群青色-まだ名前のない色-

菊池まりな

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第89話 色を重ねる午後

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翌日の午後、私は再び美術室にいた。
 窓の外では、夏の名残の風が鈴虫の声と混ざって吹いている。
 昨日、先生と話したあと──私はついに決めた。
 全国高校生美術展に出す。
 “まだ名前のない色”を、誰かに見てもらうために。

 キャンバスの上に群青を置く。
 そこに白を少しずつ混ぜると、少しだけ光を含んだような青が広がった。
 その瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
 ──この色でいい。完璧じゃなくていい。

 「やっぱり、蒼はここにいたんだ」

 ドアの向こうから声がして、顔を上げると千尋が入ってきた。
 手には文芸部のノート、そしてアイスコーヒーのカップが二つ。
 「差し入れ。冷たい方が集中できるでしょ?」
 「ありがとう。助かる」

 千尋は隣の机に腰をおろし、少しだけ絵をのぞきこんだ。
 「……この色、優しいね。なんか、呼吸してるみたい」
 「“名前のない色”なんだ。まだ途中だけど」
 「ふふ、蒼らしい」
 千尋の笑い声は、まるで夏の午後の日差しみたいに穏やかだった。

 しばらく無言で筆を動かしていると、
 「ねえ、あたし、文芸部の新しい部誌に“群青”って詩を書こうと思ってるんだ」
 千尋がぽつりと呟いた。
 「群青?」
 「うん。蒼の絵を見てたら、なんか、ことばが浮かんできたの。
  “青は、痛みを隠して輝く色”って」

 私は筆を止めた。
 ──痛みを隠して、輝く色。
 まるで、今の私そのもののようで。
 「……それ、きっとすてきな詩になるよ」
 「でしょ? だから、完成したら一番に読んでね」
 千尋は軽く笑って、紙コップを差し出した。

 放課後になり、千尋が帰ったあとも、私は一人で筆を動かし続けた。
 夕焼けがガラス窓を染めるころ、陸が顔をのぞかせた。
 「お、やっぱりいた。千尋が、まだ描いてるって言ってた」
 「……サッカー部、もう終わったの?」
「うん。今日は部活サボって見に来た」

 陸は苦笑いしながら、絵を見つめた。
 「すげぇな……本気でやってるんだな」
 「うん。今回ばかりは、ちゃんと挑戦したくて」
 「そっか。じゃあ俺も、インターハイ予選、負けてらんねぇな」
 そう言って笑う陸の横顔は、夏の光をそのまま閉じ込めたみたいにまぶしかった。

 ──みんな、自分の場所で戦ってる。
 私も、描こう。この色で、自分の“今”を。

 群青を重ねるたびに、心の奥のざらつきが少しずつ透明になっていく。
 絵を描くたびに、私は自分のことを少しずつ許せるような気がした。

 その日の空は、淡く白んだ青だった。
 どこか、私の中の“まだ名前のない色”と似ていた。
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