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57 行かないでほしい
しおりを挟む「おいおい、泣くのかよ」
堪えようとしたのに無理だった。
手の甲で何度拭っても、涙が次から次にあふれてくる。
こんなの組織の戦闘員らしくない。
そう思って、ぎゅっと唇を噛んで俯く。震える拳に力を込めたけど、それでも涙は止まらなかった。
「ったく……お前がそんなだと、やりにくいだろうが」
「ご、ごめんなさい……おれ」
「まー、お前はそういうやつだよな。っつうか、バン。お前まさかとは思うが、オレらを心配してここまで来たんじゃねーだろうな?」
「それは…………」
「図星かよ」
頷いていないのに、そうだってすぐにバレた。
ラーギ先輩が怪我していない右手で、俯くおれの後頭部をぽんぽんと叩く。「しゃあねーなぁ」といつもと変わらない声色でこぼした。
「そんな心配する必要ねーよ。すぐに治せるらしいし」
「えっ? 治るんですか!?」
おれは勢いよく顔を上げた。
驚きすぎて、涙が止まる。目をまんまるに見開いたおれを見て、ラーギ先輩はにやりと笑った。
「おう、さっき連絡があってな。今から〈地下〉に行くとこだったんだ」
「〈地下〉……?」
ラーギ先輩の口から飛び出したその単語に、眉根にぎゅっと力が入る。
――〈地下〉って、あの〈地下〉? ううん……本部の地下に、他の治療施設があるのかもしれない。
さっきまでレクセとあんな話をしていたせいで、『地下』という単語に過剰反応してしまった。
本部の地下にあるのが、マッド・ビィの研究実験施設だけとは限らない。
そうだって思いたかったのに――、
「なんでも、肉体再生治療の実験に参加させてもらえるんだとよ」
「……実験?」
その言葉に、少なからず引っ掛かりを覚えた。
実験――それってやっぱり。
「おう。うまくいきゃ、腕は元どおりになるらしい。それどころか、今より強くなれるかもしれねーって――っと、どうした? バン」
おれは無意識に、ラーギ先輩の右手を掴んでいた。
不思議そうにこちらを見るラーギ先輩の顔をまっすぐ見つめて、ふるふると首を横に振る。
「……だめです。行かないでください」
「は? 何言ってんだ、お前」
「〈地下〉はだめです……行ったら、ラーギ先輩は――」
実験に参加した人がどうなるかなんて、おれにもちゃんとしたことはわからない。
本当に腕が治るのかもしれないし、ラーギ先輩の言うとおり、今より強くなれるのかもしれない……それでも。
「……行かないでください。お願いします」
「でも、そうしないとオレの腕は一生このままになっちまう」
「それでも……おれは、ラーギ先輩に行かないでほしいんです。お願いします」
理由も告げずにそんなことを言って、ラーギ先輩を困らせてしまうのはわかっていた。
でも、うまく説明できない。
とにかく、〈地下〉へは行ってほしくない――今はその一心だった。
このままラーギ先輩を行かせてしまったら、もう二度と今のラーギ先輩には会えなくなる――そんな気がして仕方なかったのもある。
得体の知れない恐怖に、ラーギ先輩を掴む手が小刻みに震えていた。
「自分でも、訳のわからないことを言ってる自覚はあります……でも、おれ」
「――バン。なぜ、こんなところにいる」
「っ、シディア様!!」
声を掛けられるまで、シディア様がすぐ近くにいたことに全く気づいていなかった。
それはラーギ先輩も同じだったようで、突然現れたシディア様に、驚きの表情を隠せていない。それでもすぐにおれの手を解くと姿勢を正して、シディア様に向かって敬礼した。
おれもその隣で敬礼しようとしたけど、握った拳を胸に当てるよりも先に、シディア様に手首を掴まれる。
「……シディア様?」
シディア様は無言でおれの手を見つめた後、敬礼するラーギ先輩を一瞥する。
すぐに、おれのほうへ視線を戻した。
「知り合いか?」
「おれの教育係だったラーギ先輩です……あの、シディア様。申し訳ございません。おれ……執務を疎かにして――」
本当なら、ここに来る前にシディア様の許可をもらわなければいけなかった。
それをせずに、無断で仕事をさぼったことをまずは謝罪する。
「そんなこと今はいい。それよりも、なぜここにいたかを聞いている」
「それは……その」
おれは、ラーギ先輩の顔をちらりと見た。
ここで下手なことを言ったら、ラーギ先輩にも迷惑がかかるかもしれない。でも、シディア様に嘘や誤魔化しが通用しないのはわかっていた。
おれは、シディア様の顔をまっすぐ見上げる。
手首を握るシディア様の手に、反対の手をそっと重ねた。
「先輩と同期が負傷したって聞いて、いてもたってもいられなくて……戦闘員にふさわしくない行動を取った自覚はあります。本当に申し訳ございません」
「バン、泣いていたのか?」
「っ……こ、これは……その」
涙はすっかり止まっていたのに、泣いていたことに気づかれてしまった。
シディア様が、おれの目元に指先を滑らせる。
そこに赤みが残っていたのかもしれない。
「動揺してしまって……少し、涙が」
「そうか」
シディア様が首を傾けながら、上半身を屈めた。
顔の距離が近づいて、鼻先にシディア様の吐息を感じる。
「あと――何か揉めていなかったか?」
至近距離から尋ねられた。
シディア様はいつから見ていたんだろう。
おれがラーギ先輩を引き留めようとしていたところから見られていたのかもしれない。
「揉めていたのではなく、ラーギ先輩が腕の再生治療のために〈地下〉に行くと言うので……」
おれはそこで言葉を止めた。
行かないでほしいと思うのは、おれのわがままでしかない。それをシディア様の前で口にしていいものか、少し迷ったからだ。
「そういうことか」
全部説明しなくても、シディア様にはおれがラーギ先輩に何を言ったか予想がついたらしい。
シディア様はおれから顔を離すと、ラーギ先輩を見る。
「ラーギと言ったか」
「はっ」
「楽にしていい。バンの話は本当か?」
「はい。幹部ビィ・ロフォラヴリの命令により、〈地下〉へ向かうところでした」
――やっぱり、マッド・ビィ……!
もしかしたらとは思っていたけど、ラーギ先輩が口にしたその名前に、くらっと強い目眩を覚えた。
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