彼女はこのあと、僕がおいしく頂きました

なしひと

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2.今日も彼女は過剰に包帯を巻いていた

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 あの夜から一月ほどが経とうとする五月半ば。まどろみ半分の夢を通して思い出した記憶に、僕は小さく嘆息し、机から頬を離した。どうもこの季節は容易に眠気が誘われていけない。注意深く苦しみだけを取り払ったような穏やかな日々の連続に、改めて実感する。

 劇的なミーツをボーイがガールにしたところで、こうした継続するたぐいの日常には何の影響も与えないのだと。

 場所は生徒らの注意力がすでに散漫としきった教室の窓際。教壇からはいまだ顔の印象が薄い担任の童謡チックな連絡事項が壊れたオルゴールさながら続いていた。寝起きがてらに窓の向こうを見やれば、さなかに動きすぎたらば汗の予感さえ憶えそうな、猫並みの暖かさをたゆたわせる陽の色が続く。その日も僕は普段通りに授業をやり過ごし、気付けば今この瞬間は、今日一日の時間割を消化しきる頃だった。

 放課のチャイムが鳴り響き、僕が所属するE組の面々は立ち上がって、授業から解放された喜びを顔いっぱいに教室から出て行く。

 何かを忘れているような気がしていた。

 昨日もこんな感覚を憶えたっけなと思いながら、まだ眠気の残る重たい腰を持ち上げる。適当に自席周りのクラスメイトへ挨拶をしながら教室の外へ。

 さて今日は何を失念しているのか、なんて。うっかり人だかりの後ろへと続く形で帰宅しかけていた僕は、しかし昇降口へと繋がる階段手前でようやく危うく、今日は部活がある日だったのだと思い出して、踵を返す。

 背後からこちらを見つめていた視線とぶつかってしまう。

 彼女は恨めしげに口を開いた。

「星田くん、帰ろうとしましたね?」

 浮月志帆だった。なおもじっと包帯の隙間から睨んでくる。

 ちょっとした迫力のある光景だった。

「ごめんね、忘れてたよ」
「構いません」

 まったく構わなさそうな声音で、しかし仄かなおかしみを隠した足取りとともに彼女は駆け寄ってきた。

 浮月さん。

 今日も彼女は過剰に包帯を巻いていた。制服の袖から伸びる手足はもちろん、襟元から見える胸元まで病的なほどみっちりと。

 包帯は隙のない几帳面ぶりを見せて、少女の柔肌を等間隔の段重ねに覆い隠している。

 見た目には、(特に夜遅くにでも出会えば)ぎょっとするほど重度の怪我人といった様子だけど、実際のところその白布の下には必ずしも隈なく怪我痕のたぐいがあるわけでもない。

 浮月さん自身の言葉を借りさせてもらえれば、単にそうしている方が頻繁に場所を変える傷跡が目立たないからという理由らしい。

 ちなみに余談ながら、かつて盗み見た包帯の下の顔の作りは綺麗なもので、そばにいるだけの僕はたまにもったいないなんて手前勝手なことを思ったりする。

「どうしました、人の顔をじっと見て」

 と、こちらの視線に気付く浮月さん。

 我に返ってみれば、どうやら言い訳が必要なほどの間隔で、僕はその横顔を眺めていたらしい。

「包帯変えた?」と、とっさに誤魔化した僕。
「あ、わかります?」と、淡く嬉しげな彼女。

 ……まさか本当に変えていたとは。

 新しい包帯がいかに毛羽立ちにくいかを解説する浮月さんの声を、尋ねた身で申し訳ないと思いつつ耳半分に聞き流しながら、人の流れに逆らう形で少し戻り、僕らは連れたって部室の方へと向かった。

 渡り廊下を経由して別棟。四階の片隅。

 たどり着いた先は放課後の喧騒から縁遠い、特別棟の中でも一等に小さな個室だ。恐らく元々は、滅多に使われない教材などを置いておく物置部屋の一つだったのだろう。

 今年の春先に僕らが立ち上げたばかりの部が、生徒会の計らいによりこの部屋を部室として割り当てられた時、僕と浮月さんは借りた長机と二つの椅子をこの部屋に押し込んで、しかしそれ以上の物は何ひとつ置けそうにないことに気付いた瞬間は唖然としたものだった。その程度の広さのささやかな部室だ。

 今ではこの手狭さにも足るを知ったものだけど、まだその境地に達していなかった当時の僕らは半ば呆れたまま、しかし生徒会の手心なき采配にいつまでも打ちひしがれることなく、どんなに狭かろうと、せめていつ何時でもお茶が飲める場所になってくれることを望みながら。湯沸かしポットとマグカップを長机の隅に配置して、その部室の内装を完了とした。

 その時に生み出された備品配置は、一ヶ月経った今でも変わっていない。

「じゃあ部活を始めましょうか」

 そう手を合わせて僕の向かい側に座った彼女は、しかし何か目新しいことをするでもなく、ブックカバーのかかった文庫を取り出し読み始めた。

 そんな彼女の様子を傍目に収めながら窓を薄く開けて換気し、対面に腰かける僕の方はといえば、あいにく鞄の内側に書籍の持ち合わせがなかった。

 仕方がない。部活もしばらくぶりだったから少し油断していたのだ。ここで今日の宿題にでも手を付け始める程度に勤勉ならば、良心を痛めずに成績は平均的と自称できるようにもなっていたのだろうけれど、むろんそんな気概はない。なので改めて、机の片隅に積まれたいくつかの文庫の背表紙を眺める。それらは浮月さんが自宅から持参したもので、常々からに断りなく読んでいいと許可を得ていた。

 久々に川端でもと思いながら短編集を拝借する。適当なページを開いて、出会い頭の短い掌編を読み下す。今の季節に合わない、冬でも白い靴を履く女の子の話だった。

「……」

 窓から差し込む掛け声混じりな土の香りに、文庫を支える手のひらが少しだけ肌寒さを訴えてくる。切りよく読み終えたところで視線を上げても、浮月さんはまだ本を開いたままだった。途端に手持ち無沙汰を感じて、次項の文章を目で追うふりさながら、柄でもない物思いに耽ってみたりする。

 『普通』って何だろう、なんて。

 あの夜から未だに、僕の中でその答えがはっきりと提出されたことはない(もちろん浮月さんの側から提示されたこともない)。あの雨の日、浮月さんはそれを生存そのものだと言ったけれど、僕自身はといえば。その意味だってよくわからないままに、こんなよくわからない部の設立に巻き込まれて。たまにの活動だからと連れてこられては毎回、放課後の時間を大して身も入らない読書に費やすばかりだ。

 先に断っておくならば、僕と浮月さんは『異常』だ。

 僕らは互いに巡り会えたこと自体が奇跡に思えるほどのまれな二つの特異点であり、あの春先の出会い以来、それはあまりの都合良さゆえ二度と関係を切り離せないほどの強固な繋がりとなってしまった。

 絆。

 ボーイがガールにミーツした。

 ただしその実態は、イレギュラー・ミーツ・イレギュラー。

 今振り返ってからの個人的な印象としては、彼女が立ち上げたこの部活の目的だって、僕らの関係を理由付けるための隠れ蓑でしかなかったかのようにさえ思える。もちろん浮月さん本人には、そんなつもりが毛頭ないことを僕は知っている。彼女は何かを求めて真剣にこの部活を始めたのだと。

 しかし。

 はっきり言えば、少し失望していた。本当に部活なんてもので僕らが抱える問題それ自体が解決するとは思っていなかったけれど、僕だって多少は期待したのだ。青春を通して生きることへの意味付けを手軽に行えてしまうなんて、安易でベタな展開を。それは浮月さんに貸してもらった漫画(短期休暇中の課題図書だった)の数々におけるありがちなテーマで、いわゆるお約束、あるいはテンプレートというものであるらしい。甲子園に行きたい。漫画家になりたい。やれ友達が欲しい。やれ恋人が欲しい。エトセトラ。エトセトラ。

 連休さなかの僕は勢い込んで首肯した。よろしいこれならば僕らにもできそうだ、是非とも大いに真似してみたらいいじゃないなんて得心したものの。それはやはりあくまで物語の上での話であって、残念ながら僕らの人生は物語の外側にも容赦なく延びて続いていく。

 その不可逆な一方通行に気付いた連休明けの放課後以来。相変わらずの現実に何かを壊され続けている僕は、浮月さんの向かいで読書スタイル(仮)のまま、ずるをする運動会の子どものように、心のなかでこっそりと白線を踏み消して、改めたスタート地点に言葉を引き直した。

 生きることには本質的な意味なんてない。

 やっぱりこの前提から始めるべきだろうという気はする。

 『普通』であろうと『異常』であろうと結局それは、いつしか自分の内側の避け得ない下地として見慣れた景色に成り下がり、目新しさが後退してしまえば、あとは何事につけ自らの周囲とどうやってうまく折り合いをつけつつ生きていくかという粒度の細かい話になるのだと思う。

 決め打ちで定められた居場所から漠然とした理想への微調整に終始する人生。

 そういったあり方そのものに今更、僕は悲観したいわけもない。もちろん消化はできている。

 おおよそたぶん、生きることなんて多かれ少なかれそんなものだ。

 だからこそ現状僕は何となく流されていて。こんな部活に参加し読書するふりなんてしながら生産性の欠片もない考えに沈み続けていて、同じ行しか往復していない僕の瞳はいつの間にか浮月さんにしっかりと睨まれている。

 ……うん、やっぱり睨まれてる。

 名も知らぬ誰かが部室前の廊下を駆け抜けていき、二つ下の階で吹奏楽部のトランペットが烏と鳴き声を交わす。

 音なきため息。

 もちろんこんな思考に意味なんてない。ちょっとした気の迷いで、実際の行動に繋がることはきっとなく、されど降って起こる災難には否応なく繋がってしまうらしい。僕は叱責を覚悟して文庫本を裏返しに伏せた。

 本が机の上に置かれるのを待っていたようなタイミングで、彼女は口を開いた。

「ちょっと思ったのですが、星田くん」
「……?」

 改めて眺めてみれば、浮月さんは読んでいたはずの文庫を口元に押し当てて、こちらの様子を伺っていた。読書姿勢について何かお叱りが下るのかと身構えていたけれど、睨んで見えたのは生まれつきの目元の形のせいであって、その戸惑いの色を見る限り、どうも根底の意図は違うらしい。

 むしろ少しの申し訳なささえ滲ませて。

「これは部活と言えるのでしょうか」

 思わず納得した声をあげかけてしまう。膝さえも打ってしまいそうだったのをどうにか思いとどまる。もちろん浮月さんだってそういった話題が本意というわけでもないだろうし。

 けれどどうやら偶然にも、彼女は僕と同じような危機感を覚えていてくれたらしい。

 いやぁ、よく気付きましたね浮月さん。などとも口にすればやはり彼女は機嫌を損ねるだろうから、自重する。

 一方、当の本人は少し興奮したように。もっと部活って。

「キラキラしてると思うんです」

 言わんとするところはわかる。それは僕だってさっきから、いや正確には先月の半ばから薄々感付いていたことだった。僕らのこれが充実した部活とはとても呼べないなんてことには。

 しかしあまりに性急過ぎる相槌は、かねてからの不満を自ずと仄めかしてしまうだろうから。

 僕は慎重に言葉を選びつつ肯定した。

「確かに僕らのしてるこれは部活っぽくないよね」
「そう、そうなんですよ。ヤバくないですか?」
「ん」

 この辺りからすでに、嫌な予感はし始めていた。

「ヤバくはないんじゃない?」
「ヤバくなくないですよ。むしろ激ヤバです」
「激ヤバですか」

 激ヤバです。と深く頷いて。

 ここまでは良かった。しかし続く言葉が僕を困惑させる。

「というわけでもっと会話しましょう」
「会話?」

 また妙な単語が出てきたなと思った。てっきり活動実績か何かを作ろうという流れにでもなるかと思っていたのだけれど。どうやら違うらしい。

「コミュ力を鍛えるということは、我が部活における重要項目の一つだとは思いませんか」

 僕はその詭弁具合に唸ってしまう。

 コミュ力というのは言うまでもなく、恐らくはコミュニケーション能力のことだろうけれど。しかしどうだろう。真剣にそれが僕らにとっての必須事項かと考えてみると。他人との意思疎通で本当に通じ合えるものなんて、実のところ、そんなに多くはない気がする。明らかな損得勘定のもとではどんな口先の綺麗事にもきっと意味はなくて、人喰い赤鬼との酒盛りは結局、接待がてらの腹芸合戦でしかないだろう、なんて。

 『普通』の偽装には通じても、『普通』そのものへと至る努力ではない。

 しかしまぁ、改めて考えるほどのことでもなく、これはあくまで部活だ。こう見えて浮月さん大好きな僕は、同い年の部長に対して譲歩の構えを見せてみる。

「そういえば確かに、そんな感じの主旨が部則の第二項に含まれてはいるね」

 想定通り、我が意を得たりとばかりに頷く浮月さん。

「『普通』とコミュニケーションは切り離せません」

 嬉しそうな彼女の表情はイケナイお薬さながら、こちらまでも楽しい気分にさせてくれる。もしも包帯越しじゃなければとてもその視線の中毒性に耐えきれなかっただろうほど。

「というわけで、日常系ほわほわ四コマな空間を構築するのです」(原文)
 そういうわけで、我が部における読書はしばらく禁止となった。(和訳)

 堅苦しい読書は『ほわほわ』からほど遠くて、僕らは同時に互いの文庫を閉じて視界の端に置く。

 さて。
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