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六十、攫われた花嫁
しおりを挟む「じゃあ、アル。今後、柚はこちらで預かるね。今まで柚を守ってくれてありがとう」
辺りが夕焼けに染まった中、アスアドはその化身かのように、同色の髪と瞳を艶めかせた。
いよいよ、アルと別れるのだ。
その覚悟を、僕は未だ決めることが出来ていない。
しかし、別れ際に縋りついて、これ以上アルを困らせることはしたくない。
「アル様、これまで本当にありがとうございました。沢山ご迷惑をお掛けしてしまって――千夜一夜祭のあとの仕事の邪魔まで――ごめんなさい」
いつもは不敵なアルが、珍しく苦々しい顔つきで僕を見据えた。
「――柚……」
僕を見つめる精悍な顔立ち、鍛えた逞しい体躯。
厚い胸板。
夜明けの空のような目の醒める紫紺の髪色も、紫水晶の瞳も。
何もかもが好きだった。
周囲を巻き込む獅子のような、アルの野心的な振る舞いさえも。
ああ、今ならはっきりとわかる。
(アルが、僕の結婚相手なら――良かったのに)
過ぎた願いだ。
異国の地で犯されそうになり、それを助けられただけではなく、妻にして欲しいだなんて、言えるわけがない。
本来の夫であるアスアドが見つかって、僕を引き取るというだけで、もう充分なはずなのだ。
「柚――本当に、良いのか」
アルの問いかけに、静かに、僕は頷いた。
「何か必要なものがあれば準備させる。だからそんなに急がなくても良いのだぞ」
アルはそう言って僕の両肩に優しく手を置いた。
しかし、アスアドは本来忙しい身で、時間稼ぎをするつもりなら、婚姻はなかったことにするとハッキリ言われている。
どこか苛立ったような、アスアドの言葉が割って入った。
「アル。心配は不要だよ。うちで必要なものは準備が可能だ。それぐらいの財力は、持ち合わせているつもりだよ」
「アスアド。そういうつもりでは――」
このままではアルとアスアドの関係に亀裂が入ってしまう。
僕は空元気とも取れる声を発した。
「平気だよ。善は急げって言うし――早くしないと、決心が鈍っちゃうから。――ありがとう。アル」
泣いてはだめだ。
そう思ったが、瞳に涙の膜が張ることだけは、止められなかった。
「まったく。アル。何て顔をしているの」
まるで幼い子どもを諫めるかのように、アスアドはアルの頬を両手で包んだ。
(この二人って一体どういう……関係なんだろう)
日本でいう近所付き合いのある他人だと思っていたのだが、どうもそれだけとは思えない親密さだ。
「――誰しも選ばれないことはある。それが今回は君だったというだけの話だ。かくいう私だって、その経験はあるのだから」
一体何のことだか、僕にはさっぱりわからない。
アスアドがちらりと、ごく一瞬、イスハークに視線を向けた。
イスハークは何とも気まずそうな面持ちで、アスアドから視線を逸らす。
「アスアド……貴様っ!」
アルが愚弄されるのは我慢ならぬとばかりに声を上げると、アスアドはころころと笑った。
「また近いうち、こちらにも遊びに来ると良い。いつでも歓迎するよ。――じゃあ、行こうか柚」
「待っ……!」
アルの声を背に、僕は騾車に詰め込まれた。
「早く出発しないと夜が来てしまう。あまり遅くなってもいけないからね」
「柚……っ!!」
アルが叫ぶも、扉の前にはアスアドが座っており、外に出ることは不可能だった。
アスアドは優雅に足を組むと、馭者に告げた。
「出してくれ」
急発進すると同時に、少し強い風が、周囲に吹き荒れる。
砂埃で、アルの姿も朧気になる。
急がせているせいか、騾車はあっという間に別荘から遠のいていく。
「君との婚姻の準備をしなくてはいけないね。まあそんなに派手にはしないけれど、けじめとして挙式はしているから」
アスアドは、夕闇を忍ばせるような凪いだ笑みで、ゆっくりと口角を上げた。
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