群青色-まだ名前のない色-

菊池まりな

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第115話 ふたつの光のあいだで

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陸が帰ったあと、美術室には再び静けさが降りた。
 窓の外の夕焼けはもう薄くなっていて、教室の蛍光灯の白い光だけが、画用紙の上を照らしている。

 鉛筆を持ち直しながら、私はさっきの会話を何度も思い返していた。

 ──蒼が困ってたら、なんでもするから。

 陸の言葉は真っ直ぐで、優しくて、どこか切実だった。
 だけどその優しさに甘えるべきかどうか、自分でもわからない。

 私の心は、もうひとつの光にも揺れているから。

 千尋の言葉は、静かな青のように胸に溶けてしまう。
 気づけば、千尋の表情や声の余韻が、筆を進ませてくれていた。

 私は画用紙の上に並ぶ線を見つめた。

 ──千尋の言葉を色にしたら、どんな風景になるんだろう。

 そう思った瞬間、胸がじんわり熱くなる。
 この感情に名前をつけるには、まだ早い気がした。

 ドアが小さくノックされた。

「……蒼?」

 顔を上げると、今度は澪が立っていた。
 手には文庫本、そして小さな水筒を持っている。

「澪? どうしたの?」

「授業終わって教室に戻ったら、蒼がいないって千尋が言ってて……。具合悪くしてないかと思って」

 その言い方が澪らしくて、私は思わず笑ってしまった。

「大丈夫だよ。描きたくなって、美術室に来てただけ」

「そっか……よかった」

 ほっとしたように息をつく澪。
 その仕草がどこか可愛くて、胸が温かくなる。

「ねえ蒼、ちょっとだけ見ていい? 千尋ちゃんの表紙」

「もちろん」

 私は画用紙を澪の方へ向けた。
 まだラフに近いけれど、千尋の文章の雰囲気に合わせて、淡い線で風景を描いている。

「……やっぱり、蒼は絵がうまいね」

「そう? まだ全然途中なんだけど」

「でも、千尋ちゃんの言葉の“気配”がある。蒼の絵って、いつも誰かの想いを運んでるみたいだよ」

「運んでる……?」

「うん。蒼の『群青の手紙』だって、蒼らしい色だけじゃなくて、私たちの言葉や日常が全部、海に溶けてた」

 澪の言葉は、陸のように真っすぐではなく、千尋ほど静かでもなくて。
 だけど優しい火のように、胸の奥で灯る。

「蒼は、誰かの気持ちを受け取るのが上手なんだと思う。だから……大切にしてね。蒼自身の気持ちも」

 その言葉に、胸がぎゅっとつまる。

 私は気づいてしまった。

 ──私はいま、三つの光に囲まれている。
 陸の橙色の光。
 千尋の群青の光。
 そして澪の柔らかな白い光。

 どれも違って、どれも特別だ。
 私はその中心で、まだ名前のない色を探している。

「澪、ありがとう。私……ちゃんと描くよ。全部」

「うん。楽しみにしてる」

 澪は微笑むと、水筒を私に差し出した。

「冷たいお茶。集中しすぎて倒れないようにね」

「ありがとう」

 澪が美術室を出ていくと、私は深呼吸してもう一度画用紙に向き直った。

 ──私の色は、ひとつじゃなくていい。

 そう思えた瞬間、迷いが少しだけ溶けていった。
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