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六十八、躊躇(ためら)い
しおりを挟むアスアドに連れられ、夜の散歩の終着点に着いた。
目の前には、紫禁城に負けず劣らずの、巨大なアラブの宮殿が聳え立っていた。白と金色のコントラストが夜目にも眩しい。
とうとうここまでやって来てしまった。
このままアスアドと婚約して良いものかどうか。
(僕は、本当に後悔しないのか?)
ここに来てからずっと、自分に問い続けている。
「さあ、ここが我が家の一角だよ。儀式は先ほど降り立った、正面の建物を使うけれど、婚姻の儀も初めはこちらで行う。まあ、七日間の神への禊はあくまで私的なものだからね。人目につかないようにするんだ」
アスアド曰く、紫禁城のような建物は、結婚式用ということらしい。
「これから一週間、私たちは夫婦となるため、他の誰にも逢わず、互いだけを見つめ合うんだ。日本にはこういう習慣はないらしいね」
扉の前には、老年のアスアドの執事が待ち構えていて、深々と礼をする。
「お待ちしておりました。準備は整ってございます。これより、アスアド・アズィーズ様、並びに天宮柚様の婚姻の準備を執り行わせていただきます」
臆する僕を気にも留めず、アスアドは一切の躊躇いもなく、明るい扉の方に向かっていく。
「ご苦労だった。――書類は、用意出来ているか」
「ここに」
「――書類?」
一体何の書類だろうと思わず口にすると、アスアドはその顔に笑みを張りけたように振り返った。
「建物の使用許可だよ。一週間も貸し切りにしてしまうからね。誰がどう使っているかの管理表だ」
「そう、ですか」
扉の中に入ると、外装と同じように、煌びやかな内装で目がチカチカする。扉を真っ直ぐに何メートルか進むと、大きな祭壇に行き当たった。
その真下に、作られた台に、入館管理許可表と書かれた紙があった。
「では、柚から名前を書いてくれるかな」
ペンを渡され、書類に記載するよう促された。
けれど、僕には、その名前を書くことが出来なかった。
カタカタと、ペンを持つ手が震える。
「――柚? どうかしたかい? 早く――」
「これって……婚姻届みたいなものですよね……。書いてしまったら、もう――」
青ざめている僕に、アスアドは苦笑する。
「ただの入館許可証だよ。名前を書くだけでいい」
しかし、僕にはどうしても決心がつかなかった。
あと一日でもいい、考える時間が欲しい。
「でも……っ、アスアド様、申し訳ありません! やっぱり……もう少しだけ……待っていただけませんか……? 僕――ッ」
トン、と首の後ろに鋭い刃物が落ちたような気がした。
次の瞬間、僕はかはっ、と声を発し、冷たい地面に倒れ伏す。
(まさか……っ)
アスアドに、昏倒させられたのだ。
意識が段々と遠のいていく。
瞬きを一度すると、次の瞬間には暗闇の中に放り出されていた。
(アル……!)
どうしてか、アルの笑顔が脳裏をよぎる。
アルにもう一度会いたかった。
このままでは、強制的に結婚させられてしまう。
助けて、という言葉は、もはや誰にも届かなかった。
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