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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)
第15話:密会
しおりを挟む幼馴染の健太からメッセージ通知がスマホ画面に表示された。迷いもなく、浮かび上がったポップアップメッセージをタップする。
健太:今、近くにいる。
健太:今から会える?
私は、慌てて健太に電話をかけた。自分の今いる場所を簡潔に伝えると、健太は静かな声で言った。
「おばさんから聞いた」
「今、屋敷の門の前にいる」
私は絶句した。
実家から車で一時間はかかる距離。それなのに、健太は迷うことなくここまで飛ばしてきた。
(外出する時は瑛斗の許可が必要だけど…)
そんな契約上のルールが頭の片隅をよぎった。
けれど、受話器越しに聞こえる健太の、昔と変わらない少し低くて安心する声を聞いていたら、川の堰止めが壊れたかのように、勝手に涙が溢れ出した。
この数日、自分がどれほど孤独で、どれほど緊張し続けていたのかを、この涙の熱さが物語っている。神谷家に来てから押し殺していた、自由な私が自然と顔を出した。
「すぐ、行く!」
私はしがみつくようにそう告げると、通話を切った。濡れた髪のまま、クローゼットに並んでいた上質なカシミアのガウンを手に取る。
普段の私なら、一生縁がないようなブランドのロゴ。こんな繊細で高価な布地は、落ち着かない衣装でしかなかった。今の私には、これがいくらするのかなんて、どうでもいいと、さえ思う。
私の趣味とはかけ離れた華奢なサンダルに足を入れる。夜の深い静けさの中へと走り出した。門の外、街灯に照らされた健太の姿を見つけた瞬間、私の足はさらに速まった。
「……奈月!」
「健太……っ!」
門扉越しに再会した健太は、私の格好を見て、困ったように、けれど愛おしそうに目を細めた。
「……奈月!どうなってるんだよ」
「髪も濡れたままだし」
「……」
声を出せば、今にも情けない悲鳴が漏れてしまいそうだった。神谷家という巨大な牢獄ともいえる場所で、強い自分を演じてきた。けれど、健太の呼びかける声も、その瞳に宿る心配そうな光も、私の知っている昔のままのように感じた。
(だから、弱音を吐きたいと思った)
健太に泣きつけば、きっと私を連れて出してくれるだろう。でも、そんなことをすれば健太まで神谷家の闇に巻き込んでしまう。私一人が、この担保としての運命を全うしなければならない。
(でも、……本当に私一人が、背負うものなの?)
そう、心の奥底で小さな声がした。二十歳そこそこの私に、15億という重すぎる鎖。そもそも、年齢なんて関係ないほどに多額なのだ。泣きついたって、誰も私を責めることなんてできないはず。たった一人で耐え続けるには、この屋敷の夜はあまりに寒すぎる。
そんなことを思っていると、門の隙間から健太が手を伸ばした。その手は、私の濡れた頭をわしゃわしゃと乱暴に、けれど優しく撫でた。無骨な手のひらの温度が、氷ついていた私の心を、容赦なく溶かしていくのが分かった。
(元の生活に戻りたい)
「頬も冷たくなってるぞ」
そう言って、健太の大きな手が自然に頬を触れた。かつての日常にあった、気取らない、けれど絶対的な安心感。健太とバカな話をして笑い合っていた日々の楽しさ。当たり前だったはずの温かな環境。
「ほら、これ着ろ」
健太が自分の上着を脱いで、私に渡そうとしたその時、抑えていた感情が雪崩れのように溢れ出した。
(涙が止まらない)
そのすべてが愛おしくて、鉄格子にしがみつくようにして、門の隙間から健太の胸元に顔を寄せた。健太も格子越しに私を強く抱き寄せようと、その腕に力を込めた。
冷たい鉄の感触と、健太の体温。その温もりに、ようやく息が吸える気がした――。
「その男は誰だ。離れろ」
背後から、夜の静寂を切り裂くような冷徹な声が響いた。
振り返ると、瑛斗が立っていた。
街灯の光を背負ったその表情は、影になって見えない。けれど、そこから放たれる空気は、触れただけで斬り裂かれそうなほど鋭く、冷たかった。
「え、瑛斗……っ」
私は咄嗟に健太から離れようとしたが、その前に瑛斗の長い足がこちらへ歩み寄った。瑛斗は私の腕を乱暴に掴むと、そのまま自分の背後へと引きずり戻す。
「おい、奈月をどうするつもりだ!」
門の向こうで健太が叫び、鉄格子を掴む。瑛斗は健太を一瞥すらせず、冷淡に言い放った。
「不法侵入者だ。門番は何をしていたのだ。この男を今すぐ排除しろ。二度と神谷家の敷地に近づかせるな」
瑛斗の冷徹な怒号が響く。
あんなにも、涙が止まらなかった私なのに、こういう時だけは、妙に感覚が冴え渡っていた。契約書を確認し、ゲスト棟の窓から毎晩のように外を観察していた私には分かる。本来、神谷家の門番が持ち場を離れることなど、万に一つもあり得ないはずなのだ。
(……どうして、誰もいなかったの?)
私が門まで辿り着けたのも、健太とあんなに長く話せていたのも、今の神谷家では異常な事態。まるで、誰かが意図的に空白の時間を作ったかのような……。けれど、その疑問を口にする隙さえ、瑛斗の放つ殺気が奪い去っていく。
闇から湧き出るように数人の男たちが現れた。
「離せ!」
「奈月!奈月——っ!」健太の声が遠ざかっていく。
屈強な男たちに囲まれ、健太は夜の闇の向こうへと押し戻されていった。私はその場にへたり込みそうになったが、瑛斗の強い力がそれを許さない。私の耳元に顔を寄せ、低く、地這うような声で囁いた。
「……他人の前で、そんな顔を見せるな」
「俺の腕の中で泣けばいいだろう」
その言葉は、優しさとは程遠い、残酷なまでの独占宣言のように耳に残った。瑛斗の指が、私の二の腕に強く食い込む。逃げることなど許さないと言わんばかりの、抵抗を封じるほどの力。痛みと恐怖で、言葉が喉に張り付いて出てこない。
「俺の許可なく。……明白な契約違反だな」
瑛斗の低い声が、夜の冷気よりも鋭く鼓膜を刺す。
(契約違反)
その四文字が、魔法が解けたかのように私を現実へと引き戻した。私がここで瑛斗に従わなければ、守りたいものすべてが崩壊する。そんなことは分かっている。けれど、もう……心が限界だった。
健太の温もりが残る頬を、今度は瑛斗の冷たい指先がなぞる。瑛斗は健太が触れた場所を上書きするように、ゆっくりと、執拗に指を滑らせた。
「……逃げられると思うな、奈月」
瑛斗は私を抱き寄せるというより、獲物を捕らえた猛獣のような手つきで、本館へと引きずっていく。遠ざかる鉄格子の向こう。健太の叫び声はもう聞こえない。
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(この人は、今までどんな場所で、どんな生活を送ってきたんだろう)
財閥という檻の中には、庶民の私には想像すらできない孤独があるのかもしれない。
その「俺」という一人称の変化は、私にとって15億という数字よりも、ずっと恐ろしく響いた。それに、契約違反を突きつけられた私は、どうなるのだろうか。このまま、あの惨めな借金生活へ逆戻りするのだろうか。
――掴まれた腕の痛みとともに、私は底の見えない闇へと引きずり込まれていく。
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