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ナスタチアム侯爵邸 1

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フィオナがナスタチアム侯爵邸に着くと、侯爵夫妻をはじめとした家人が総出でずらりと並んで出迎えた。
フィオナは一瞬息を呑んだが、すぐに能面のような表情に戻ると、
「お世話になります、ナスタチアム侯爵並びに夫人。フィオナと申します。大層なお迎えをありがとうございます。またナスタチアム侯爵家の皆様におかれては私のような三番手の側女の世話を押しつけられてさぞご迷惑かと存じます。出来るだけ皆様のお手を煩わせないよう努めますのでまでお邸の片隅に住まわせていただくことをお許しください」
と深々と頭を下げた。

出迎えた執事はじめ使用人たちは呆然とし、侯爵は戦慄した。
(なん、てことだ__!)
フェアルドから聞いてはいたが、聞くのとじかに目にするのとは全く違う衝撃だった。
フィオナが戻って来るならとなんとか起き上がってきた夫人は今にも倒れそうだ。
皆が絶句する中、
「お、お嬢様……」
声をあげたのはメイド頭だ。
フィオナが生まれる前から侯爵家に仕え、文字通り娘のようにフィオナの成長を見守って来た一人だ。
「フィオナお嬢様……」
涙ぐみながら歩みよろうとするメイド頭に、
「ここのメイドを取り仕切っている方かしら?私が使わせていただく部屋はどこか案内していただける?」
まるで初めて会った人間に対するそれに執事もごくりと唾を呑み込んだが、「こちらです。ご案内致します。ハンナ、お前も来なさい」と固まっているメイド頭を軽く小突くようにして促した。
「妃殿下は私とハンナが案内する。皆は仕事に戻るように」
と指示して歩き出した。
フィオナ付きとして後宮にあがっていた者達も粛々と後に続いた。
「あぁっ……!」
残された侯爵夫人をはじめとして多くの泣き声がその場に響いた。



「こ、こちらでございます……」
震える手と声でハンナが案内したのはフィオナの部屋だった。
ほんの数ヶ月前まで、フィオナが育った部屋。
その部屋を一瞥したフィオナは、
「立派なお部屋ね。ここを私なんかが使って良いのかしら?私など日の当たらない倉庫に夜具を置いただけの部屋にでも放り込んで下さってよかったのに」
「……ここはお嬢様のお部屋です」
「それを私などに使わせて良いの?」
「__ここはお嬢様のお部屋です!」
つまり貴女の部屋ですと叫びたいのを堪えるハンナはそれ以外の言葉が出てこなかった。

部屋の中は完璧に整えられ、フィオナが出て行く前と同じ状態を保っていた。
「お嬢様の部屋ですから、フィオナ妃殿下以外の方が使うことはありません。どうぞお寛ぎください」
ハンナに代わりそう言った執事がハンナを促して退室すると、フィオナは軽く息を吐いてソファに腰掛けた。

一方、玄関ホールでは「申し訳ありません、旦那様、奥様。お嬢様のことを託されておきながらこのような__」マイアはじめ後宮に付き添った側付きたちが揃って頭を下げていた。
「いや、陛下より全て聞いている。お前たちのせいではない。私も陛下に従うのではなく、お諌めするべきだったのだ。何を置いても反対してあの子を行かせるべきではなかった、せめて先に話すべきだった……お前たちもそう言ってくれていたのにな。私が陛下に賛同したせいであの子に責められたのだろう、済まなかった」
「旦那様……」
だが、涙ぐむマイア達の目の前ではらはらと止まらぬ涙を流す夫人は「一体何があったの?どうしてフィオナは私達に初めて会った他人のように振る舞うの?」
「エリス……!報告書は一緒に目を通していただろう、あの子は陛下同様、私たちのことも許していないのだ!」
「読みましたとも!あの子が後宮に着いてすぐ心を閉ざしてしまったことも、誰とも話さない人形のようになってしまったことも、陛下を拒否していたにも関わらず懐妊したことも!」
ぐ、とマティアスは言葉に詰まり、皇城でのフェアルドとのやり取りを思い出していた。





「すまない侯爵!済まない!」
まるで地に頭を擦り付けるような勢いで謝るフェアルドに言われたのは、このままフィオナを後宮に置いてはいけない、壊れてしまうだろうということと、フィオナの心身の成長を待たずに手を出してしまったこと。
懐妊したら里帰り出産を認めるのでナスタチアム侯爵邸で療養出産をさせて欲しいという事__マティアスは言われた時絶句した。

何故、まだ幼さの残る娘に手を出したのか?
心身ともに受け入れるまで待つと言っていたではなかったか?
しかも直ぐ懐妊ということは、手を出したのが一度や二度ではなかったということだ。
「何故、とお聞きしても?」
「私が、弱いせいだ。フィオナを失ったら生きていけない。触れずにはいられなかった。だが、このまま後宮ここにいても弱っていくばかりだろう。生まれ育った邸ならば、或いは」
「娘は今私達からの手紙すら拒否しているのですぞ?側付きの我が家から付いて行った者たちも」
「わかっている。それも私が悪い、何もかも私のせいだ」
そう言うフェアルドの瞳の奥に宿ったほの昏い光に、侯爵は寒気を覚えた。

長い付き合いではあるが、フェアルドはとにかく“陽の気“を備えた青年だった。
容姿が太陽神のようなのはもちろん、纏う雰囲気も華やかで陰りがない。
それは本人が持つ天性のものだ。
有能であるだけでなく柔軟性があり、誠実でありながら政治において清濁合わせ呑むことをよく知っていた。
切り捨てるべきところは切り、取るべきものを間違えない。
それでいて娘に対してはどこまでも真っ直ぐだった__はずだった。

その彼が、それがここまで追い詰められるとは。
皇帝という重責は、どれほど重いのか。
「……良ければ、気が済むまで殴ってくれ。それで気が晴れるとも思えないが」
「ええ。失礼ながら私の手が痛むだけかと」
「ならば剣で、と言いたいところだが。それはもう少し待ってくれ」
そう言って昏い瞳を瞬かせる皇帝に、ナスタチアム侯爵は何も言えなかった。

















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