像出来るのに、もうユーフォルビアの居場所はないのだ。
ムガール帝国の人々は、『ユーフォルビア』という名の少年を知らない。
「立ちなさい。我が国と、友好を誓い合おう」
目の前が真っ暗だ。
光を求めて立ち上がり、目の前にある手に縋りついた。
それは、他ならぬ隣国の王の手だった。
傍目には、ユーフォルビアは、王と誠実に握手を交わしているように見えた。
その姿を、イシュタルは眉根を寄せて、見守っていた。
しかし、この時のユーフォルビアは、生涯帰ることの出来ない郷里に、思いを馳せることで精いっぱいだった。
これからは、この国で生きていくしか、選択肢はない。
例え、手足を引きちぎられても、首をもがれたとしても。
――ユースフ・ムガールは、今日、死んだのだから。
ふと、ユーフォルビアは気付いた。
(ああ、今日は雨か)
ゲルの中で過ごすしかない、鬱屈とした一日を思い出した。
草原にも雨は降る。
それは、期せずして、友好条約締結を果たした王宮の、拍手の音であった。
体つきは華奢で、一人称が「僕」でなければ少女だと思ったかもしれない。
イシュタルという、愛と豊穣、戦と金星の女神の名を冠されているのは、彼の外見があまりにも可憐であるせいかもしれない。
ユースフはハッと正気に戻って、村長に教えられた挨拶を述べた。
「ワシはユースフと申す者じゃ。未来永劫、ムガール帝国と貴国が繁栄するよう、特使としてやって参った。何卒よろしく頼む」
ユースフに付き従っていた衛兵が、思わずといった様子で、噴き出した。どうやら悪気がなさそうなのが、逆に始末に悪い。
その場に居た王と皇后は流石に噴き出すことはなかったが、皆笑いを堪えるか言葉を失くしている。
イシュタルはきょとんとした表情をしていて、ユースフは村長の外国語教育の失敗を悟った。
(あんなにスパルタだったのに村長~~~~!!)
教え込まれた時間がすべて無駄だったかと思うと泣きたい。
「あの……」
せめておかしな言葉でも、お詫びの言葉を述べようとしたところだった。
イシュタルだけが、きらきらとした尊敬の瞳でユースフを見つめている。
「――イシュタル様?」
「古の大魔法使いみたい……。カッコイイ……!」
イシュタルは興奮した様子で、ユースフに問いかけた。
「ねえ、その言葉誰に教えて貰ったの!? あっ同じ年だから敬語じゃなくていいかな? 凄いね! この国の言葉を勉強してきてくれたんだ!?」
イシュタルは本気で感動しているらしい。
「我が国の村長に……習ったんじゃが……」
「それで大人っぽい話し方なんだね! 凄く素敵!」
素敵なことがあろうか。
衛兵を始め、王と皇后さえも絶句する挨拶をしたのだ。
「あの、本当にすまんのう。言葉遣いがおかしければ、きちんと覚え直すつもりじゃ。ワシに教えてくれんかの」
「教えるのは構わないけれど、全然おかしいことはないよ。少しご年配のお話の仕方なだけ。でも恰好良いよ。いずれ年齢の方が、話し方に追い付くさ。僕は君の喋り方、好きだな」
「そ、そうかの?」
「うん。僕、学校にも行っていないから、外の世界を知らないんだ。ユースフ様。僕に色々教えて欲しい」
擦れたところの一つもない、あまりに純粋な瞳にユースフはたじろいだ。
(これが王族……? 本当に、王の息子だろうか。今時遊牧民族だって、もっと世間のことを知っているのに)
知略謀略渦巻く、王宮とは一体何だったのか。
――いや、油断するな。
もう一人の自分が、心の中で冷たく告げた。
これが作戦かもしれない。
ユースフを油断させて、わざと無礼な振る舞いを誘い、スパッと首を斬る為の嘘かもしれない。
――心を許すな。
自分はたった一人で異国の地にやって来た、侵入者なのだ。
王も皇后も、そしてこの王子も、優しそうに見せかけて実際何を考えているかわからない。
所詮この国は、ムガール帝国を属国にしようという腹でしかない。
何故なら、ユースフの一番大事な名前すら、奪っていくのだから。
* * *
宴や食事会が催され、ユースフは、気が付けば多くの人が見守る中、王の謁見の間に居た。
ユースフは跪き、肩にはこれまでに見たことのないほど立派な、白い毛皮のマントが掛けられている。
王が巻物を読み上げた。
「ムガール帝国より、平和友好条約特使として貴公を迎える。ユースフ・ムガール。当国からも、友好の証として、貴公の半永久的な当国への滞在を許す。ついては、当国から貴公に、新たな名を授ける。――ユーフォルビア。今後は、貴公の名をユーフォルビア・ムガールとし、我らと共に歩み、互いの国の発展に力を尽くして欲しい」
「――御意」
この日から、ユースフはユーフォルビアとなった。
草原の民、ユースフ・ムガールは、消滅した。
今この瞬間から、ユーフォルビア・ムガールとして生まれ変わった。
もう草木が生い茂る村に帰ることはなく、力強い草原の青い香りを嗅ぐこともない。
同じ言葉を話す、騎馬の得意な同胞は一人としておらず、満天の星の下で、焚火を囲んでヤギのミルクを飲み交わすこともない。
ぐ、とせりあがった嗚咽を飲み下す。
無理やり嚥下したせいで、喉がぐぅ、と低い音が鳴った。
郷愁など、自分には関係のないものだと思っていた。
しかし、二度と帰ることが出来ないと思うと、どうしようもなく恋しかった。
脳裏では、あの青い草原の光景も、草の匂いさえも、触感もすべて完璧に想像出来るのに、もうユーフォルビアの居場所はないのだ。
ムガール帝国の人々は、『ユーフォルビア』という名の少年を知らない。
「立ちなさい。我が国と、友好を誓い合おう」
目の前が真っ暗だ。
光を求めて立ち上がり、目の前にある手に縋りついた。
それは、他ならぬ隣国の王の手だった。
傍目には、ユーフォルビアは、王と誠実に握手を交わしているように見えた。
その姿を、イシュタルは眉根を寄せて、見守っていた。
しかし、この時のユーフォルビアは、生涯帰ることの出来ない郷里に、思いを馳せることで精いっぱいだった。
これからは、この国で生きていくしか、選択肢はない。
例え、手足を引きちぎられても、首をもがれたとしても。
――ユースフ・ムガールは、今日、死んだのだから。
ふと、ユーフォルビアは気付いた。
(ああ、今日は雨か)
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