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九十六、王の選定(9)
しおりを挟む自分の命と等価交換の忠義など、ありはしない。
特に幼い子どもであれば、泣きながらその場を退くだろう、と思った。
しかし、イスハークは白い上着が砂漠の泥に汚れることにも一向に構わず、ますます深く頭を下げた。
「私の命を、ナースィフ皇太子殿下がご所望であれば」
その言葉に、僕は目を瞠った。
「正気か」
「勿論でございます」
「なっ、ナースィフ皇太子殿下! どうかそれだけは!」
涙声で取り押さえられている、同じく白いコートの男は、どうやらイスハークの父親らしかった。
「何故、死を厭わん。お前はその年齢で調査官を務められる者だろう。ならば、こんなところで命を落とすわけにはいかないと思わないのか」
尋ねると、イスハークは、そこで初めて考え込む素振りを見せた。
眉根を寄せて、口元に手をあてる。
まったくおかしいほどに冷静な子どもだった。
「そうですね……。特に己を軽んじているわけでも、生き急いでいるわけでもございません。いえ、私自身の命は、とても大事なものだとわかっています。父上や――家族も、私を大切にしてくれている。だからこそナースィフ皇太子殿下に、捧げる価値があると判断しました」
「なに?」
「自らの命を塵芥のように思っている者の命など、何の価値もありませんでしょう。私自身の命の価値が高いからこそ、アスアド様が助けたいと願う獅子の命を、助けられる可能性があると判断しました」
「もし、私の命でもって、獅子を助けることが出来れば、アスアド様の望みは叶います。それは、私の命がなくてはできなかったこと」
「――イスハーク、止めろ。お前の命を犠牲にしてまで、やり遂げたいことなどない」
アスアドが、静かに制止の声をあげる。
イスハークは、くるりとアスアドを振り向いた。
「では、民の被害が出る度に、貴方は何かを諦めるのですか。堤防を作るとき、誰かが事故に遭うからと、堤防作りを止めるよう仰るおつもりですか」
「それは」
アスアドは言葉に詰まる。
水害の際、街を守る堤防は、なくてはならないものだ。堤防づくりは大規模な工事ゆえ、毎回怪我人や死者が必ず出る。しかし、決して頓挫してはならない類のものだった。
「アスアド様。迷わないでください。中途半端では、きっと何事も成し遂げられません」
獅子の子を抱いて、アスアドはゆっくりと立ち上がった。
「兄様、俺はこの獅子を連れ帰ります。元気になるよう、世話をします。そしてイスハークも――無傷で、返してください。我儘だとわかっています。しかし……天命に背かぬ限り、俺は強欲であり続ける」
「アスアド……」
目に力がみなぎっている。
アスアドに、神の力でも乗り移ったかのようだった。
「若。どうもひと嵐来るらしい。とっとと退散しねえと危ないかもしれませんぜ」
黄蓋の相変わらず間延びした声が響く。
気付けば上空に鳶の姿もなくなっていた。
「――ならば、イスハーク。お前を殺さぬ代わりに、私を主にするというのはどうだ」
「有難いお申し出ですが――私はさきほど、既に主人を選んでしまいました。主人でもない者のために命を差し出す部下など不要でしょう。それに、貴方には私ではない者の方が、きっといい」
まるで先を知る占星術師のように、イスハークは淡く微笑む。
「貴方と私は、どこか似ている。――似た者同士ではきっと、足りない部分を補い合えない。ナースィフ様にはきっとナースィフ様に寄り添って下さる方の、天命がおありになるでしょう」
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