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第30話 桜の面影
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夏の終わりを告げるように、京都の風が少し涼しくなってきた。
桜月庵の厨房では、朝の仕込みが始まり、蒸し器からふわりと白い湯気が上がっていた。
美咲は、朝の挨拶を済ませ、慣れた手つきで作業に取りかかった。
最近では、佐々木から任される仕事も増え、練り切りや求肥の温度管理も一人でこなせるようになっていた。
「美咲ちゃん、昨日の“涼花”ね、常連さんに好評だったわよ」
パートの塔子が笑顔で声をかけてくる。
「本当ですか?よかった……」
「あなたの作る和菓子って、不思議なあたたかさがあるのよ。きっと、気持ちがこもってるのね」
美咲は照れくさそうに笑いながら、求肥を練る手を止めなかった。
その後ろ姿を見つめていたのは、若女将の梢だった。
「ねえ、美咲さん」
「はい、若女将」
「今夜、大女将があなたとじっくり話をしたいって。お時間、取れる?」
「もちろんです。……何かありましたか?」
梢は微笑みながら首を横に振った。
「話すのは、大女将に任せるわ。でも、いい機会だと思うの。あなたとおばあさまが、もう一歩近づける」
その晩、美咲は椿の部屋に呼ばれた。
床の間に飾られた一輪の秋桜が、部屋の静けさをより際立たせている。
「美咲。……よくここまで頑張ってくれたね」
椿の言葉に、美咲は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。まだまだですが、桜月庵の味を守れるように、もっと努力します」
「その気持ちだけで十分だよ。でもね、今日はそれだけじゃないの」
椿は机の引き出しから、一冊の古い帳面を取り出した。
表紙には、「昭和五十年 桜月庵製法記録」とある。
「これはね、私が若い頃、試行錯誤して作った記録なの。中には、あなたの母——春香が考えた菓子の断片も残っている」
美咲は驚きで目を見開いた。
「お母さんが……」
「春香はね、とても繊細な味覚を持っていた。でも、あの子は道半ばで和菓子から離れてしまった。……あなたには、その続きを歩んでほしいと思ってる」
帳面を手にした美咲の胸の奥に、何か温かいものが広がった。
「お母さんの、想い……ちゃんと受け取りたいです」
椿はうなずき、美咲の手を包むように握った。
「あなたなら、できる。今度、帳面に残っていた“桜薫”を再現してみておくれ」
「はい。必ず」
翌日、美咲は早速帳面を持って厨房に立った。
「お、どうした?珍しく目が燃えてるな」
悠人が笑いながら声をかける。
「お母さんのレシピに挑戦するんです。“桜薫単語”っていうお菓子、覚えてますか?」
悠人の表情が変わる。懐かしむように、少し遠くを見る目だった。
「覚えてるよ。母さんがね、春香姉さんのために最後に仕上げてた……あの香り、まだ忘れられない」
「なら、私もその記憶を再現したい」
悠人はゆっくりとうなずいた。
「手伝うよ、美咲。あれは、俺たち家族の味だからな」
二人は並んで材料を広げ、丁寧に作業を始めた。
少しずつ、過去の記憶が形を取り戻していくようだった。
湯気の向こうに浮かぶ桜色の求肥。その上にそっと香り高い桜の塩漬けをあしらう。
“桜薫”が、再びこの世に蘇る。
その味は、記憶と未来をつなぐ橋だった。
桜月庵の厨房では、朝の仕込みが始まり、蒸し器からふわりと白い湯気が上がっていた。
美咲は、朝の挨拶を済ませ、慣れた手つきで作業に取りかかった。
最近では、佐々木から任される仕事も増え、練り切りや求肥の温度管理も一人でこなせるようになっていた。
「美咲ちゃん、昨日の“涼花”ね、常連さんに好評だったわよ」
パートの塔子が笑顔で声をかけてくる。
「本当ですか?よかった……」
「あなたの作る和菓子って、不思議なあたたかさがあるのよ。きっと、気持ちがこもってるのね」
美咲は照れくさそうに笑いながら、求肥を練る手を止めなかった。
その後ろ姿を見つめていたのは、若女将の梢だった。
「ねえ、美咲さん」
「はい、若女将」
「今夜、大女将があなたとじっくり話をしたいって。お時間、取れる?」
「もちろんです。……何かありましたか?」
梢は微笑みながら首を横に振った。
「話すのは、大女将に任せるわ。でも、いい機会だと思うの。あなたとおばあさまが、もう一歩近づける」
その晩、美咲は椿の部屋に呼ばれた。
床の間に飾られた一輪の秋桜が、部屋の静けさをより際立たせている。
「美咲。……よくここまで頑張ってくれたね」
椿の言葉に、美咲は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。まだまだですが、桜月庵の味を守れるように、もっと努力します」
「その気持ちだけで十分だよ。でもね、今日はそれだけじゃないの」
椿は机の引き出しから、一冊の古い帳面を取り出した。
表紙には、「昭和五十年 桜月庵製法記録」とある。
「これはね、私が若い頃、試行錯誤して作った記録なの。中には、あなたの母——春香が考えた菓子の断片も残っている」
美咲は驚きで目を見開いた。
「お母さんが……」
「春香はね、とても繊細な味覚を持っていた。でも、あの子は道半ばで和菓子から離れてしまった。……あなたには、その続きを歩んでほしいと思ってる」
帳面を手にした美咲の胸の奥に、何か温かいものが広がった。
「お母さんの、想い……ちゃんと受け取りたいです」
椿はうなずき、美咲の手を包むように握った。
「あなたなら、できる。今度、帳面に残っていた“桜薫”を再現してみておくれ」
「はい。必ず」
翌日、美咲は早速帳面を持って厨房に立った。
「お、どうした?珍しく目が燃えてるな」
悠人が笑いながら声をかける。
「お母さんのレシピに挑戦するんです。“桜薫単語”っていうお菓子、覚えてますか?」
悠人の表情が変わる。懐かしむように、少し遠くを見る目だった。
「覚えてるよ。母さんがね、春香姉さんのために最後に仕上げてた……あの香り、まだ忘れられない」
「なら、私もその記憶を再現したい」
悠人はゆっくりとうなずいた。
「手伝うよ、美咲。あれは、俺たち家族の味だからな」
二人は並んで材料を広げ、丁寧に作業を始めた。
少しずつ、過去の記憶が形を取り戻していくようだった。
湯気の向こうに浮かぶ桜色の求肥。その上にそっと香り高い桜の塩漬けをあしらう。
“桜薫”が、再びこの世に蘇る。
その味は、記憶と未来をつなぐ橋だった。
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