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第2章 正体不明のDom
07 本能の衝動
しおりを挟む――なんで、あんなことを言ったんだ。
噛みたいなんて、Subの欲求としてどう考えてもおかしい。
男のグレアで朦朧としていたからといって、自分がまさかあんなことを口走ってしまうなんて。
だが、一度口から出てしまったものをなかったことにはできなかった。
特に、目の前にいるこのDomは、純嶺の発言を聞き流してくれそうな雰囲気ではない。全く気乗りしない純嶺とは対照的に、鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌に準備を進めている。
「流石に見えるところに痕が残るのはまずいからな。太腿でもいいか?」
「……まずいなら、やめといたほうが」
「やめねえよ? アンタがせっかくやりたいことを口にしてくれたんだから。アンタはもっと、Subの欲求に素直になったほうがいいと思うぜ?」
純嶺の言葉を遮るようにそう言って、穿いていたジーンズを脱ぎ始める始末だ。
どうして、こんなことになってしまったのか――いや、間違いなく自分の迂闊な発言が原因なのだが。
痛む頭を抱えた純嶺だったが、ふと視界に入ったあるものに目を奪われた。
露わになった男の足だ。
――やっぱり、いい筋肉のつき方だ。
均整のとれた理想的な足だった。
そのしなやかな美しさは、野生の肉食獣を彷彿とさせる。
「何見てんだよ、えっち」
「……っ、そういうわけじゃ!」
「まー、わかるけどな」
――わかるって、何がだ。
この男は時々言っていることがわからなくなる。
話の理解は早いほうだと思うが、こうして曖昧に話をはぐらかせるところがあった。
――そういえば、名前も知らないままだ。
こちらは名前どころかカウンセリングシートに記入したことをすべて知られてしまっているのに、男は名前すら名乗っていない。
そもそも、こういう店で相手に名前を聞くのはルールとしてありなのだろうか。
それすらわからないので、話を切り出すこともできない。
「黙りこくってどうした?」
「いや……別に、話すことなんてないし」
「冷てえな。ま、アンタが居心地が悪いんじゃないならいいけど」
気分としては落ち着かない――が、居心地が悪いわけではなかった。
この男の雰囲気は、どこか安心できる。
DomとSubという関係上、プレイの間は常に緊張を強いられるぐらいの覚悟はしていた。それなのに、この男に対してそんな感情を抱いたのは最初きり。
グレアに対して多少身構えることはあっても、このDom自身に警戒を抱く瞬間は一度もなかった。
「じゃ、始めるか。ほら、《こっち来い》」
「……っ」
「グレア、きつかったか?」
「平気だ……」
不意打ちのグレアは、ふわりと浮かび上がるような不思議な感覚がした。今まで男から受けたどのグレアとも違う感覚だ。
純嶺は腰掛けていたベッドから立ち上がると、おぼつかない足取りで男のほうを目指した。
離れているのはたった数歩の距離なのに、それすらもどかしく思えて仕方ない。
「《いい子》……なぁ、その顔。マジでたまんないんだけど」
「顔……?」
「いや、気にすんな。じゃあ、そこに《座れ》」
男のコマンドに身体が勝手に従う。
純嶺はフローリングの床に、ぺたりと座り込んだ。ひんやりとした床に熱っぽい純嶺の体温が移っていく。
だが、純嶺の視線は男の太腿に釘づけだった。
「俺の足、さっきも見てたけど……結構、気に入ってる?」
こくり、と頷く。
目の前の男の足に、するりと頬を擦り寄せた。
どうして、自分がそんなことをしたのかはわからない。だけど、そうして触れてみたいと思った。
「アンタ、ほんと可愛いわ」
男の指が自分に触れるのも、たまらなく嬉しいと感じる。
でもそんな気持ちと同じだけ、胸の奥に小さなわだかまりようなものが生まれていた。
無視できない居心地の悪さ。
さっきも、全く同じような感覚を覚えた。
そのときに思ったのだ――このDomを噛みたい、と。
自分のうちにあるこの衝動の理由はまだわかっていなかったが、今もまた、それと同じ衝動に駆られていた。
「噛みたくなったか?」
どうして、この男にはわかるのだろう。
純嶺は男の足に身体を擦り寄せたまま、その顔を見上げる。
男も、純嶺のことを見下ろしていた。
「いいぜ。アンタの好きなようにしな」
コマンドでなくても、この男の言葉には素直に従いたいと思ってしまう。従属を望むSubの欲求を抑えることが難しい。
視線を男の顔から足へと移す。
ゆっくりと口元を太腿に近づけた。
噛みつきやすい角度を探すように顔を傾けながら、おそるおそる唇を開く。
「――遠慮なんかすんなよ」
男の声に後押しされるように、顎に力を込めた。
――人を噛むって、こんな感触なんだな。
牛肉や豚肉とは違う。皮付きの鶏肉と少し似ている気もしたが、それよりも張りがあり硬い印象だった。
簡単に食いちぎれそうにはない。
――そんなものを、なんで噛んでるんだろう。
まだ『噛みたい』と思った衝動の答えに辿り着けていない。なぜこんなことをしたいと思ったのかもわからないまま、純嶺は男の太腿に歯を立て続けた。
うっすらと鉄の香りがする。純嶺の歯が男の皮膚を貫き、血が出たのだろう。
そうなっても男は純嶺の行為を止めたりしない。
それどころか、自分に噛みついている純嶺を愛しいと言わんばかりの優しい手つきで撫でまわしてくる。
「……さすがに、痛えな」
そんな独り言すら、声色は優しかった。
――どうして、こんなことを許してくれるんだろう。
Domは相手を痛めつける側の性だ。
そして、Subである純嶺はそれを受け入れる側――だから、こんなことをしてはいけない。おかしなことなのだ。
そんなことはわかっている。
でも、したくてたまらなかった。その理由は――、
「なんで、アンタが泣いてんだよ」
「ふ……ッ」
ぼろぼろと涙があふれて、止まらなかった。
力を入れ続けた顎は感覚が麻痺し始めている。力を抜こうにもうまくいかず、純嶺は困惑したまま、横目で男の顔を見上げた。
相変わらず、サングラスをつけたままの男の表情は読みづらい。それに涙が止まらないせいで、視界もいいとはいえない。
それでも、男の気持ちは伝わってきた。
ずっと感じ続けているグレアも、涙をぬぐう指の感触も――純嶺に優しい感情を伝えてくれている。
「……悪かった……こんなことして」
ようやく、口を離すことができた。
純嶺は俯いたまま、謝罪する。声は涙のせいで無様に震えていた。
「俺がやれって言ったんだ。アンタはそれを守っただけだろ?」
「で、も……」
「欲求に素直になることは悪いことじゃねえって――そう言っただろ? よくできたな。《いい子だよ》、純嶺」
「……っ」
男に名前を呼ばれたことに、一気に感情が高まった。
涙が余計に止まらなくなる。
「ほら、顔上げろよ。泣いてるとこ見せろって」
「……っ、う」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、男を見上げる。
笑いながら身体を屈めた男の唇が、そっと柔らかく純嶺の目尻に触れた。
◇
「何をしているんですか、坊ちゃん」
プレイルームの事務所。
備えつけの棚をガサゴソと漁る怪しげな男に後ろから声を掛けたのは、プレイルームの受付で純嶺を接客した男性――鴻島だ。
その鴻島に坊ちゃんと呼ばれ振り返ったのは、純嶺を相手したDomだった。
「化膿止めってここじゃなかったっけ?」
「それなら、もう一つ上の引き出しですよ……でも、お客様はもうお帰りになったのでは?」
「俺が塗るんだよ」
「坊ちゃんが?」
「血が出るまで噛まれたからな。念のため、塗っといたほうが安心だろ? ……あ、あった」
見つけた箱を開け、薬のチューブを取り出す。
純嶺の噛んだ場所に塗り込んだ後、Domの男は応接スペースの革張りのソファーにどかりと腰を下ろした。
「Domが噛まれるって……一体どんな状況ですか、それは」
「んー? 噛んだ本人もよくわかってなかったみたいだけど……たぶん、愛情の確認行為なんじゃねえかな。ほら、アレ。自分の行為はどこまで許されるかってやつ」
純嶺の行動は、それとしか思えなかった。
不器用な愛情確認。
その願望が叶ったからからこそ、あんな風に無防備な表情で泣いたのだろう。
「……それを、坊ちゃんに?」
「たぶんだけどなー。つか、その坊ちゃんってのいい加減にやめろよ。もう、小せえガキじゃねえんだから」
「私にはガキのようにしか見えませんけどね。そんな汚らしい格好でお客様の前に出るし……信じられませんよ。まったく」
「汚いとかいうなよ。ちゃんと一張羅だぜ?」
「一張羅……それが」
ほとほと呆れた視線を向ける鴻島にも、男は大して気にした様子はない。
鼻歌混じりに手元のスマホを弄っている。
「それにしても――まさか、アイツとこんなところで会えるなんて思ってなかったわ」
「彼とはお知り合いだったのですか?」
「お知り合い……ではねえな。俺が一方的に知ってるだけ。アイツはすげえダンサーなんだぜ」
男は上機嫌な声でそう答えながら、サングラスを外す。
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「その目だけは、相変わらず美しいですね」
「それ、俺に対する感想じゃねえだろ……そいや、親父は元気してんの?」
「ええ。元気すぎて困りものですよ。きちんと首輪に鎖をつけておかないと、ね」
「おー、こわ」
うっとりと目を細めて語る鴻島にそう吐き捨てて、男はまた水を一口含む。
縛っていた髪をほどき、ふるりと頭を振った。
「ダンサー……ということは、彼ももしかしてあのオーディションに?」
「ああ。俺はアイツのために日本に戻ってきたんだしな」
「そういうことですか――では、合宿に向かわれる前にきちんと身なりを整えてはいかがですか? そのまだら色の髪、見すぼらしいですよ」
「汚いの次は見すぼらしいかよ。じゃあ、金くれよ」
「は?」
「日本円、まだ持ってねえんだって。空港からここまで直で来たんだし」
鴻島の深い溜め息が部屋に響き渡る。
男はネオンの輝く窓の外に視線を向けると、眩しそうに目を細めながら「楽しみだな」と、誰に聞かせるでもなく呟いた。
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