彼女はこのあと、僕がおいしく頂きました

なしひと

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1.ひと月前のミーツ・イレギュラー

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 あの夜、浮月さんが言ってくれた言葉を僕は生涯忘れないだろう。

 なんて、齢十六のくせにそこまで言い切ってしまうのは流石に大げさかもしれない。けれど少なくとも今のところは忘れていないし、これからもしばらくは。つまり浮月さんとの関係が続く限り、僕はその場面を何度も思い返し、同じ言葉を記憶に刻み直すのだと思う。

「星田くん。『普通』って何だと思います?」

 そう手を差し伸べた彼女は神秘的に歪んでいた。いつもと同じように顔までぴっちりと覆った包帯の隙間から覗いた右目は、眼鏡越しに僕の反応を待って二度ばかり瞬いた。

 しかしそんな彼女に対して、僕はどんな愚答さえも返せなかった。別に答えるべき言葉を知らなかったからというわけではない。ただそのタイミングの僕が、肺に流れ込もうとする血反吐で嗚咽しながら『彼女』を胃の奥へと飲み下すのに精一杯だったから。

「私はそれを生存そのものだと思います」

 返事も待たずに続ける。きっとその包帯の下の表情だって雨粒のように冷たい、のっぺりとしたものだったろう。覚悟を秘めた弾丸のような。いつだって破裂しかねない怒り混じりの強さを包帯の下に押し隠した彼女は、やはり歪なまでに綺麗だった。

 呼吸を忘れる一瞬。視線をあげた僕は今度こそ、彼女の言葉と生身のまま対峙させられて、さてもその意味を理解しかねた。


 『普通』とは生存そのものである。


 それは果たして『普通』でなければ生きていてはいけないということなのか、『普通』でさえあれば生きていて良いということなのか。

 糾弾なのか譲歩なのか、わからなかった。

 まぁ解答から先に言ってしまえば、その時の彼女が意図したニュアンスは、結局そのどちらでもなかったのだけど。

「僕は」

 あぁ、そうだ。

 すっかり言い忘れていたけれど、僕はこの時点のずっと前から泣いていた。

 『彼女』の血肉を吐き散らかしながら雨に打たれて。見上げた先には傘をさしたまま包帯まみれの手を差し伸べる浮月さん。

 そんな光景へと、祈るように尋ねたのだった。呪いじみた。

「僕は生きていても良いの?」

 冷たい雫は頬を伝って涙の跡を追いかけた。

 自身を見失いかけていた僕には、そんなありきたりな台詞が精一杯だった。

 しかしすがるような問いかけを彼女は嫌った。

 知りませんよ、そんなこと、と。

「それを決めるのは星田くん自身でしかあり得ません」

 雨音混じりの沈黙の間に微かな息を飲む。畏れですらなく、ただ圧倒される一瞬。

「だからこそ」

 彼女は手を差し伸べたまま続けた。

「まずは『普通』になってみましょう」

 ……『普通』?

 それはあまりに『異常』な僕からは程遠い概念だった。

 混乱を覚える。まさか騙されているのでもあるまいけれど、鰯の頭も何たらなんて言葉が脳裏を過り、耳元では思い出したように雨音がその存在を主張し始める。

 気付けば背中の冷や汗がはっきり知覚できる程度には寒くなってきていた。寸の間、ぐらぐらと基底を揺さぶられるようなめまいがあって、しばらくあとには興ざめしたような沈黙しか残らなかった。

 さて、と……うん。

 今更この空気から逃げるわけにもいかず、仕方なしに尋ねてみる。

「でも具体的に何を」

 彼女はその言葉を待っていましたとばかりに答えた。

「部活を始めましょう」
「……は?」

 哀しきかな。

 そうして僕らは新しい部活を始めた。
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