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六十九、密談
しおりを挟む「まったく……柚がこうも煮え切らないとは思わなかったな。余程あの男が恋しいのか」
目の前に横たわった柚を見下ろし、アスアドを名乗る赤髪の男は、溜息を吐いた。
柚を手刀で昏倒させた当の本人だ。
細身だが武術の心得はある。
それは彼の家柄ゆえ、叩き込まれた体術の一つだった。
「貴方様の御寵愛を受けられるなら、この国では泣いて喜ぶ者しかおりません。余所者ゆえ、その価値が理解出来ないのでしょう」
執事が応えると、やれやれと言わんばかりに髪を掻き上げた。
「わざわざ婚姻届の偽造書類まで作成したというのに。この用紙には間違いなく入館許可証と書いてあるのに、妙に用心深い花嫁だ。――日本人とは、皆そうなのか?」
「ここまで来れば、婚姻届が偽造かどうかはもはや問題ではございません。それよりも、貴方様と一週間の蜜月を過ごしたという既成事実の方が重要でございましょう」
「それもそうだな。我が国は、婚姻前の神に祈る期間、『禊』を最も重要視する。その期間を完遂出来た二人のみが結婚に至ることが出来る。ある意味、結婚式当日より重視されるものだ。それさえ整っていれば、他の男に持って行かれることはまずない。――恐らく、柚はそれを知らない」
執事は深々と拱手した。
「なれば、今すぐすべての扉という扉を締め切って、見張りを立て、禊を始めましょう。婚姻届の方は、私の方で用意させていただきます。何者かの邪魔が入ります前に、お早く」
急かすように、執事は勧める。
「そうだな。それがいいだろう」
赤髪の男も頷いた。
開け放された扉から見えるのは、果てのない暗闇だ。
夜の闇に紛れて獅子が飛び出すことを恐れるかのように、男は入り口を凝視したままだ。
だが、獅子は飛び込んで来ることはなかった。
「――杞憂だったか」
倒れた柚を、そっと抱き上げる。
「間に合わなかったようだな。アスアド。柚は私が貰うぞ」
男は、勝ち誇ったようにふ、と笑んだ。
「柚の花婿は、このナースィフ・イル=アズィーズだ」
男は笑い声を上げた。
まるで、勝ち鬨のように。
重い鉄の扉が閉まる音が、夜の空に響き渡った。
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