穏やかに生きたい悪役令息なのに、過保護な義兄たちが構いすぎてくる~イヴは悪役に向いてない~

鯖猫ちかこ

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 そう伝えたおれに、アンリはやっと肩から力を抜いたように見えた。
 よく見たら顔色もよくない。昨日起きてからずっと悩んでいたのだろう。
 自分が本物なのに、まるで偽物のような、そんな不安。

 そうだ、おれも返さなきゃ。イヴにこの場所を。

 どれだけアルベールとレオンに求められても、優しい両親から離れたくなくても、眩しいものが多くあるこの世界から出たくなくても。
 おれのいる場所はここじゃない。
 帰る場所があの世界でも、そうじゃなくても。
 でもこの世界は、伊吹のものじゃなくて、イヴのものだ。

「……帰らなきゃ」
「あ、じゃあぼく、入口のところに馬車……その、待っててもらってて……一緒に」

 帰らなきゃ、の意味が違ったのだけれど、素直に受け取ったアンリについ笑ってしまった。
 またほっと安堵したように見える。
 王太子の婚約者になった平民、元婚約者のよく訪れる竜舎への度々の訪問、昨日からの怪しい態度。
 脱走までは危ぶまれてなくても、心配はされているのだろう。
 おれも母さまたちに会いたくなってしまったし、自分のところの馬車はまた夕方にと帰してしまった。
 じゃあお願い、と返すおれに、アンリは嬉しそうに頷いた。同じかおだというのに、結構表情に差が出るものなのだな、と気付く。

 お茶ひとつ出せなかった休憩室を出ると、三つ子がすぐそこで跳ねていた。
 危ないな、扉が当たってしまうところだった、と言うおれに、マリアが帰ってきた、と騒いで。

「マリア?どこに」
『あっち~』
『ねね、なんでこっちにこないの~』
『あっちいったね~』

 三つ子が指すのは演習場とは別の場所だ。
 遠征が終わって戻ってくるのなら、演習場か竜舎か、若しくは城の近くの広場か。
 本当にマリアか、他の竜ではないかと訊くと、あれはマリアだと譲らない。
 飛べるような大型の竜は皆遠征に行っているし、この辺で竜騎士に属さない野良もマリアと間違えるような竜はいないと思う。
 ……本当にマリアだというのなら、他の竜たちも一緒にいないとなると、嫌な予感しかしない。

「……イヴさまの御屋敷の方では?」

 そうアンリが漏らした言葉に背中がひやりとした。
 そうだ、方角的には、屋敷のあるところ。
 そこにマリアが、マリアだけが戻る意味は?
 別にそこにはあるのはイヴの屋敷だけではない、でもマリアが行くのだとしたら、そこしか……

「帰りましょう、急いで」

 アンリがおれの手を引く。
 動かない、と思った足は、アンリに引かれることでやっと進めた。
 騒ぐ三つ子にごめんねとだけ声を掛けて、急いで馬車に乗り込んだ。
 指先が冷えて震える。その手をまたアンリの細い指がぎゅうと握り締める。
 アルベールは何も言わなかった。何も。
 笑って出て行った。
 無事で帰って来てねって、勿論って、約束した。
 マリアたちへのご褒美も準備した。
 ……長くなっても十日って言った。今日が十日目。だからそろそろ帰ってくるかなと思ってた。
 何かがあって伸びたって、明日や明後日には無事で帰ってくるだろうって。
 無事に帰ってくる予定だった。だってアルベールには予知があるから。

 嫌なことばかり考える。
 怪我をしてたら。病気になってしまってたら。
 皆、死んでしまってたら。

 おれにもやり直しは出来る?おれが死んだら、また……アンリのように学園入学の時や、おれが来た時のように卒業間近のあのパーティーに戻れる?
 アルベールが死んでしまったらイヴはしあわせになれない。
 だから、だからきっとやり直しは出来る、でももうアンリはいなくて、アンリがやり直しをさせてた訳ではなくて、じゃあ誰が?おれにはやり直しなんて、ないのかな、そしたらアルベールは、皆はどうなるのだろう。どうしたら、皆のことを、アンリは、どうやって……

「イヴさま!」
「……ッい、」

 おれの手を掴むアンリの力が強くなる。華奢な割に強い力は前のアンリと変わらない。
 覗き込んだ大きな瞳が、まだ早いです、とゆらゆらした。

「考えるのは、お話聞いてからにしましょう、ね、」
「うん……」

 そう頷くけど、ずっと頭の中はぐるぐるしている。混乱している。
 やり直したい、やり直したい、行かないでって言えばよかった。痛い思いだってしてほしくなかった。
 いや、何があったのか聞かなきゃ。それからその通りにしないようにアルベールにも伝えて、それから、それから。

 相変わらず、全部自分のことだった。
 自分が不幸になりたくない。さみしくなりたくない。誰かに傍にいてほしい。
 イヴの為でもない。
 アンリのように、誰かの為には動けない。

 屋敷の前に馬車が止まって、アンリの手を握り締めたまま飛び出した。
 庭はとても騒がしくて、探そうとしなくてもその主は目立つ場所にいる。大きな体躯は隠すことは出来ない。
 近くで大型の竜を見たことのないだろうアンリは流石にぴたりと足を止めてしまった。
 大丈夫、マリアは全然こわくないよ、なんて教えてあげる暇もない。ここにいます、というアンリを残して、マリアの元へと走った。
 血の匂いがする。その血は誰のものかなんて……そんなの、誰のものだって、いやだ。
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