桜の記憶

菊池まりな

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第1話 雨宿りの出会い

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四月の京都は、まさに桜の季節だった。

佐藤美咲は、薄いピンクの花びらが風に舞い散る石畳の道を歩きながら、胸の奥で何かが疼くような感覚を覚えていた。説明のつかない懐かしさが、心の深いところから湧き上がってくる。

「なんだろう、この感じ...」

美咲は立ち止まり、空を見上げた。桜の枝が青い空に映え、その美しさに思わず息を呑む。東京の出版社で編集者として働く彼女にとって、京都への出張は久しぶりのことだった。古い町並みを歩いていると、時間がゆっくりと流れているような錯覚に陥る。

しかし、その静寂を破るように、突然の雨が降り始めた。

「あっ!」

美咲は慌てて手提げバッグで頭を覆った。春の雨は容赦なく降り注ぎ、薄いブラウスがあっという間に濡れてしまう。周囲を見回すと、観光客たちも慌てて軒先に避難している。

美咲は急いで近くの建物を探した。古い木造の建物が立ち並ぶ通りで、その中でひときわ趣のある店構えが目に留まった。暖簾には「桜月庵」という文字が美しい筆で書かれている。

「和菓子屋さんかな...」

迷っている暇はなかった。雨はますます激しくなり、美咲は意を決してその店の軒先に駆け込んだ。

「すみません、雨宿りをさせていただいても...」

美咲が声をかけると、店の奥から男性が現れた。

「もちろんです。どうぞどうぞ、中へお入りください」

その声は、驚くほど温かく優しかった。美咲は顔を上げ、その男性を見つめた。

三十歳前後だろうか。穏やかな表情に、深い瞳。白いエプロンを身につけた姿は、職人らしい品格を漂わせている。黒髪は少し無造作だが、それがかえって親しみやすさを演出していた。

「田中と申します。よろしければ、奥でお茶でもいかがですか」

「あ、いえ、そんな...迷惑をおかけしてしまって」

美咲は遠慮がちに答えたが、男性は微笑みながら首を振った。

「迷惑だなんて、とんでもない。こんな雨の中、風邪を引いてしまいますよ」

そう言って、彼は美咲に清潔なタオルを差し出した。その瞬間、美咲の心に何かが響いた。この優しさに、どこか覚えがあるような気がしたのだ。

「ありがとうございます。佐藤美咲と申します」

「美咲さん、素敵なお名前ですね」

田中と名乗った男性は、美咲の名前を口にした時、一瞬何かを思い出すような表情を見せた。しかし、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻る。

「こちらへどうぞ」

彼に案内されて店内に入ると、美咲は思わず感嘆の声を上げた。

「わあ...」

店内は上品な木の香りに包まれ、季節の和菓子が美しく陳列されている。特に目を引いたのは、桜の形をした上生菓子だった。薄いピンクの色合いが実際の桜のように美しく、見ているだけで心が和む。

「桜餅もございます。よろしければ、どうぞ」

「いえいえ、雨宿りをさせていただいただけで十分です」

美咲は恐縮したが、彼は既に奥から温かい茶と共に、桜餅を運んできていた。

「せっかくの京都ですから。これも何かのご縁でしょう」

その言葉に、美咲は心を動かされた。確かに、これも何かの縁なのかもしれない。

「それでは、お言葉に甘えて...」

美咲は桜餅を一口食べた。その瞬間、彼女の中で何かが弾けるような感覚があった。

甘さの中にある微かな塩味。桜の葉の香り。そして、この味に確かに覚えがある。

「あ...」

美咲は箸を持つ手を止めた。心の奥で、誰かの声が聞こえるような気がしたのだ。

『さくらちゃん、美味しい?』

優しい男性の声。でも、それが誰なのか思い出せない。美咲は幼い頃の記憶の大部分を失っていた。五歳の時の交通事故の後遺症だと、養母の恵子から聞いている。

「大丈夫ですか?」

田中さんの心配そうな声で、美咲は現実に戻った。

「あ、すみません。とても美味しくて...なんだか懐かしい味がして」

「懐かしい?」

彼の表情が少し変わった。何かを確かめるような眼差しで美咲を見つめている。

「京都にいらしたことは?」

「いえ、仕事で来たのは初めてです。でも、この味...どこかで...」

美咲は首を振った。曖昧な記憶を追いかけても、答えは見つからない。

外では雨がやんでいた。店内に差し込む午後の光が、桜の和菓子を美しく照らしている。

「お仕事は?」

「東京で出版社の編集をしています。今回は古い建築物についての取材で」

「そうですか。東京から...」

田中さんは少し寂しそうな表情を見せた。

「あの、お名前を...」

「田中悠人です。この店は祖父の代から続いているんです」

悠人。その名前を聞いた瞬間、美咲の心に小さな波紋が広がった。

「悠人さん...」

名前を口にしただけで、なぜか心が温かくなる。この感覚は一体何なのだろう。

「雨もやんだようですし、そろそろ...」

美咲は時計を見た。取材の約束時間が迫っている。

「ありがとうございました。おかげで濡れずに済みました」

「いえいえ、こちらこそ。また京都にいらした時は、ぜひお立ち寄りください」

悠人は微笑みながら言った。その笑顔を見ていると、美咲は立ち去るのが名残惜しくなった。

「それでは...」

美咲は店を出ようとした時、振り返って言った。

「桜餅、本当に美味しかったです。きっと、また来ます」

「お待ちしています」

悠人の返事に、美咲は頬を染めた。

店を出て石畳の道を歩きながら、美咲は何度も振り返った。桜月庵の暖簾が風に揺れている。

心の中で、何かが動き始めていた。

雨上がりの京都の空気は清々しく、桜の香りが風に乗って運ばれてくる。美咲は深呼吸をして、胸の奥の不思議な感覚を確かめた。

悠人という名前。桜餅の味。そして、あの温かい笑顔。

すべてが、美咲の心に特別な印象を残していた。

「また、会えるだろうか...」

美咲は小さくつぶやいた。京都での短い出張が、こんなにも心に残るものになるとは思っていなかった。

桜の花びらが再び舞い始めた。まるで、美咲の心の動揺を表現するかのように。



一方、桜月庵では悠人が店の入口に立ち、美咲の後ろ姿を見送っていた。

「美咲さん...」

彼は小さくその名前を口にした。どこか聞き覚えのある名前。そして、桜餅を食べた時の彼女の表情。

悠人の心にも、小さな疑問が芽生えていた。

この出会いが、二人の運命を大きく変えることになるとは、この時はまだ知る由もなかった。
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