神創系譜Episode.0 夢幻の闇

橘伊鞠(ろさ)

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夢幻の闇

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 怖かった。戦うことも、いなくなってしまうことも。
 でも、私はきっと見つけてみせる。
 姉さん。

 姉さん……私、ひとりぼっちだよ。


「はあ……今日も収穫はなし、か」

 リリーは自宅に着くなり、ベッドに倒れこんだ。ふわふわとした感触が心地よかったが、彼女の眉間には皺が寄っている。
 リリー・ウルビア、十六歳。
 聖騎士になってからまだ二年目の夏。彼女は行方不明になった姉、セイレを探すため手がかりを求めて街から帰ったばかりだった。

「姉さん、どこいっちゃったんだろ」

 突如居なくなってしまった姉。リリーは、独り生きるしかなかった。
 両親との折り合いは悪く、聖騎士になってからはすぐにこの朝焼けの街ガウディに引っ越してきた。

「姉さん、私頑張ってるよ……」

 そう自分自身に言い聞かせる。だが、しょんぼりとした表情で枕を掴む。
 両親や姉と離れ離れになってしまったリリーの心には、深い淋しさと悲しみが漂っていた。
 少し体を起こし、姿見を見る。長い髪は姉の真似をして伸ばしてみたはいいが、やはり邪魔なので、耳の下で二つに結っている。
 そうすると幼さが増し、姉とはかけ離れた容姿となっているのだが、それでもリリーは満足げに髪を梳かした。

「もう一度……もう一度だけあの酒場に行ってみよう。さっきはお客さん少なかったし」

 リリーはぴょんと兎のように軽く飛び起きると、お世辞にも格好のいいとは言えない古い剣を持ち家を後にした。
 酒場とは、ガウディの中心街にある大きな酒飲み処。内装は異国情緒な雰囲気。それというのも主人が遠く離れた土地の人間のためらしい。
 外は真っ暗で、丁度時間帯のせいもあり店の中は客で満杯だった。

「……人が多い。でもこれだけいたら、一人くらいは姉さんのことについて知ってるかな……」

 酒場の中をきょろきょろしていると、あまりに場違いな少女に興味を持った酔っ払いが案の定からんできた。

「お酌してくれるかい?」

 急にその中の一人がリリーの進行方向を遮るように、グラスを持った手を差し出してきた。

「可愛いな、ここの子?」

 からんできたのはまだ若い聖王国兵。鎧の獅子の紋が煌めく。兵士達数人は立ち上がり、リリーの前と後ろに立ちはだかると、にたにたと薄笑いを浮かべた。

「どいてよ!」

 震える声で言うと、兵士達は一斉に、笑いあった。

「『どいてよ!』だってよ。可愛いねえ」

「ん? おい見ろよ、この子の腕……」

 ふと、兵士の一人がリリーの腕の紋章に気付いた。聖騎士たる証の、その紋章に。

「聖騎士か」

「だったら何」

 強い口調で言い返す。
 だが兵士は退く気配もなく、リリーの顔を覗き込みこう言った。 

「聖騎士なんて国のおこぼれにあやかるおっさんが多かったんだが……こんなお嬢ちゃんもいるなんてな。おし、こっち来い」

 兵士はリリーの腕を掴み、無理矢理酒場の奥の方に連れていこうとした。リリーは腕を振り払おうとしたが、大人の男性の握力に為す術もなく。その恐怖故、瞳にじんわりと滲んでくる涙が悔しかった。

「離してよ!」

「じたばたすんなよ!」

 店の奥は個室がいくつもあり、そのひとつにリリーは押し入れられそうになった。なんとか手足をばたつかせ抵抗するものの、屈強な兵士達に囲まれてはそのあがきは無駄に終わる。
 細腕で男性の力に叶うはずもなく、恐怖で剣を取ることすら忘れてしまう。
 むせかえるような酒の匂いと、見たことも無い男の表情。
 怖い――。脳裏に浮かぶ姉の顔。だが今はいない。
 あっけなく床につけられた腕から、抵抗の意志が消えそうになった時だった。
 兵士の一人が宙に浮かび、店内の入り口の方へと軽く吹っ飛んでいったのだ。

「おい! 何してんだ!」

 異変に気付いた兵士達がそちら振り向く。だが更に次の瞬間、周りにいた男たちは、ある者は襟首を掴まれ、またある者は腹を蹴られてひっくり返った。
 兵士達は叫び声を上げ、次々と倒れていく。店の中にいた客達は目の前で繰り広げられる光景に恐れ、机や椅子を引っ繰り返しながら壁ぎわに逃げていく。

「なんだお前は!」

 兵士の一人が剣を抜いて振りかぶる。だがそれよりも速く銀色の片刃が煌めいた。
 すると兵士の前髪が、何の感触も音も無く、ばさりと切れた。だがその肌に怪我はなく、髪だけがはらはらと落ちて行く。

「そのまま下がれ」

「その刀……お前まさかあの!」

 言わせまいとでもするかのように、男性は更に刀と呼ばれた武器を振るった。
 すると今度は、兵士の衣服の前身頃がばさりと切れる。しかしまた、肌は傷ついてはいない。

「下がれ」

 兵士は無言で足を退き、酒場の入り口に走った。
 そうしてるうちにリリーを囲っていた兵士達は、ものの見事に全員倒れてしまった。
 目を固く閉じ、個室の入り口で震えていたリリーだったが、静かになったことに気付くと、恐る恐るその双眼を開いた。そこには、地面に倒れた兵士達の中に佇む男性がいた。

「殺していない。騒ぐな」

 そう言ったのは、漆黒の髪、大柄な体、そして夜の色を塗りたくったような闇色の服を着た男性だった。
 服は前合わせの長着で、腰のあたりで帯を結んでいる。
 手に持っている武器は長尺で、片方だけ刃がある細い剣だった。柄には紅色の布が規則正しく巻かれており、金細工の飾りや紋様が見える。

「刀だ」

「東の民族だ」

 そこかしこで囁く声が聞こえる。
 男性は表情を変えることなく刀を鞘に納めると、じろりとリリーを見る。
 だが、リリーが声も出せずに怯えていることに気付くと、静かに歩み寄ってきた。

「平気か?」

 黒い髪の男性は、そう言いながら大きな体を屈め、リリーの前に膝をついた。

「喋れないのか?」

 男性は再度尋ねたが、リリーは両手で自分を抱いたように固まったまま、動けない。

「恐がらなくてもいい。俺は、こいつらのような男ではない」

 蒼い瞳がまっすぐリリーの瞳と合わさると、リリーは少し緊張がとけ、やっと言葉を発した。

「あ、ありがとう……」

 男性は無言で口端だけを上げ小さく微笑み、立ち上がった。

「……まずいな」

 遠くから、複数の足音が聞こえてくる。店の誰かが、自警団か兵士を呼んだのだろう。

「待ってください!」

 リリーはすがるように、男性の服の裾を掴んだ。

「ん?」

 急に服をひっぱられ、男性は驚いて立ち止まる。

「あっ……あの」

 だが、リリー自身もとっさに自分が起こした行動に驚いた。
 今一人になりたくない。恐い。情けない……。
 どう言えばいいのか分からず震えていると、男性は少し困ったような顔をした。
 そして小さく溜息を吐くと、そっとリリーの頭を撫でた。

「行くか?」

 その全てを察知したかのような一言に、リリーは心からの笑顔で答えた。

「はい!!」

「……分かった」

 黒髪の男性は頷くと、リリーの背中を押した。そうして走りだしたリリーの後を守るようにして、男性もまた走る。
 夜の街に息が弾む。遠くで兵士の怒鳴り声が小さく消えていくのを聞きながら、リリーは闇へと駆け出して行った。

   *  *  *

 どれくらい走っただろうか。リリーはさすがに息が切れてしまった。
 男の走る速さは尋常ではなかった。きっとリリーがいるため少し速度を落としていたのだろうが、それでもまだ十六歳のリリーにとっては、きついものがある。

「もう良いだろう」

 どうやら中心街から町外れの川まで走ってきてしまったらしい。にもかかわらず、男性は涼しげな顔をしている。

「大丈夫か」

 男性はリリーを気遣い、傍に寄る。
 リリーは悔しさに唇を噛み、必死に息を整え、汗を拭き姿勢を正した。
 しゃんとすると、その瞳を男性に向けこう言った。

「あの、助けてくれてありがとう。私は、リリー。リリー・ウルビア」

「……俺の名は昴だ」

 黒髪の男性は低く答えると、腕を組んで目を伏せた。

「スバル? ……変わった名前」

 リリーは確認をしながら、素直な感想を洩らす。その言葉に昴は眉をひそめた。

「悪かったな」

「あ、その、そういうつもりじゃ……。……ごめんなさい」

「……別にいい」

 リリーは罰が悪そうに昴を見上げる。
 黒髪が夜の月に映え、風に流れている。不思議な雰囲気を持つ彼に、リリーは少し緊張していた。

「お前は何故あのような場所にいたのだ?」

 昴は訝しげにリリーを見る。するとリリーはためらいがちに答えた。

「姉さんを探しているの」

「姉さんだと?」

「私の姉さんは、聖騎士だったけど。突然いなくなってしまって。それで……」

「酒場に行き情報を集めていたのか」

「うん」

 昴がそれを聞き、何か考察にふけりながら眉をひそめた。
 そのまま沈黙は長く、リリーは落ち着かずにそわそわし始める。
 虫の音がやけに大きく聞こえ、遠くの山に吹く風さえも、まるで近くの轟音のように鳴る。
 さわさわと流れる川に月が沈み、雲がかかりを見せた時だった。
 ひとしきり考え込んでいた昴が、やっと口を開いた。

「リリー。ひとつ言っておこう」

「えっ」

 急に話し掛けられ、リリーの肩が跳ねたが、昴は気にせず話し続ける。

「酒場は確かに、貴重な情報を持った人間が出入りする場所だ。……だがな、同時にそれに値するだけの危険な場所ということも覚えておいたほうがいい」

「は、はい……」

 昴の言葉はリリーをたしなめるものだったが、言葉節の中に彼女を心配している気持ちが隠されていた。

「……お前は本当に聖騎士なのか?」

「うん、一応は……ちゃんと試験も受かったから……」

「あれでは異形と会えばすぐに死ぬ」

 リリーは痛いところを突かれ泣きだしそうになった。だがぐっと拳を握ることでなんとか平静を保った。

「分かってる……」

「聖騎士がどんなものか、俺は詳しくは知らん。だがお前の腕前は見れば分かる。奢らずに鍛錬することだ」

 そう言いながら、昴は横目にリリーを見た。辺りは暗く、彼の目線からでは表情が分からないが、リリーが泣いているようにも見えた。
 昴が少しばつが悪そうにしていると、リリーが急に顔を上げた。
 やはり瞳は涙に滲んでいたが、その小さな拳を胸の前で揃え、震える声でこう言った。

「……私に、剣を教えてください!」

「なんだと?」

 昴は耳を疑った。リリーは必死に早口でまくしたてる。何かを決意したように。

「私には剣の師が居ません。剣は、姉の練習を盗み見ただけで、真似しかできないんです。騎士の任務も簡単なものしかしたことがなくて、……ていうか、難しいの回されなくて。でも、ちゃんと強くなりたい!」

「……俺に剣を請うと?」

「お金ならちゃんと払います! だから、お願いします!」

「違う。そういう話ではない」

 昴の表情は全く変わらず、怒っているのかどうかさえも分からなかった。
 だがリリーは、真剣な面差しで昴を見つめる。
 強くならなければ、姉を探すどころか生きていけるかさえ危うい。
 絶対に探し出したい。たった一人の姉。そのためなら、リリーは形振り構ってなどいられなかった。

「ならば、ひとつ条件がある」

 昴はそう言うと、腰にあった刀を、鞘に収まった状態のまま構えた。

「俺に一太刀でも当ててみせることができたら、考える」

 途端、リリーは凍り付いた。まさか、あの数人の兵士を一瞬で倒した人物と、まだ基本も何も出来ていない自分が立ち合ったところで、一撃も当てれるわけがない。

「そんなの!」

「無理ならこの話はなしだ」

 昴は腕を組んだまま、またため息を吐いた。恐らく、リリーをあきらめさせるために言ったのであろう。だが、リリーの決意は揺るぎなかった。

「やります。勝てば、剣の師になってくれますか?」

「……いいだろう」

 昴は、目の前の少女の瞳の奥にある決意を受け取った。

 河原は真っ暗で、遠くにある街の灯りだけが唯一の道しるべ。
 刀を向け合う二人の足元には夜風にさわさわとなびく草が生い茂っている。
 昴は腰に携えていた刀を抜刀はせず、ぴたりと向けている。
 対するリリーも不恰好な古い剣を、拙いながらも必死に構えていた。

「本当にやるのか?」

 昴が問う。

「ここまできて、引き下がったりしない」

 リリーは真剣な眼差しで昴を見つめた。
 少し離れた場所では、陽瀏が黙って見守っている。

「ならば、行くぞ」

 先に仕掛けたのは昴だった。地を蹴り素早くリリーとの間合いを詰めると、刀を一気に真上から振り下ろした。

「ッ!!」

 急に間合いを詰められ、リリーはその速さに驚愕したが、頭上から迫りくる剣撃に気付くと身を大きく左に躱した。
 間一髪、リリーのさっきまでいた地面は昴の繰り出した剣圧により見事にえぐれ、草が辺りにひらひらと舞散った。
 それを見てリリーの背筋に悪寒が走る。冷や汗が頬を伝うが、それを拭う間もなく次の攻撃がリリーを襲う。

「くッ……!!」

「どうした、防ぐだけでは意味がないぞ」

 連続した剣撃をなんとか剣で防御するが、一発一発の鉄の塊がぶつかってくるような衝撃に、細いリリーの腕が耐えられる筈はない。
 ――なんて力なのか。
 腕の感覚が無くなっていくのが、リリーには分かった。

「……終わりだ」

「きゃあ!!」

 最後に激しい剣撃の音がすると、ついにリリーの持っていた剣は吹き飛ばされ、無残にも真っ二つに折られた形で地に突き刺さった。

 勝負は一瞬にして幕を閉じた。
 リリーは後ろに尻餅をつく形で倒れ、痺れた手を擦りながらうずくまっていた。昴はそれを確認すると、慣れた手つきで刀を腰に差した。

「終わりだ」

「っ……」

 悔しそうに震えるリリーに何も声をかけることはなく、昴はそのまま背を向ける。
 そのまま立ち去ると思われたが、昴は空を見上げて呟いた。

「……俺は、ガウディの中心街の宿に数日滞在する」

「え……?」

「日中は大体宿にいる」

 唐突な会話にリリーも目を丸くする。顔を上げると、昴が背を向けたまま目だけでこちらを見ていた。
 夜の闇に光る蒼い瞳に、息を飲んだ。

「たかだか一度の負けであきらめるようでは、その決意は痴れた物ということだ」

 昴はそれだけ言うとさっさと河原を後にした。
 足音が遠ざかり、再び虫の音が響く。よろよろと立ち上がったリリーは、折れた剣を拾い上げた。

「数日はいる……一度負けたくらいで……?」

 リリーは昴の言葉を反芻すると、その意味を理解しぱっと笑顔になった。

「それって!」

「早く帰って寝ろ」

 素っ気なく言い残し、昴はその場を立ち去っていく。
 寒い夜風が吹いていたが、リリーは嬉しさに高揚していた。
 うん、と頷いて、壊れてしまった剣を握りしめる。走り出したその顔は、紅く染まっていた。

 ――こうして、リリーが強くなるための期限付きの剣の稽古が始まった。
 リリーは朝起きるとすぐに、昴が滞在している宿屋に向かった。
 昴は初めは、「本当に来たのか」と驚いていたが、まんざらでもない様子でリリーの挑戦を受けた。
 稽古の場所はいつもあの河原。昴は絶対に抜刀しなかった。
 終わると昴はかならずリリーの悪いところや、なってないところを指摘する。リリーはそれを素直に聞きながら、必死で手合せに打ち込んだ。
 五日経った頃には、リリーの剣の腕は、素人よりは少し脱することができた。

「最初の頃とは大違いだな」

 八日目の昼。対戦後、昴はへたりこんだリリーを見ながらそう言った。

「本当!?」

「よくやったな」

 いつも無表情だった昴だが、ふいにとても優しい表情を見せた。
 リリーはそれを見て、気恥ずかしそうに頬を赤らめ笑顔を見せた。

「だが――お前はもう少し冷静になるべきだ。がむしゃらに突っ込まず、相手の位置や技の隙を見極めるんだ」

 リリーは眉を寄せて抗議する。

「だって昴、一度も剣を抜かないから」

「真剣でやり合うと危ない」

「それに稽古が終わったらさっさと帰っちゃうし」

「他に何があるんだ」

「そうだけど……そうじゃなくて」

 リリーは口籠もる。
『昴は、もうすぐどこかへ行っちゃうんでしょ?』
 残り少ない一緒に過ごす時間を大切にしたい。
 そう言いたいのだが、知り合ってそんなに日にちも経っていない相手にそんなことを言うのは気が引ける。
 少ない時間だったが、この何日かで二人は打ち解けていた。いつのまにか、彼らを自分の心の拠り所にしてしまうくらいに。
 両親も死に、姉もいなくなり、身寄りのない少女が求めていたのは、自分の居場所だったのだろう。
 そんな彼女の心情を知ってか知らずか、昴は悪い気など見せず、暖かい心を以って接していた。

「……どうした?」

 昴が不思議そうにリリーを見つめる。リリーは首を左右にふり、前髪をいじりながら苦笑いをした。

「なんでもない」

 昴は眉を寄せ、理解不能という顔つきをした。

 ――いいんだ。こんなこと、言わなくても。
 どうせいなくなっちゃうんだから。
 私のこんな気持ちなんて伝えたら、迷惑だ。 

  *  *  *

 九日目の夕方のことだった。
 辺りは橙色に染まり、鈴虫の鳴き声が聞こえる。しゃらしゃらという川の水音とあいまって、音楽を奏でているようだった。
 リリーは、いつもどおり昴と手合せをしてもらい、へたりこんだ状態で河原に横たわっていた。

「リリー」

 不意に、視界に昴が現われた。

「何?」

 リリーは体を起こし、背中についた草をはらいながら昴を見上げた。

「今日は昨日よりよく状況判断が出来ていたな」

「ほんと?」

「ああ」

 昴はめずらしくリリーを誉め、傍らに座る。
 ふわりと、白檀の香りがする。リリーには嗅いだことのない香りだったが、それが昴の香りだと思うと妙にこそばゆかった。

「へへ……」

 なんかお父さんみたい。お父さんにしたら若いかな?
 お兄さんとか。だったらいいな。

 リリーは幸せを噛み締めていた。それは家族の愛に飢えているが故のこと。
 自分のために真剣に剣を教えてくれる、素性も知らない青年。
 リリーはいつしか昴に対して、淡い恋心のようなものを抱いていたが、それは父親に愛情を求める子供のそれともよく似た感情だった。
 ふいにまた、リリーに負の感情が襲いくる。
 これは、今だけの幸せだ。昴が居なくなったら、また一人になるんだから。そう思うと、なんだかとても虚しくなっていく。

「あ、あの昴!」

「なんだ?」

 リリーは背伸びをして必死に彼に目を合わせた。

「私、昴のこと好きだよ!」

 いきなり何を言いだすのか。さすがに驚いたらしく、昴は目を丸くした。
 胡坐をかいたまま、石のように固まってしまった。

「あっ! 違う! そうじゃなくて……あの……人として!」

「……驚かせるな」

 昴は困ったようにそう言うと、腕を組む。
 河原の向こう側をぼうっと見つめた後、思いついたように語り始めた。

「リリー。俺には、……お前ぐらいの娘がいる」

「えっ!?」

 リリーは前のめりになり、あんぐりとして昴を見た。
 昴の外見は、どう見ても二十代半ば、よくいっても後半だ。
 しかし昴は冗談を言うような男ではない。無表情のまま、淡々と続けた。

「今年で十六になる」

「それって、私と同じ年?」 

「ああ、しかもお前と同じ聖騎士でな。俺に似ず、母親に似て美しい娘だ」

 そう言った昴の口元が、僅かに緩むのをリリーは見た。
 なんだか自分まで嬉しくなり、満面の笑みを浮かべた。

「会ってみたい!」

「ああ……会えるといいな」

 娘なのに、どこか遠くにいるような言い方をする昴にリリーはきょとんとした。
 何か事情があるのだろうか。だがその美しい横顔を夕陽が誘い、答えを隠しこむ。
 どこで生まれて、何故この街に来たのか。何も知らない、不思議な男性。
 彼との間にあるのは、一振りの刀。それだけだった。
 リリーは姿勢を正すと、昴に向き直る。座ったまま頭を下げて微笑んだ。

「ありがとう昴。稽古も……明日で、終わりだね」

 リリーはなんともいえずしおれた花のようにしょんぼりとした。

「お前はよく頑張った」

「もうちょっと、時間があったらいいんだけどなあ」

 昴はリリーの肩に手を置き、軽く叩いた。

「また明日な」

 ――また明日。だが、明日が終われば……
 昴は、この街からいなくなる。また、私は一人になる。
『淋しい』って、こんなにも、辛いことだったんだ。

 終わりを告げるように、陽が山の端に沈む。
 暗くなる河原に、より一層虫の音が響く。さてと立ち上がるリリーだったが、不意にその手を引かれた。

「ひゃっ!」

「待て」

 昴はリリーの手を引き、再び座らせた。勢いよく座ったせいで、昴との距離が近づく。

「目を凝らして、あそこを見ろ」

「え……ど、どこ」

 リリーは赤くなりながらも言われるままに目をこらす。向こう側の河原にも草が生い茂り、時折鈴虫の声が聞こえるくらいなのだが。

「あの橋の方だ。よく見ろ」

 リリーの視界には闇が広がるばかりだった。じっと見つめてもそれは変わりはしない。
 一体何を見ろというのか。分からないまま言われた通りにしていると、ふわりと緑色の小さな光の粒が、浮かんで消えた。

「……おばけ!」

「落ち着け、ちゃんと見ろ。あれは……」

 昴が言い終わるや否や、緑色の小さな光はまた現われた。
 今度は、大量に。

「蛍だ」

 まるで天の川の星を全部引っ繰り返したような光景。小さな光の粒たちは、ゆるやかな軌跡を描きながら舞う。
 その光を川がまた反射し、実際よりも倍以上の数に見える。不思議で、神秘的な空間がリリーの視界に広がる。

「ほたる……?」

 リリーは駆け出した。河原にかかる、木の橋に立つ。蛍はリリーから一瞬逃げたが、しばらくすると舞い戻ってきた。
 不思議そうに手を伸ばすと、蛍は高く飛び始めた。それに呼応して、草むらの蛍も舞い上がる。
 地面から溢れ出た光は、夜の星を目指し始めた。

「綺麗……」

「こんなところにもいるとはな」

「初めて見た!」

「良かったな」

「うん!」

 口下手なのか、無表情で返事はそっけない。だが彼は笑っているように見えた。

「昴、本当にありがとう。優しくしてくれて、剣を教えてくれて」

「ああ」

「私がんばるよ。姉さんを絶対に見つけてみせる!」

「……ああ」

 風が冷たさを帯び、いつのまにか、月も雲にその身を隠していた夜。
 刹那に舞う灯の中で佇む二人。その間には、刀がひとつ。
 リリーは目の前の光の大群に身を委ねたまま、幸せを噛み締めていた。

 ───だが、昴が街を発つ日。事件は、起こった。

「たっ助けてくれ!!」

「きゃああああ!!」

 ガウディの街は騒然とした。中央街の広場。突如として現われた異形の生物。
 人々は、口々に「悪魔」と呼んだ。
 逃げまとう人々を追いかけるでもなく、異形は広場の噴水の側に、膝をついていた。
 形は、成人男性のように見えるが、明らかに違うのは、その顔つきに、全身に広がった黒い紋様。まるで、何かの呪印のように。
 耳まで裂けた口からはぼたぼたと涎と荒い息が洩れ、眼光鋭く、何かを探すように辺りを見回していた。

「あああ悪魔め!!」

 手に剣を持った、旅人らしき剣士がそれに斬り掛かった。だが、切っ先は悪魔に到達することはなく、剣士の体は見えない衝撃破によって大きく吹き飛ばされる。

「ニンゲン、ニンゲンンんンん!!!」

 悪魔は空を仰ぎ叫んだ。悪魔の前にはまだ一人、剣を持ち構える者がいた。
 震えながらも、必死に立ち向かったのはリリーだった。

「悪魔め! よくも!!」

 リリーの瞳は憎悪に染まっていた。おそらくこの悪魔がこの街に姿を見せた時、いちはやく駆け付け応戦したのだろう。衣服は汚れ、何度も倒れて擦れた跡があった。

「ぐがぁアぁぁアッッ!!」

 悪魔は獣のように四つんばいに走りだすと、リリーに飛び掛かった。伸びた鋭い爪がリリーに迫る。

「はぁぁあ!!」

 リリーは剣を前に持ち、襲いくる悪魔の腕を思い切り斬り付けた。

「ぐぎゃぁぁぁあ!!」

 見事に剣は悪魔の片腕に大きな切り傷を残す。だが致命傷には至らず、悪魔の戦意が失われた様子もない。

「お嬢ちゃん早く逃げろ!!」

「騎士だからってあんたにゃ無理だ! 若すぎる!」

 遠巻きに街の人々は声をあげた。先程の剣士を含め、リリーの足元には何人もの死体が横たわっていたからだ。
 リリーは時折視界に入る無残な屍を見て、気が変になりそうだった。
 だが、今こそ騎士として初めて悪魔を倒す機会かもしれない。
 彼らに教わった技術が役に立つとき。立派に倒してみせれば――旅立つ彼らへの恩返しになる!
 そう思うと、リリーの中の恐怖は消え去った。

「来い悪魔!」

「ナぜ、なぜ、ニンゲンんんンんン!!!!」

 悪魔は再び四つんばいに走りだし、疾風のごとくリリーに飛び掛かった。 

『冷静に、よく状況を判断するんだ』

 頭に、昴の言葉が浮かんだ。
 リリーはハッとし、ただがむしゃらに構えていただけの剣を瞬間的に持ち直す。
 そして体を低く構え、体をわずかに左にずらすことで悪魔の爪をかわした。

「グァ!?」

 悪魔からはリリーが急に消えたように見えた。急いで標的の姿を探すが、もう悪魔に次はなかった。
 かわしたことで背後をとったリリーは、鈍く光る剣先を悪魔に向けて振り下ろした。
 刹那、断末魔の叫びとともに悪魔の体から焦げたような匂いのする黒い血液が吹き出した。

「ぎゃぁああああ!!」

 脳天から背中にかけて深く斬り付けられた悪魔は、体を痙攣させ地に転がり悶え苦しむ。
 リリーは剣を振り下ろしたままの態勢で、黒い返り血を拭うこともせず立ち尽くしていた。
 だが、恐怖に震えているのではなかった。口端を僅かにあげ、目の前の悪魔を無慈悲に見つめていたのだ。
 悪魔はそのうち動かなくなり、ぴくぴくと痙攣をするだけになった。

「リリー!!」

 広場に駆け付けた昴は、返り血に塗れたリリーを見つけると急いで駆け寄ってきた。
 昴はすぐに悪魔とリリーの間に立ち、それが完全に死んでいないのを察知し刀を抜き警戒している。
 リリーの前に立ち、「大丈夫か」と問い掛けたが、少女から返ってきた答えは意外なものだった。

「意外と、簡単に斬れちゃうんだね………」

 少女は、冷たく言い放った。

「……リリー」

 昴は不覚にも、背筋に冷たいものが走るのを感じてしまった。あの兵士との戦いぶりを見る限り、剣の腕前は達人級であろう彼が、一瞬だが確かに、少女に言い知れぬ「恐怖」を感じた。
 刀を構えたまま、昴は悪魔を見て眉をしかめた。
 悪魔の背中にまっすぐに走る剣による切り傷。まるで定規をあてて斬ったかのように、背骨に添い悪魔に致命傷を与えていた。
 昴がリリーを見ると、リリーは何かまだ物足りない様子で悪魔を見ていた。
 その横顔は、十日前に会ったあの少女とはまるで別人に思えた。

「あんた! 危ない!」

 街の住民の声で昴はハッとし、反射的にリリーを抱き抱えるように庇った。
 悪魔は再び立ち上がり、血液を撒き散らしながらも衝撃破のようなものを放ったのだ。

「妙な技を使う。これが悪魔か」

 衝撃破がやむと、昴はリリーを放し、前へ歩み出でた。
 悪魔は牙を剥き、大きく息をしながらこちらを伺っている。
 昴は目を細めながら、今までリリーの前で抜くことは無かった腰の刀を、静かに抜き去った。
 美しい直刃が、姿を現わす。
 刀は一見、どこにでもある太刀であった。ただ違うのは、何かが「その中」に息づいているように、小さく脈打つ音が聞こえているのだ。
 昴は刀を構え、切っ先を悪魔に向けた。その姿はリリーのそれとは違う。凛として、無駄が無く、隙がない。
 リリーは、ただ茫然とその大きな背中を見ていた。

「百鬼夜光……今一度使わせてもらう」

 刀が不気味に光を放ちはじめた。
 その瞬間、昴が大地を蹴る。一足飛びに悪魔との間合いを詰め、横一文字にその身を切り裂いた。
 昴に斬られた悪魔は声もなく二つに別れ転がった。その斬り口から血が流れ出ることはなく、分かたれた二つの体は黒い炎によって灰塵と化した。

「すごい……!」

 昴の刀は血によって汚れた様子は無く、また腰の鞘に納められた。
 昴は振り返り、自分に羨望のまなざしを向けるリリーと目が合うと、こう言った。

「これを良きものとして見るなリリー」

「え?」

 リリーは首を傾げた。先程、悪魔を斬り喜びを感じていた自覚は無かったのだろう。
 意味が分からないと顔をしかめ、昴の肩ごしに見える悪魔の残骸を見る。

「あれは悪魔でしょ……? 昴は良い事をしたんじゃないの?」

 リリーの中に植え付けられている、『悪魔は滅するべき存在』という考え。
 昴は彼女の将来を憂い、再び口を開いた。

「リリー、俺のこの剣……刀は百鬼夜光と言ってな。普通のとは違い斬ったものを食らう」

「食べるの?」

 リリーの目の前に百鬼夜光が差し出された。鞘に納められているとはいえ、それを手に取るのは何故か抵抗があった。

「……手に取るのが恐いか?」

 リリーは息を飲み、恐る恐るそれに少し触れてみた。
 触れた瞬間、とてつもない『闇』がリリーの心に広がった。憎しみ、怒り、悲しみ、負の感情が全身を駆け巡る。
 怯えるように、リリーは後ろにさがった。

「感じたかリリー。今のは俺が今までその命を奪ってきた者たちの無念の叫び声。俺はもうずっと、こうして罪を背負って生きている」

「昴は悪い人なの?」

 リリーは百鬼夜光を触った手をさすりながら、純粋に問いかけた。

「……俺は自分の目的の為に、罪なき者を手に掛けたこともある。真に、自分の為だけな身勝手な理由だ」

「そんな……」

「だが、リリー。罪無き者であろうとなかろうと、他者の命を奪うということは、その者の未来の可能性を奪うということ」

 昴は百鬼夜光を腰に差すと、リリーに背を向けた。

「この先、聖騎士であるかぎりお前は幾度と無く剣を振るうだろう。肉を切り、骨を断ち、そうなった時に先程のような喜びを感じているようでは───」

 昴は、そこで言葉を止めた。
 そして、そのまま歩きだすと周りで傍観していた街の人々は、彼に恐れをなし自然と道を空ける。

「昴!!」

 名を呼ぶ声に振り返ることもなく、昴は雑踏の中に消えていった。
 リリーは自身の汚れた両手を見つめながら、低い声で呟いた。

「私の手…………汚い」

   *   *   *

 街の片づけが終わり、遺体を弔った後、リリーはは急いで昴の後を追った。
 だけど、いくら探しても彼らの姿は無かった。
 宿屋もとっくに出発しており、旅人であろう彼の行方を知るものはいない。

 ああ、私は見切られたんだ。
 彼の信念は、私の理解の遠く及ばない高みにあって。
 それにそぐわない私は…………。

 ――また、一人になったんだ。

「お嬢ちゃん」

 宿屋の中庭で座り込んでいた私の側に、主人らしき男が話し掛けてきた。手にはタオルを持っている。

「拭きなよ、可愛い顔が台無しだ」

 私はそのタオルを受け取ると、もうすっかり渇いてしまった顔の返り血を擦るように拭った。

「あとね、これ。あの兄さんが……」

 主人は後ろ手に持っていた何かをいそいそと差し出した。
 それは、異国の刀と呼ばれる『剣』。鞘は黒く、柄の部分にはきっちりとした布が交差されて巻かれている。どこかで見たような気がした。

「伝言も預かっているんだ。なんてったっけな、これなら使っても大丈夫だとかなんとか」

「か、貸してください!」

 リリーは、主人から奪うように刀を取り上げると、すぐに鞘からそれを抜いた。
 美しい、直刃。リリーの手と身長に合わせたかのように、ぴったりだった。

『ねえ昴、そんな変わった剣、私も欲しい』

『……俺から一度でも一本とってから言うことだ』

『だってスバルが私の剣折っちゃったんだから練習用の刀使ってるんだよ!?』

『…………悪かったな』

 刀を握る手の上に、涙がこぼれた。
 それはもう、悲しみの涙ではなかった。
 リリーは、刀を持ったままいつまでいつまでも彼方に見つめていた。
 もういない彼に、いつか会えた時、強い自分でいられるようにと、決意した。

 陽は戻り、星も行き、少女は夢を幻と知った。

 完

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