群青色-まだ名前のない色-

菊池まりな

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第90話 風が描いた輪郭

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風が窓を揺らしていた。
 八月の終わり、夏休みも残りわずか。蝉の声がまだ校庭にこだましている。

 私は、美術室のキャンバスの前に立っていた。
 絵筆を握る指が、少しだけ震えている。あの日──澪から手紙をもらったときの言葉が、今も胸の奥で灯のように揺れていた。

 “描くときのあなたは、だれよりも強い。”
 その一文を思い出すたび、私の中に眠っていた色が、少しずつ息を吹き返していくようだった。


「……これで、いい」
 思わず口に出していた。

 筆先を離すと、静寂が広がった。
 描きかけの風景画──夏の終わりの空を題材にした、淡い群青と金色が溶け合うような光景。
 あの夏の日、校庭を渡っていった風。その記憶が、絵の中に閉じ込められている。

 ドアの外から、小さなノックの音がした。
 振り返ると、海野陸が顔をのぞかせている。サッカー部の帰りらしく、汗を拭いながら「おつかれ」と笑った。

「まだ描いてたのか。……それ、全国展に出すやつ?」
「うん。ようやく、形になったところ」
「そっか。……蒼らしいよ」

 そう言って、彼は少し照れくさそうに笑った。
 何が“らしい”のかは分からなかったけれど、その言葉がやけに優しく響いた。

「ねぇ、試合、もうすぐなんでしょ?」
「うん。最後の大会。……蒼の絵も、最後の夏の勝負なんだな」
「勝負って言葉、苦手なんだけどね」
 私が笑うと、陸も「だよな」と笑って、すぐに手を振って出ていった。

 夕陽が、ガラス越しに差し込む。
 キャンバスの白が、少しだけ金色に染まっていた。

 ──全国高校生美術展、応募締切まであと一週間。

 私は絵の前に立ち直り、深く息を吸った。
 手の中の筆が、もう震えてはいなかった。
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