群青色-まだ名前のない色-

菊池まりな

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第85話 夏の終わりに

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八月の終わり。
朝の光はやわらかく、蝉の声も心なしか弱々しく聞こえた。
夏休みの課題も終え、あとは新学期を待つだけ──のはずなのに、
私の心の中だけは、ずっとざわめいていた。

昨日、澪に言った言葉が頭から離れない。
「もう一度、描いてみようと思う」
あれは、ほんとうに私の本心だった。
でも、描くということは、自分ともう一度向き合うということ。
その覚悟が、まだ足りない気がしていた。

私は、美術室の鍵を借りて静かな廊下を歩いた。
夏の名残りの光が窓から差し込み、床に揺れる。
扉を開けると、絵の具の匂いと静寂が出迎えてくれた。
そこは、私にとって世界でいちばん落ち着く場所だった。

「……やっぱり、ここが好きだな」

そう呟いてイーゼルの前に立ったとき、
背後から声がした。

「やっぱり来てたか」

振り返ると、海野陸が立っていた。
部活帰りなのか、まだ汗を拭っている途中らしい。
いつも明るい彼の顔も、今日はどこか柔らかく見えた。

「お前が描いてるときの顔、好きなんだよな」
「……え?」
「いや、変な意味じゃなくてさ。
 本気で何かに向かってるときって、誰よりも真剣で。
 その顔見てると、俺も頑張らなきゃって思うんだ」

不意の言葉に、胸の奥が少し熱くなる。
陸は照れたように笑って、窓際に寄った。

「コンクール、また挑戦するんだって?」
「うん。まだ何を描くか決めてないけど」
「お前ならきっと大丈夫。結果がどうとかじゃなくてさ、
 お前の絵って、見てると“風”を感じるんだ。
 止まってない、ちゃんと前に進んでる風」

──止まってない。

その言葉が心に響いた。
私がいちばん恐れていたのは、“前に進めないこと”だった。

「ありがとう、陸」
私がそう言うと、陸は少しだけ頬をかいた。
「礼なんていいよ。ただ……無理だけはすんな。
 描くのって、案外体力いるだろ?」

その言葉に小さく笑ってしまう。
「うん、わかった」

陸が帰ったあと、私は再び筆を手に取った。
窓の外では、雲の切れ間から夏の名残りの光が差し込む。
青でも群青でもない、“何かの始まりの色”が
ゆっくりとキャンバスに広がっていった。

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