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1巻
1-1
しおりを挟む1 バーチャルアルファ、はじめました。
――バーチャルアルファ?
二か月に一度の定期検診。
抑制剤を貰うために来たクリニックで、オレは変なチラシを見つけた。
待合室のテーブルには他にもいろんな雑誌が置いてあるけど、そのチラシは中でも異彩を放っているように見えた。別にめちゃくちゃ目立つわけでもないのに――どうしてだろう。
「バーチャルアルファ……?」
今度は声に出して読み上げてみる。なんだ、それ?
バーチャルもアルファもそれぞれは知っている言葉だけど、その二つを組み合わせた言葉は聞いたことがない。チラシの内容を確認するために、オレはテーブルに近づいた。
診察時間外なので、クリニックの待合室にいるのはオレだけだ。受付の人も今日は先に帰ったらしく、オレが一人で喋っていたところで聞いている人は誰もいない。
「あ、奏くん。それ興味ある?」
いや、いた。受付カウンターの奥からひょっこり顔を出したのは、このクリニックの院長、二宮夏月先生だ。院長っていっても今年三十歳になったばかりだから、まだ全然若い。
先生はオレの主治医であり、姉ちゃんの旦那さんでもあった。
ちなみに先生もオレと同じオメガだ。思春期になるとわかる、男女以外のもう一つの性――二次性では一番、数が少ない性。そんなオメガの中でも、お医者さんをしている人は全国的にも珍しくて、ほんの一握りしかいない。その中の一人が先生だった。
先生のクリニックはいつもオメガの患者さんでいっぱいだ。他の二次性――アルファやベータのお医者さんには話しにくい症状や悩みでも、同じオメガの先生になら話しやすいから人気らしい。
そんな毎日忙しいはずの先生なのに、義弟だからって、オレのことはいつもこうして特別に時間外に診てくれる。っていっても、いつも二か月分の薬を貰うだけなんだけど。
「……興味なかった?」
「いや、興味っていうか、なんなのコレ?」
「そこに書かれてるとおり《バーチャルアルファ》だよ。リアルのアルファはまだ怖いっていうオメガのために作られたアプリなんだ。一人で発情期を過ごすオメガが、少しでもつらくなくなるようにって開発されたらしくてね――そうだ! 奏くんも使ってみない?」
「へ……?」
――アプリ? オメガ用の? 使ってみるって、これをオレが?
いつもはおっとりしている先生が、今日は珍しく饒舌だった。でも、オレは全然話についていけない。そもそも、バーチャルアルファってなんなんだよ。
机の上にあるチラシにもう一度、視線を向ける。
「えっと、『貴方のために作られたAIアルファ』……ああ、それでバーチャルか」
「そういうこと。このアプリで相手をしてくれるのは、その人のためだけに作られたAI人格のアルファなんだ」
「へえ……それで?」
「発情期ってしんどいけど、家族とか友達とか、身近な人じゃ話せないことってあるでしょ? そういうことを相談できたり、あとは憂鬱な気持ちを紛らわすために雑談したりとか」
「要するに、そのAIとお喋りするってこと……? そんなことして、なんか意味あんの?」
発情期にお喋りするアプリなんて、なんの意味があるんだろう。発情の熱がコミュニケーションなんかでどうにかなるわけないのに。
そんなの発情期が来るようになって、まだそんなに経っていないオレにだってわかることだ。
「うんとね、お喋り以外にもいろいろな機能があるんだよ。実際使ってみれば奏くんにもわかってもらえるんじゃないかな。ほら、預かってるオプションとか全部貸してあげるから」
「いや、オレは別に――」
「うん、そうしよう! すぐ持ってくるから待ってて」
先生はオレの話を全然聞いてくれなかった。早口でそう言ったかと思えば、すごい勢いでもう一度、受付の奥に引っ込んでしまう。
しばらくして戻ってきた先生の手には、小さな紙袋が握られていた。
――あれが、さっき言ってたオプションってやつ?
「はい、これ」
「いや、はいって言われても……ってか、なんでこんなとこにオプションなんか」
「このアプリの開発者が僕の同級生なんだ。うちならオメガの患者さんが多いからって、チラシと一緒に置いていったんだよ。興味がありそうな子がいたらレンタルしていいからって。アプリのテスターも兼ねてるらしいんだけど……実は、僕もちょっと扱いに困っててね。でも奏くんならちょうどいいし……ね? 僕を助けると思って試してみてよ」
「いや、でも――あ、ちょっと」
結局、受け取ってしまった。というか、ほとんど無理やり押しつけられた。
――扱いに困ってるって、言ってたもんな。
別にこんなの使う気なんてなかったのに……っていうか普通、誰も使わないだろ。どう見たって怪しいうえに、発情期にAIとお喋りするってさ……そんなことして、なんになるんだよ。
「あーあ……めんどくさい」
クリニックを出て、溜め息ついでに愚痴をこぼす。
「なんで発情期なんてあるんだろ……」
オメガという二次性を持つ人間には発情期がある。個人差はあるけど、大体一か月に一度、四日から七日間、対となる性《アルファ》を誘うフェロモンが身体から出る。それだけじゃない。自分じゃ抑えられないほどの性衝動にも襲われる――文字どおり、他の動物の発情期と似た現象だ。
それに加えて、オメガは男女関係なく妊娠することができる。どちらも子孫を確実に残すために起こった変化らしいけど、自分がそんな身体だということはまだあんまり認めたくない。
バーチャルアルファもそうだけど、オレにとっては発情期そのものが面倒なものだった。そんなことをいっても、次の発情期が一週間後には来るんだけど。
オレの発情期はきっちり月一回、四日間ほど続く。その期間は毎回、発情の熱に苦しむ。
規則的に来るって意味では、超健康優良オメガらしいんだけど――そんなの全然嬉しくない。
「こんなんで、ホントに楽になんのかなぁ……」
手渡された紙袋を持ち上げて眺める。
こんなもので発情期が楽になるなら誰も苦労しないと思うんだけど。とはいったものの、お世話になっている先生にお願いされた以上、一度も使わずに返すのはさすがに気が引ける。
次の発情期の時に使ってみるしかなさそうだった。
◇
アプリは早めにインストールして、次の発情期が来るまでに設定も全部済ませておいた。なんだかんだで時間だけはあったから。
バーチャルアルファは、意外と本格的なアプリだった。
起動した途端、大量の項目を入力させられたのにはびっくりしたけど。
名前だけじゃなくて生年月日や血液型、好きな食べ物とかまで結構細かく聞かれた。AIの性格を決めるための性格診断なんかもあって、それはなんだかゲームみたいで面白かった。
あとは病歴とか、薬のアレルギーとか。病院で初診の時に書かされる紙みたいな真面目な項目もいくつかあった。イメージとしては健康管理アプリみたいな感じかな。
でも、そういうアプリには絶対にない項目もあって――それが、普段の発情期についての項目。
見た瞬間、ありえないって思った。質問の内容がえぐすぎて、オレでもドン引きしたぐらいだ。
だって……『発情期の時に道具は使ってますか』とか、『一日の射精回数・量は』とか――こんなの、真面目に答えるわけねえじゃん。
質問の量はかなりあったけど、回答は任意だったので、オレはほぼ空欄で提出した。
そんな空欄だらけの回答でも設定完了にはなるらしく、今オレのスマホの画面には【スタート】ボタンが表示されている。これを押せば、バーチャルアルファが起動するらしい。
――起動するってどんな感じなんだろ。普通にゲームみたいな感じなのかな。
「まー……やってみないことにはわかんないか」
考えてみたって想像すらうまくできない。
だめならすぐにやめればいいんだと、勢いでスタートボタンをタップする。
「って、あれ?」
何も始まらなかった。スタートボタンの色は変わったけど、すぐにアプリの画面が消えてホームに戻ってしまう。なんだろう、バグ?
首を傾げながら、念のためにもう一度アプリを起動してみる。
「……ん? 終了ボタンしかない?」
さっきは【スタート】だったボタンが、今は【終了する】になっていた。
――ってことは、起動はできてんのかな。
「あー、わかんねえ」
考えるのが面倒くさくなって、スマホをベッドの上にぽいっと投げ捨てる。
オレもその横にごろりとうつ伏せで寝転がって、枕に顔をうずめた。吐き出した息がいつもより熱い――そう、今月の発情期はもう始まっていた。
「……だりい」
初日はいつもこんな感じだった。
最初に感じるのは火照った感じの熱と身体の重さ、あとはお腹の痛み。便が緩くなってくると、アルファを受け入れる準備が始まった感じがして、途端に憂鬱になる。
オレはオメガという性別より、男子という性別のほうに心が偏っているらしい。だから「受け入れる」とか「孕まされる」とか……そういう言葉にはすごく抵抗があるっていうか、聞くだけで複雑な気持ちになる。同じ理由で、こうやって毎月来る発情期もすごく嫌だった。
またあの悪夢のような日々が始まるのかと思うとそれだけで、ずんと気分が落ち込んでくる。
「はぁ……」
枕に顔を押しつけたまま、もう一度溜め息をつく。これ以上、つらくなる前に眠ってしまおうと目を閉じた瞬間、少し離れたところから、ぶぅんとスマホが小さな振動を響かせた。
「ん? 電話……?」
重い身体を半分起こして、ベッドの端に転がるスマホに手を伸ばす。
手元に引き寄せ、おもむろに画面を覗き込んだ。
「……? 誰だ、これ」
画面にはトークの着信を知らせるアイコンと、その下に名前が表示されていた。
着信相手の名前は『悠吾』。登録した覚えのない名前だ。クラスメイトにもこんな名前の人はいなかったはず。少し悩みつつ通知を横にスライドさせると、トークアプリが勝手に起動した。
画面に『悠吾』からのメッセージが表示される。
《奏、おはよ。今日休むって聞いたけど、もしかして来た感じ?》
――来たって、何が?
思い当たる節が全くないメッセージだったから一瞬間違いかと思ったけど、相手はオレの名前を知っている――ということは間違いじゃない。でもやっぱり、その名前に見覚えはなかった。
届いたメッセージを三度ほど読み直して、オレはようやくある可能性に気づく。
「これ……もしかして、バーチャルアルファ?」
来た、っていうのが発情期のことだとしたら――? こんな気やすい文面でオレの発情期について聞いてくるなんて、バーチャルアルファ以外考えられない。
「そういや、オレが選んだの《同級生のアルファ》……だったっけ?」
――そんなの、うちの学校にはいないけど。
オレの通う学校にアルファはいない。完全なベータ校――その名のとおり、ベータがほとんどの学校――だから、オメガだって学年に一人いるかいないかの超レアだ。
普通はアルファもオメガも専用の学校を選ぶ人のほうが多いけど、オレはそうしなかった。
別に絶対にそうしなきゃいけないものでもなかったし。それなら家から一番近いベータ校で構わないだろって、二次性の検査前から決めていた学校にそのまま進学した。
今思えば、自分がオメガだってことを認めたくなかったんだと思う。ベータに紛れて生活すればそれを意識せずに済むんじゃないかって。
生徒の大半がベータ、教師もベータっていう環境はやっぱり不便も多いけど、そのおかげで自分がオメガだってことをそこまで意識せずに済んでいる――発情期の時以外は、だけど。
「っていうか、『悠吾』って……これ、男?」
軽くスルーしていたけど、どう考えたってこれは男の名前だ。
アルファとオメガであれば相手の性別は男女関係ない。だから一般的にはありなのかもしれないけど……アルファの性別は男女それぞれ半々ぐらいで、どちらかが特別多いなんてことはないんだから、普通の感覚としてオレの相手に選ばれるのは女性のAIアルファだと思っていたのに。
「どっかで設定ミスった……?」
アルファの性別を決める項目はどこにもなかった気がするけど……見逃したんだろうか。
「……まあ、いっか」
設定画面を開こうと指を動かしかけたけど、すぐにやめた。同性のアルファに全く抵抗がないわけじゃないけど、今さらやり直すのも面倒くさい。それに、そんなことにこだわるほどバーチャルアルファを使うつもりもなかった。これは今回だけのお試しみたいなものだ。
「っと、これ、返信したほうがいいんだよな?」
画面はさっき届いたメッセージのまま動いていない。オレの返信待ちなんだろう。絶対に返事をしなきゃいけないってことはなさそうだけど、気分転換に画面に指を滑らせる。
【きた、だるい。お前代わって】
友達に返すみたいに、適当に返事を打つ。
――あ、でもこういう文章ってAIに理解できんのかな?
送ってからすぐにそう気づいたけど、もうメッセージには既読マークがついた後だった。相手はAIなのに既読って。
「あー……これ、取り消せないのか」
一度送ったメッセージは、どうやら取り消せないみたいだった。メニューを開いて確認してみたけど、削除ボタンは見当たらない。そうこうしていたら、再びぶぅんとスマホが震えた。
《代われるなら代わってあげたいけど……薬は飲んだ?》
心配は必要なかったらしい。びっくりするぐらい普通の返信が届いた。
AIだって知っていても、一瞬わからなくなるほど自然だ。それになんか言葉が優しいっていうか、むず痒いっていうか……オレに合ってるバーチャルアルファって、こんなやつなの?
【飲んだ。でも腹痛い。さっきからトイレ往復しまくりだし】
《ずっとトイレにいるほうがいいんじゃないの?》
【家族に怒られるわ】
《そっか。自分専用のトイレとかあれば楽なのにね》
【ホントそれ】
――あ、なんかちょっと楽しいかも。
AIの話し方に違和感はないし、普通に友達と雑談している気分になってくる。
《そういうのって、薬はないの?》
【あっても結局全部出さなきゃ終わんないし、意味なくない? つか、これも大事な準備とか……何が大事なんだか】
思わず愚痴を吐き出していた。だって、ここにアルファを受け入れるなんて、オレは望んでいない。それなのに、身体は勝手にその準備を進めていく。身体だけじゃない、――周りもだ。
オレの意思なんか関係なく、オレがオメガとして生きていく準備を進めている。
それがずっと、……なんとなく不快だった。
《ごめんね》
いきなりAIに謝られた。
【何に謝ってんだよ、それ】
《奏は嫌なのに……俺はちょっと喜んでたからさ。奏の身体が俺を受け入れるための準備をしてるんだと思うと嬉しくて……だから、ごめん》
「……っ」
届いた長文にどくりと鼓動が強く跳ねた。は? なんだ、これ。
同時にずくりと身体の奥も疼く。その感覚はさっきまでの腹痛とは明らかに違っていた。
疼きと一緒にお尻のほうに、とろりと何かがあふれる感覚がして――オレは突然起こった自分の身体の変化に慌てる。
「うそだろ、こんな」
望んでいないはずなのに――、さっきのメッセージに身体が反応している。はっきりと伝えられた言葉に、発情の熱が急激に高まる。
――信じたくない、こんな。
ふるふると首を横に振る。だって嫌なんだ、オメガになるのは。
何回発情期が来たって、それを認めたくない気持ちのほうが勝っていた。それなのに――
「なんで、これ……」
おそるおそる尻の谷間に指を近づける。肌に触れた瞬間、ぬるりと指が滑った。
慌ててスウェットから引き抜いたその指には、透明な液体がたっぷり絡みついている。とろりとした液体が細い糸を引いて、指先から垂れた。
「ありえねえって……」
絡みついた液体を乱暴にティッシュで拭き取る。ぬるぬると滑るそれは、どれだけ擦ってもなかなか綺麗に落ちない――最悪だ。不快感で眉間に力が入る。
オメガのここが濡れるっていうのは知っていたし、発情期に自分のパンツが汚れていることに気づいていないわけじゃなかった。でも、今までは見逃せる範囲だった。
――意識したことだって、ほとんどなかったのに。
でも、さっきのは全然違った。こんなにはっきり濡れる瞬間がわかるなんて。
漏らしたみたいだった。奥から熱があふれてきて、じゅわりとそこが濡れる感覚は思い出すだけで気持ちが悪い。
「おかしいだろ、……こんなの」
あんな言葉だけでこんな風になるなんて――自分の身体に起きた変化が信じられない。
スマホの画面に視線を落とす。そこにはまだ、あの悠吾とかいうバーチャルアルファから送られてきた文字が表示されていた。
【ふざけんな、バカ】
少しでもその文字が見えなくなるように、短くメッセージを送った。そのまま、トークアプリを閉じる。画面もスリープにして、枕元のクッションに投げつけるようにスマホを手放した。
「尻、きもちわる……」
指は拭き終えたけど、谷間はまだ濡れていて気持ち悪い。
多めにティッシュを取って、スウェットの隙間から手を差し込んだ。谷間にティッシュを滑り込ませると、触るのも嫌なあの感触がティッシュ越しに伝わってくる。
――うわ……なんだこれ。
びっくりするほど、濡れている。信じられない。
――これがアルファに抱かれるための準備だっていうのかよ。ふざけんな。
自分の意思とは関係なく起こったその現象に、なんだか泣きそうになる。でもこんなことで泣きたくなかった。ぐっと唇を噛みしめたまま、谷間にティッシュを擦りつける。ぬるりとした感触は少しずつなくなってきたけど、それでもずっと心臓はどくどくとうるさいままだ。
自分の体液で汚れたティッシュをゴミ箱の奥底に隠すように捨てる。精液で汚したティッシュだって、そんな風に捨てたことはない。でも今は、その現実を直視できそうになかった。
「…………くそ」
すべての痕跡を消し去って、ベッドにうつ伏せに寝転がる。そのまま埋もれるように布団の中に潜り込んで、息が苦しくなるまで枕に顔を押しつけた。
――あんなセリフ、ただのテンプレだ。オレの言葉に反応しただけのただのテンプレ。
決められた単語の中から選ばれたランダムなセリフであって、そこに誰かの意志があるわけじゃない。感情だってない。ただの自動返信なんだ、――相手はAIなんだから。
「……何、動揺してんだか」
小さな声で吐き捨てる。本当にバカだ。あんなAIの言葉を真に受けるなんて。
頭の中を整理して、ようやく少しだけ冷静になれた。まだ胸のあたりはきゅっと痛むけど、このぐらいならなんとか無視できる。布団から顔を出し、仰向けになって天井を見上げた。
ゆっくり吐き出した息はまだ熱いけど、それは発情期だからであってそれ以外の理由はない。
ずんと沈み込むような身体の重さを感じながら、オレはしばらくの間、見慣れた天井をぼんやりと眺めていた。
◇
いつの間にか寝落ちていたらしい。さっきまで窓の外は明るかったのに、気づけば薄暗くなっていた。発情期の間、異様に眠くなるのはオレが飲んでいる抑制剤のせいだ。
今使っている抑制剤は本当によく効くんだけど、その代わり副作用の眠気が酷い。
たまにどうやっても抗えないぐらい眠くなるのが難点だった。
でも、どうせ発情期の間はどんなに薬がよく効いていても、発情フェロモンのせいで外に出ることはできない。だったらこうやってベッドの上で寝て過ごすぐらい、どうってことはなかった。
まだまだ、いくらでも眠れそうな気がする。
油断をすれば、すぐに閉じてしまいそうな瞼を擦りながら、オレは部屋の時計を見上げた。
もうすぐ薬が切れる時間だ。今は発情の熱をほとんど感じないけど、薬の効果がなくなれば途端にぶり返すのはわかっている。
前に一度だけ薬を飲み損ねたことがあった。副作用のせいで寝過ごして、薬を飲むのが遅れただけなんだけど……その時の酷さを思い出すと「もう少し後にしよう」なんて思えない。
「……なんか食うか」
重い身体を無理やり起こす。食欲はあんまりないけど、何か食べないと。
抑制剤の服用は食後じゃなくても大丈夫だけど、それでもやっぱりお腹が減っている時に飲むと気分が悪くなる。少しでも何か食べておきたかった。
うん、と背伸びをしてから、枕元に転がっているスマホを手に取る。
何をするわけでもなく画面を起動して――眠気が一気に吹き飛んだ。
「――バーチャルアルファ」
すっかり忘れていた。というか、オフにしたつもりでいた。
それなのに、画面には『悠吾』からの受信通知が表示されている。
どうやらトーク画面を閉じるだけではだめだったらしい。アプリの終了ボタンを押さない限り、バーチャルアルファは何かしらの行動を取り続ける仕様のようだ。
「……どうしよ」
すぐにトーク画面を開く勇気はない。届いている通知は二件。両方とも『悠吾』からだ。
――また、さっきみたいなメッセージだったら……
寝る前に見たメッセージを思い出しそうになって、慌てて首を横に振る。
「あれはテンプレ……自動返信」
口の中で小さく呟く。テンプレに意味なんてない、気にする必要はないと自分に言い聞かせながら、おそるおそる画面の通知をスライドさせた。
《ごめん! 調子に乗った。本当にごめん》
《……奏、怒ってる?》
最初のメッセージは、オレが返信してすぐに届いていた。もう一通は、その一時間後だ。それでも、今より二時間前のことだった。
どうやらオレは例のメッセージから三時間ぐらい、ぐっすり眠っていたらしい。
「変なやつ……」
届いていたメッセージはなんだかアルファっぽくなかった。すぐに謝ったり、オレの機嫌を窺ったり。どっちの返信も、オレの想像しているアルファ像とは全然結びつかない。
――アルファって、もっと傲慢な感じじゃねえのかよ。
何においても優れているアルファ。頂点に君臨する生き物であるアルファが、こんな風にオメガに謝ったりするなんて。
「まー、これ……オメガ向けのAIだもんな」
オメガの機嫌を損ねないように作られているんだろう。
これの開発者はベータだろうか。それともオメガ? どちらにしてもこのバーチャルアルファは、オレの考えるアルファとは全然違うみたいだった。
っていっても、本物のアルファと話したことなんてないから、本当に想像でしかないんだけど。
【寝てた。今度同じこと言ったら殺す】
――あ、こういうアプリ相手に殺すって言い方はまずかったかな。
ゲームで特定の言葉が使えなかったり、問題のある発言をした人が規制されて使えなくなったりすることはよくあることだ。このアプリにもそういう制限があったりするかもしれない。
《奏! おはよう。本当にごめん。もう絶対言わない! 寝てたの? 身体しんどい?》
杞憂だったらしい。驚くほどの早さで『悠吾』から返信が届いた。
AIなんだからタイムラグがないのは当たり前なんだけど……最初の返信の時も思ったけど、このアプリってなんか普通と違う感じがする。
「コイツ……バカ犬っぽいな」
悠吾の返信を見て、昔、近所の人が飼っていたゴールデン・レトリバーのことを思い出した。
人懐っこくて、オレの顔を見るたびに飛びついてきたでかいふさふさのワンコだ。自分の図体のでかさがわかっていないのか、いつもオレを押し倒すように尻尾を振って飛びかかってきた。
そんなワンコの顔が一瞬重なって見えて、噴き出しそうになる。
【薬の副作用だよ。別にしんどくねえし、眠いだけ】
《そっか。でも眠くなるってことは身体が休息を求めてるんじゃないのかな。無理はしちゃだめだよ。俺も奏のこと心配だから》
「……あー……なんだ。いや、そういうアプリだもんな」
歯の浮くようなセリフになんて返せばいいのかわからなくなる。別に律儀に返信する必要はないんだろうけど、ワンコが重なって見えたせいか、どうにも無視しづらい。
――すごいんだな。今どきのAIって。
【お前のほうはどうだったんだよ、学校。なんか変わったことあった?】
《普通だよ、いつもどおり。奏がいなくて寂しいぐらい》
「……いや、だからな」
AIに対して意地悪な質問をぶつけたつもりだったのに、返ってきたメッセージに困らされたのはオレのほうだった。つうか、いちいちオレのことはいいんだよ。クラスにアルファなんていないのに、なんか本当にコイツが同じクラスにいるような、変な気持ちになってくる。
【オレは休みを満喫してるけどな】
《それでいいよ、大変だもんね。今からご飯?》
その言葉で食事がまだだったことを思い出す。つい、コイツとの会話に夢中になっていた。
こうやって教えてくれるところとか、やっぱり健康管理アプリの機能もあるのかな。この調子で薬の飲み忘れも教えてくれたりとか……いや、そこまでは無理か。
【そろそろ食うつもり。食欲はねえけど】
《そっか。無理して食べるのもしんどくなりそうだし、こんな時ぐらい好きなものだけ食べてもいいんだからね。チャーハンとか》
「……ふはっ、こういうとこはAIだな」
食欲がないって言っているのに、チャーハンはない。
チャーハンはオレが初期設定でプロフィールに書いた好きな食べ物だ。コイツはそれを反映して喋っているんだろう。
普通に話していると忘れそうになるけど、そのちぐはぐさはやっぱりAIだ。
――だから、あれもただのテンプレだ。
「結局、まだ気にしてるんだから……オレも相当だな」
すっと画面に指を滑らせて、会話の履歴を遡る。少し上にはまだ寝る前に送られてきたあのメッセージが残っていた。ちらっと見えた言葉に、また胸がきゅっと痛くなる。
――そうなるってわかってるのに、なんで見ちゃうんだろう。
複雑な気持ちのまま、オレはスマホの画面を閉じた。
◇
「…………、あっつ」
夜中、身体の熱さで目が覚めた。発情期中にこうなるのは別に珍しいことじゃない。
特に一日目の夜はいつもこんな感じだった。薬が効いていても、発情の熱は完全に抑えられるものじゃない。これでもマシなほうだった。
「くそ……」
どうしようもないほどの熱じゃないけど、眠れそうにない。
発情期が終わるまで、こんな状態が続くのだから最悪だ。
火照った身体を冷ましたくて、シーツの冷たいところを探して足先を動かす。それでも冷たいと感じるのはほんの一瞬だけで、すぐにオレの体温でぬるくなってしまった。
「……しんど」
熱くて、しんどくてたまらない。毎月毎月、こんな目に遭うんだから本当に嫌だ。
――なんで、オメガばっかり。
夜だからか、身体がつらいからか、ついネガティブに考えてしまう。
早く朝になればいいのに……そうすれば、きっと少しはマシになる。眠れない夜は、やけに長く感じる。時計の針を見るたび、まだ五分も進んでいないことに絶望させられる。
【しんどい】
寝返りを打って、枕元のスマホを手に取るとその画面に文字を入力した。
バーチャルアルファのトーク画面だ。
――AIなんだから、時間なんか関係ないよな?
思ったとおり、夜中の二時を回ったところなのにすぐに返事があった。
《身体つらいの? 眠れない?》
【熱くて寝れない】
《冷やしたらマシになる? 保冷剤とか家にないかな?》
――その熱さじゃないんだけど。
でも、そう言って気遣ってくれるコイツの優しさが嬉しかった。
うちの家族は全員ベータだから、オレの発情期については誰も触れてこない。ベータには関係ないものだから当たり前なのかもしれないけど。唯一の相談相手だった姉ちゃんはもともと家に寄りつかない人で、そのうち同級生だった夏月先生と結婚して、家を出ていってしまった。
姉ちゃんもベータだ。ベータなのにオメガと結婚して、なんて陰で言う人もいたけど、姉ちゃんは何も気にしていないみたいだった。いや、逆にオレのことを気にしてくれた。
みんなの前で「オメガとか関係ないから」ってはっきり言ってくれて、それで気持ちが少し楽になったのを覚えている。
両親と弟はオレがオメガだってわかってからは、なんか腫れ物を扱うみたいだった。
みんながどうにかして二次性の話題に触れないようにしているのには、すぐ気がついた。
前までは好きで見ていたはずのオメガが出てくるドラマを見なくなったり、ニュースでそういう話題が出るとすぐにチャンネルを変えたり。そこまでされると、オレのほうが気になり始めた。
――そんなに前と違うわけじゃねえのに。
そのうち、自分からもそういう話題を避けるようになった。学校はベータ校を選んだし、発情期以外は普通に過ごしているつもりだ。でも、明らかに前と比べて家族との会話は減っていた。
別にオレだって話題にされたいわけじゃないけど……でも、やっぱりこうやって弱っている時には声をかけて欲しいと思う。自分でも、わがままだってわかっているけど。
《奏? 大丈夫?》
【ああ。ちょっと冷凍庫見てくるわ】
《あ! 保冷材は濡らしたタオルでくるんだほうがいいよ。ちゃんと固く絞ってからね!》
「コイツ、おかんかよ」
そうやって必死に付け加える様子に笑いがこみ上げてくる。それだけのことなのに、さっきまで沈んでいた気分が少し浮上したみたいだった。効果あるのかもな、このアプリ。
【取ってきた。どこ冷やすのがいいんだろ】
《風邪で熱が出たなら太い血管なんだろうけど……発情期の場合はどうなのかな。頭とか?》
【頭か】
《あ、待って。耳の後ろとかいいらしいよ! ちょっと下のあたり》
「耳のちょい下……うぉ、つめて。あ、でも気持ちいいかも」
AIに言われたとおり、固く絞ったタオルにくるんだ保冷剤を耳の後ろに当てる。確かにそこを冷やすだけで随分違った。
身体の奥で燻っている熱は何も変わらないけど、重たかった頭がスッと軽くなる。
【これいいかも】
《よかった。眠くなったら、そのまま寝てもいいからね》
【ん。そうする】
《おやすみ、奏。ゆっくり休めますように》
そのままベッドに転がって、気づけば眠ってしまっていた。
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しかも俺に使える魔法は氷魔法じゃなく『神聖魔法』?というか『神聖魔法』を操れるのは神に選ばれた愛し子だけ……?
どうせ余命幾ばくもない出来損ないなら仕方ない、お荷物の僕はさっさと今世からも退場しよう……と思ってたのに?
偶然騎士たちを神聖魔法で救って、何故か天使と呼ばれて崇められたり。終いには帝国最強の狂血皇子に溺愛されて囲われちゃったり……いやいやちょっと待て。魔王様、主神様、まさかアンタらも?
……ってあれ、なんかめちゃくちゃ囲われてない??
―――
病弱ならどうせすぐ死ぬかー。ならちょっとばかし遊んでもいいよね?と自由にやってたら無駄に最強な奴らに溺愛されちゃってた受けの話。
※別名義で連載していた作品になります。
(名義を統合しこちらに移動することになりました)
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