4 / 90
一章 エリシェヴァ編
第2話 奇病の異変
しおりを挟む
明くる日、聖レクス市の空は朝から重い雲に覆われていた。
診療所の窓から見える大通りは、かつての賑わいを失い、果物の露店は閑散とし、パン屋の前には子どもたちの笑顔がない。代わりに、不安のざわめきが石畳を這っていた。
エリシェヴァは机の上で薬草を刻むが、手は機械的に動くだけ。いつもと変わらない薬草の匂いが漂うが、胸の重さは消えなかった。
数年前、故郷の村で交わした契約が脳裏をよぎる。青年の深緑の瞳、蛾や蜂のように歪んだ翼。
「君は優しい。だから、傷つくだろう。」
癒しの力は、彼女を魔女にした。
この街では、魔女は火刑台に送られる。広場の教皇アダムスの石像が、まるで彼女を見張るようにそびえ立つ。
診療所は、熱気と苦しみの息遣いで満ちていた。
最初に運び込まれたのは、近所の露店で果物を売っていた少年だった。日に焼けた頬は異様に赤く、目は落ちくぼみ、荒い息が木の床に響く。
エリシェヴァは慌てて椅子に座らせ、額に手を当てた。
「どうしたの?」
声は穏やかだが、心臓が締め付けられる。
「朝から、ずっと……寒いんだ……」
少年の細い肩が震え、唇は青白く乾いている。脈を取ると、速すぎる鼓動が指先を打った。
「ただの風邪じゃない……」
呟きが漏れ、エリシェヴァの背に冷や汗が伝う。
彼女は棚から蜂蜜湯と薬草の包みを取り出し、少年に与える。琥珀色の液体が瓶の中で揺れ、薬草の匂いが漂った。
だが翌日、少年はさらに衰弱して戻ってきた。
唇は紫色に変わり、目は虚ろに彷徨っている。
「……水が……苦い……誰かが……呼んでる……」
母親の腕の中で繰り返される言葉。エリシェヴァの胸に恐怖が広がる。
(この病……自然じゃない。)
少年の目は、まるで何かに取り憑かれたように揺れ、母親のすすり泣きが部屋を満たす。
エリシェヴァは薬瓶を握り、ガラスの冷たさに震えた。
やがて、診療所の前には人が列をなすようになった。老人、若い母親、子どもたち──皆、同じ症状を訴える。
高熱、衰弱、幻聴。
「水が苦い……」
「誰かが呼んでる……」
その言葉が、診療所に重い空気を広げた。
こんな病、聞いたことがない。エリシェヴァの声は震え、額に汗が滲む。
薬棚は空になり、煎じ薬も乾いた薬草も尽きた。彼女は布を湿らせ、子どもの額に乗せ、水を飲ませる。だが、熱は下がらず、荒い呼吸が続いた。
(どうしよう…。水がもう無くなってしまったわ汲みに行かないと…。)
群衆のざわめきが窓の外から響き、浄化官の白いマントがちらつく。
(この病……教皇アダムスの目が届く前に、抑えなければ……)
「はい! これでいい?」
明るい声が、診療所の重苦しさを切り裂く。
振り返ると、先日診療所を訪れた黒髪の少女が立っていた。両手で抱えた水桶がずぶ濡れで、服の裾から水滴が落ちる。紅いツバキの髪飾りが、曇天の光に映えていた。
「お、お水! 重かったでしょうに。」
エリシェヴァの声に驚きが混じる。
「まあ、ちょっと腕がプルプルしてますけど、筋トレと思えば平気です!」
少女は肩で息をしながら笑う。
その笑顔は無邪気だが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。エリシェヴァは一瞬、肩の力を抜く。
「どうして、こんなことまでしてくれるの?」
声は小さく、疑念と感謝が交錯する。
「だって……困ってる顔してましたから。」
少女は屈託なく笑う。
その笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かかった。だが、エリシェヴァの胸にざわめきが広がる。
(この子……私の秘密を見抜いてる?)
少女の瞳は、まるで彼女の心を覗くようだった。
――
その日の夕刻、最年少の患者が運び込まれた。八歳の少年。衰弱した体は母親の腕に抱かれ、唇は紫色に変色している。
「どうか、この子だけは、お願い!」
母親の叫びが診療所に響く。
エリシェヴァは奥歯を噛み、扉に鍵をかけた。外のざわめきを遮断し、灯りを一つだけ残す。
(やめなさい、エリシェヴァ。これは禁忌。見つかれば火刑台だ。)
心の中で、あの青年の声が彼女を止める。
だが、少年の荒い息と母親の涙が、彼女の心を締め付けた。
(目の前で死なせるのは、もっと嫌……)
震える指を組み、古い言葉を紡ぐ。
「お願いします……魔王様。
“豊穣”の魔王ベルゼブブ様……どうか私に力をお与えください……」
詠唱を終えると掌から淡い緑の光が溢れ、少年を包んだ。
熱が引き、荒い息が落ち着く。母親はすすり泣き、子を抱きしめる。
「生きてる……ありがとう……!」
エリシェヴァは唇を噛み、光が消えるのを待つ。
胸に残るのは安堵と罪悪感。
あの青年の声が脳裏に響く。
「君は優しい。だから、傷つくだろう。」
彼女は目を閉じ、震える手を握りしめた。
その瞬間、窓の外で人影が走り去る。怯えた目がこちらを振り返り、通りへ駆け出していった。
(見られた……!)
診療所の周囲に、ひそひそ声が広がる。
「光を見たぞ。」
「やっぱり、あの娘は……」
救いの奇跡が、“魔女の証”へと変わる瞬間だった。
エリシェヴァの心臓が跳ね、薬瓶が机に当たってカタンと鳴る。
(この街は、私を許さない……)
だが、あの少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「困ってる顔してましたから。」
その言葉が、なぜか希望のように胸に残った。
――――
──数年前。
エリシェヴァの故郷の村は、酷く荒廃していた。
畑は干上がり、ひび割れた土は赤茶けた傷口のようだった。井戸は涸れ、底に残る泥が腐臭を放つ。村人たちは痩せ細り、頬はこけ、目は希望を失っていた。
朝になると誰かが倒れ、そのまま動かなくなる。夜には常にすすり泣きが響いた。
幼いエリシェヴァは手に握ったパンの欠片を母に差し出すが、母は病に伏し、熱で赤らんだ顔で弱々しく微笑むだけだった。
父の瞳は、かつての温もりを失い、ただ空虚に遠くを見つめている。
エリシェヴァの胸を満たすのは、恐怖と絶望だけだった。
村の祭壇に集まり、村人たちは神に祈った。粗末な木の台に供物を置き、声を合わせて唱える。
「神よ、恵みを……」
だが、空は灰色に閉ざされ、風は冷たく吹き抜けるばかり。神は答えなかった。
――エリシェヴァは、両親の墓前で膝を抱え、震える唇で祈りを繰り返す。
だが、母の荒い息、父の空虚な目が思い出され、涙が止まらなかった。
(神はいない……この村は、死ぬだけ……)
村人たちは次々に倒れ、彼女も飢えに体が弱っていく。
ある日、村の外れで老人が焚き火の前で語った。
声は枯れていたが、どこか懐かしさに満ちていた。
「むかしむかし、この地には“豊穣の神”がいたという。田畑を潤し、病を癒し、大地に恵みをもたらした。だが、いつしか忘れられてしまったのだ。」
老人の目は遠くを見、炎の揺らめきに映る。
「その神は、森の奥の祠に眠ると言う。だが、近づく者は呪われるとも……」
村人たちは顔を見合わせ、恐怖に身をすくめた。
だが、エリシェヴァの胸に、かすかな希望が灯った。
(神が応えないなら……その“忘れられた神”に縋るしかない。両親の分まで、生きてみせる。)
その夜、彼女は両親の墓前に花を供え、村の外へ走った。
森は暗く、木々の間を冷たい風がうなる。足元の小石が素足を刺し、棘がスカートを裂いた。
だが、エリシェヴァは止まらなかった。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かした。
やがて森の奥、苔むした祠が現れる。
古びた石には誰も読めない文字が刻まれ、湿った空気に草の匂いが混じる。
祠の前で、彼女はなんとか掻き集めた少量の葡萄酒とパンを供え、膝を折り、両手を組んだ。
「どうか……この村を救ってください……! 私をどうなさってもかまいません。だから、お願い……!」
涙が頬を伝い、雫が地を濡らす。
その瞬間、祠から淡い緑の光が零れ、視界が歪んだ。
エリシェヴァの体が浮き上がり、まるで何かに引き込まれるように闇に溶ける。
森の木々が遠ざかり、彼女は目を閉じる。
次の瞬間、足元に固い石の感触が戻った。
開いた目に広がったのは、古びた神殿のような空間だった。
柱は苔むした石ででき、壁には古い文字が刻まれている。天井は高く暗く、淡い緑の光が全体を照らしていた。空気は湿り気を帯び、草の香りが濃く漂う。
(ここは……どこ?)
「その願い、確かに聞いたよ。」
背後からの声に振り返ったエリシェヴァは、息を呑んだ。
月明かりのような淡い光に照らされ、そこに立っていたのは青年の姿をした存在だった。
淡い茶髪が風に揺れ、草原を思わせる深緑の瞳が彼女を見つめる。整った顔立ちは穏やかで、微笑みは人間以上に優しい。
だが、その背に広がる羽が、彼の正体を物語っていた。
頭には二本の羊のような大きな角。片翼は蛾の翅のように透け、粉を散らすほど脆い。もう一方は先が蜂の羽のようにねじれた異形。
かつて白く美しく輝いていたはずの神の翼は、天の神々の呪いによって歪められていた。
「あなたは……」
エリシェヴァの声は震えた。恐怖と希望が交錯し、足が動かない。
「かつては“豊穣の神”と呼ばれた者。今は──ベルゼブブと呼ばれている。」
その名は、村人たちが恐れ忌む“魔王”の名だった。
だが、目の前の存在は恐怖を煽るどころか、膝を折り、幼い彼女と目線を合わせた。
「怖がらなくていい。君の祈りが、あまりに必死で、応えたくなっただけだ。」
声は柔らかく、まるで風に揺れる草のようだった。
「村を……救ってくださるんですか?」
エリシェヴァの声は涙で掠れる。
ベルゼブブは頷き、静かに言った。
「そのために来た。だが、力を渡すには契約が要る。君の命の一部を私に預ける代わりに、“癒し”の力を授けよう。」
彼の深い緑の瞳は、悲しみと優しさに満ちていた。
エリシェヴァは震える手でスカートを握り、両親の顔を思い出す。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かす。
「……はい。」
ベルゼブブは微笑み、彼女の小さな手を取った。
瞬間、緑の光が二人を包み、熱と温もりが体を駆け抜ける。心臓が脈打ち、命そのものが流れ込むようだった。
光が収まると、エリシェヴァの手にはかすかな緑の輝きが残っていた。
村に戻ると、奇跡が起こっていた。
衰弱していた村人たちが呼吸を取り戻し、頬に血の色が差す。畑に緑が芽吹き、井戸に水が湧く。村人たちは地に伏して涙を流した。
「神の恵みだ!」
彼らは叫んだ。
だが、エリシェヴァは知っていた。
救ったのは“神”ではなく、忘れられた“豊穣の魔王”であることを──。
診療所の窓から見える大通りは、かつての賑わいを失い、果物の露店は閑散とし、パン屋の前には子どもたちの笑顔がない。代わりに、不安のざわめきが石畳を這っていた。
エリシェヴァは机の上で薬草を刻むが、手は機械的に動くだけ。いつもと変わらない薬草の匂いが漂うが、胸の重さは消えなかった。
数年前、故郷の村で交わした契約が脳裏をよぎる。青年の深緑の瞳、蛾や蜂のように歪んだ翼。
「君は優しい。だから、傷つくだろう。」
癒しの力は、彼女を魔女にした。
この街では、魔女は火刑台に送られる。広場の教皇アダムスの石像が、まるで彼女を見張るようにそびえ立つ。
診療所は、熱気と苦しみの息遣いで満ちていた。
最初に運び込まれたのは、近所の露店で果物を売っていた少年だった。日に焼けた頬は異様に赤く、目は落ちくぼみ、荒い息が木の床に響く。
エリシェヴァは慌てて椅子に座らせ、額に手を当てた。
「どうしたの?」
声は穏やかだが、心臓が締め付けられる。
「朝から、ずっと……寒いんだ……」
少年の細い肩が震え、唇は青白く乾いている。脈を取ると、速すぎる鼓動が指先を打った。
「ただの風邪じゃない……」
呟きが漏れ、エリシェヴァの背に冷や汗が伝う。
彼女は棚から蜂蜜湯と薬草の包みを取り出し、少年に与える。琥珀色の液体が瓶の中で揺れ、薬草の匂いが漂った。
だが翌日、少年はさらに衰弱して戻ってきた。
唇は紫色に変わり、目は虚ろに彷徨っている。
「……水が……苦い……誰かが……呼んでる……」
母親の腕の中で繰り返される言葉。エリシェヴァの胸に恐怖が広がる。
(この病……自然じゃない。)
少年の目は、まるで何かに取り憑かれたように揺れ、母親のすすり泣きが部屋を満たす。
エリシェヴァは薬瓶を握り、ガラスの冷たさに震えた。
やがて、診療所の前には人が列をなすようになった。老人、若い母親、子どもたち──皆、同じ症状を訴える。
高熱、衰弱、幻聴。
「水が苦い……」
「誰かが呼んでる……」
その言葉が、診療所に重い空気を広げた。
こんな病、聞いたことがない。エリシェヴァの声は震え、額に汗が滲む。
薬棚は空になり、煎じ薬も乾いた薬草も尽きた。彼女は布を湿らせ、子どもの額に乗せ、水を飲ませる。だが、熱は下がらず、荒い呼吸が続いた。
(どうしよう…。水がもう無くなってしまったわ汲みに行かないと…。)
群衆のざわめきが窓の外から響き、浄化官の白いマントがちらつく。
(この病……教皇アダムスの目が届く前に、抑えなければ……)
「はい! これでいい?」
明るい声が、診療所の重苦しさを切り裂く。
振り返ると、先日診療所を訪れた黒髪の少女が立っていた。両手で抱えた水桶がずぶ濡れで、服の裾から水滴が落ちる。紅いツバキの髪飾りが、曇天の光に映えていた。
「お、お水! 重かったでしょうに。」
エリシェヴァの声に驚きが混じる。
「まあ、ちょっと腕がプルプルしてますけど、筋トレと思えば平気です!」
少女は肩で息をしながら笑う。
その笑顔は無邪気だが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。エリシェヴァは一瞬、肩の力を抜く。
「どうして、こんなことまでしてくれるの?」
声は小さく、疑念と感謝が交錯する。
「だって……困ってる顔してましたから。」
少女は屈託なく笑う。
その笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かかった。だが、エリシェヴァの胸にざわめきが広がる。
(この子……私の秘密を見抜いてる?)
少女の瞳は、まるで彼女の心を覗くようだった。
――
その日の夕刻、最年少の患者が運び込まれた。八歳の少年。衰弱した体は母親の腕に抱かれ、唇は紫色に変色している。
「どうか、この子だけは、お願い!」
母親の叫びが診療所に響く。
エリシェヴァは奥歯を噛み、扉に鍵をかけた。外のざわめきを遮断し、灯りを一つだけ残す。
(やめなさい、エリシェヴァ。これは禁忌。見つかれば火刑台だ。)
心の中で、あの青年の声が彼女を止める。
だが、少年の荒い息と母親の涙が、彼女の心を締め付けた。
(目の前で死なせるのは、もっと嫌……)
震える指を組み、古い言葉を紡ぐ。
「お願いします……魔王様。
“豊穣”の魔王ベルゼブブ様……どうか私に力をお与えください……」
詠唱を終えると掌から淡い緑の光が溢れ、少年を包んだ。
熱が引き、荒い息が落ち着く。母親はすすり泣き、子を抱きしめる。
「生きてる……ありがとう……!」
エリシェヴァは唇を噛み、光が消えるのを待つ。
胸に残るのは安堵と罪悪感。
あの青年の声が脳裏に響く。
「君は優しい。だから、傷つくだろう。」
彼女は目を閉じ、震える手を握りしめた。
その瞬間、窓の外で人影が走り去る。怯えた目がこちらを振り返り、通りへ駆け出していった。
(見られた……!)
診療所の周囲に、ひそひそ声が広がる。
「光を見たぞ。」
「やっぱり、あの娘は……」
救いの奇跡が、“魔女の証”へと変わる瞬間だった。
エリシェヴァの心臓が跳ね、薬瓶が机に当たってカタンと鳴る。
(この街は、私を許さない……)
だが、あの少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「困ってる顔してましたから。」
その言葉が、なぜか希望のように胸に残った。
――――
──数年前。
エリシェヴァの故郷の村は、酷く荒廃していた。
畑は干上がり、ひび割れた土は赤茶けた傷口のようだった。井戸は涸れ、底に残る泥が腐臭を放つ。村人たちは痩せ細り、頬はこけ、目は希望を失っていた。
朝になると誰かが倒れ、そのまま動かなくなる。夜には常にすすり泣きが響いた。
幼いエリシェヴァは手に握ったパンの欠片を母に差し出すが、母は病に伏し、熱で赤らんだ顔で弱々しく微笑むだけだった。
父の瞳は、かつての温もりを失い、ただ空虚に遠くを見つめている。
エリシェヴァの胸を満たすのは、恐怖と絶望だけだった。
村の祭壇に集まり、村人たちは神に祈った。粗末な木の台に供物を置き、声を合わせて唱える。
「神よ、恵みを……」
だが、空は灰色に閉ざされ、風は冷たく吹き抜けるばかり。神は答えなかった。
――エリシェヴァは、両親の墓前で膝を抱え、震える唇で祈りを繰り返す。
だが、母の荒い息、父の空虚な目が思い出され、涙が止まらなかった。
(神はいない……この村は、死ぬだけ……)
村人たちは次々に倒れ、彼女も飢えに体が弱っていく。
ある日、村の外れで老人が焚き火の前で語った。
声は枯れていたが、どこか懐かしさに満ちていた。
「むかしむかし、この地には“豊穣の神”がいたという。田畑を潤し、病を癒し、大地に恵みをもたらした。だが、いつしか忘れられてしまったのだ。」
老人の目は遠くを見、炎の揺らめきに映る。
「その神は、森の奥の祠に眠ると言う。だが、近づく者は呪われるとも……」
村人たちは顔を見合わせ、恐怖に身をすくめた。
だが、エリシェヴァの胸に、かすかな希望が灯った。
(神が応えないなら……その“忘れられた神”に縋るしかない。両親の分まで、生きてみせる。)
その夜、彼女は両親の墓前に花を供え、村の外へ走った。
森は暗く、木々の間を冷たい風がうなる。足元の小石が素足を刺し、棘がスカートを裂いた。
だが、エリシェヴァは止まらなかった。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かした。
やがて森の奥、苔むした祠が現れる。
古びた石には誰も読めない文字が刻まれ、湿った空気に草の匂いが混じる。
祠の前で、彼女はなんとか掻き集めた少量の葡萄酒とパンを供え、膝を折り、両手を組んだ。
「どうか……この村を救ってください……! 私をどうなさってもかまいません。だから、お願い……!」
涙が頬を伝い、雫が地を濡らす。
その瞬間、祠から淡い緑の光が零れ、視界が歪んだ。
エリシェヴァの体が浮き上がり、まるで何かに引き込まれるように闇に溶ける。
森の木々が遠ざかり、彼女は目を閉じる。
次の瞬間、足元に固い石の感触が戻った。
開いた目に広がったのは、古びた神殿のような空間だった。
柱は苔むした石ででき、壁には古い文字が刻まれている。天井は高く暗く、淡い緑の光が全体を照らしていた。空気は湿り気を帯び、草の香りが濃く漂う。
(ここは……どこ?)
「その願い、確かに聞いたよ。」
背後からの声に振り返ったエリシェヴァは、息を呑んだ。
月明かりのような淡い光に照らされ、そこに立っていたのは青年の姿をした存在だった。
淡い茶髪が風に揺れ、草原を思わせる深緑の瞳が彼女を見つめる。整った顔立ちは穏やかで、微笑みは人間以上に優しい。
だが、その背に広がる羽が、彼の正体を物語っていた。
頭には二本の羊のような大きな角。片翼は蛾の翅のように透け、粉を散らすほど脆い。もう一方は先が蜂の羽のようにねじれた異形。
かつて白く美しく輝いていたはずの神の翼は、天の神々の呪いによって歪められていた。
「あなたは……」
エリシェヴァの声は震えた。恐怖と希望が交錯し、足が動かない。
「かつては“豊穣の神”と呼ばれた者。今は──ベルゼブブと呼ばれている。」
その名は、村人たちが恐れ忌む“魔王”の名だった。
だが、目の前の存在は恐怖を煽るどころか、膝を折り、幼い彼女と目線を合わせた。
「怖がらなくていい。君の祈りが、あまりに必死で、応えたくなっただけだ。」
声は柔らかく、まるで風に揺れる草のようだった。
「村を……救ってくださるんですか?」
エリシェヴァの声は涙で掠れる。
ベルゼブブは頷き、静かに言った。
「そのために来た。だが、力を渡すには契約が要る。君の命の一部を私に預ける代わりに、“癒し”の力を授けよう。」
彼の深い緑の瞳は、悲しみと優しさに満ちていた。
エリシェヴァは震える手でスカートを握り、両親の顔を思い出す。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かす。
「……はい。」
ベルゼブブは微笑み、彼女の小さな手を取った。
瞬間、緑の光が二人を包み、熱と温もりが体を駆け抜ける。心臓が脈打ち、命そのものが流れ込むようだった。
光が収まると、エリシェヴァの手にはかすかな緑の輝きが残っていた。
村に戻ると、奇跡が起こっていた。
衰弱していた村人たちが呼吸を取り戻し、頬に血の色が差す。畑に緑が芽吹き、井戸に水が湧く。村人たちは地に伏して涙を流した。
「神の恵みだ!」
彼らは叫んだ。
だが、エリシェヴァは知っていた。
救ったのは“神”ではなく、忘れられた“豊穣の魔王”であることを──。
0
あなたにおすすめの小説
無能勇者の黙示録~勝手に召喚されて勝手に追放されたので勝手に旅に出ます~
枯井戸
ファンタジー
力も強くない、足も速くない、魔法も使えないし、頭も大してよくない、どこにでもいるちょっとオタク趣味の主人公・東雲真緒が白雉国に勇者として転生する。
同期の勇者はそれぞれ力が強かったり、魔法が使えたり、回復ができたりと各々の才能を開花させ頭角を現していくのだが、真緒に与えられた才能は異世界転生モノでよく見る〝ステータスオープン〟のみだった。
仲間には使えないと蔑まれ、ギルドには落第勇者の烙印を押され、現地人には殺害されかけ、挙句の果てに大事な人を亡くし、見ず知らずの土地の最底辺で生きていくことになった真緒だったが、彼女はまだ〝ステータスオープン〟の可能性に気づいていないだけだった。
─────────────
※投稿時間は多少前後しますが毎日投稿は続けていくつもりです。
※タイトルは予告なしにガラリと変わる場合があるのでご了承ください。
※表紙は現在の主人公のイメージ図です。もしまた別の国へ行く場合、彼女の装いも変化するかもしれません。
転生してチートを手に入れました!!生まれた時から精霊王に囲まれてます…やだ
如月花恋
ファンタジー
…目の前がめっちゃ明るくなったと思ったら今度は…真っ白?
「え~…大丈夫?」
…大丈夫じゃないです
というかあなた誰?
「神。ごめんね~?合コンしてたら死んじゃってた~」
…合…コン
私の死因…神様の合コン…
…かない
「てことで…好きな所に転生していいよ!!」
好きな所…転生
じゃ異世界で
「異世界ってそんな子供みたいな…」
子供だし
小2
「まっいっか。分かった。知り合いのところ送るね」
よろです
魔法使えるところがいいな
「更に注文!?」
…神様のせいで死んだのに…
「あぁ!!分かりました!!」
やたね
「君…結構策士だな」
そう?
作戦とかは楽しいけど…
「う~ん…だったらあそこでも大丈夫かな。ちょうど人が足りないって言ってたし」
…あそこ?
「…うん。君ならやれるよ。頑張って」
…んな他人事みたいな…
「あ。爵位は結構高めだからね」
しゃくい…?
「じゃ!!」
え?
ちょ…しゃくいの説明ぃぃぃぃ!!
この度異世界に転生して貴族に生まれ変わりました
okiraku
ファンタジー
地球世界の日本の一般国民の息子に生まれた藤堂晴馬は、生まれつきのエスパーで透視能力者だった。彼は親から独立してアパートを借りて住みながら某有名国立大学にかよっていた。4年生の時、酔っ払いの無免許運転の車にはねられこの世を去り、異世界アールディアのバリアス王国貴族の子として転生した。幸せで平和な人生を今世で歩むかに見えたが、国内は王族派と貴族派、中立派に分かれそれに国王が王位継承者を定めぬまま重い病に倒れ王子たちによる王位継承争いが起こり国内は不安定な状態となった。そのため貴族間で領地争いが起こり転生した晴馬の家もまきこまれ領地を失うこととなるが、もともと転生者である晴馬は逞しく生き家族を支えて生き抜くのであった。
ハイエルフの幼女に転生しました。
レイ♪♪
ファンタジー
ネグレクトで、死んでしまったレイカは
神様に転生させてもらって新しい世界で
たくさんの人や植物や精霊や獣に愛されていく
死んで、ハイエルフに転生した幼女の話し。
ゆっくり書いて行きます。
感想も待っています。
はげみになります。
【第2章完結】最強な精霊王に転生しました。のんびりライフを送りたかったのに、問題にばかり巻き込まれるのはなんで?
山咲莉亜
ファンタジー
ある日、高校二年生だった桜井渚は魔法を扱うことができ、世界最強とされる精霊王に転生した。家族で海に遊びに行ったが遊んでいる最中に溺れた幼い弟を助け、代わりに自分が死んでしまったのだ。
だけど正直、俺は精霊王の立場に興味はない。精霊らしく、のんびり気楽に生きてみせるよ。
趣味の寝ることと読書だけをしてマイペースに生きるつもりだったナギサだが、優しく仲間思いな性格が災いして次々とトラブルに巻き込まれていく。果たしてナギサはそれらを乗り越えていくことができるのか。そして彼の行動原理とは……?
ロマンス、コメディ、シリアス───これは物語が進むにつれて露わになるナギサの闇やトラブルを共に乗り越えていく仲間達の物語。
※HOT男性ランキング最高6位でした。ありがとうございました!
※完結後、三人称一元視点に変えて全話改稿する予定です。規約を確認してから決めますが、こちらも残したいと思っています。
異世界転移したら、神の力と無敵の天使軍団を授かったんだが。
猫正宗
ファンタジー
白羽明星は気付けば異世界転移しており、背に純白の六翼を生やした熾天使となっていた。
もともと現世に未練などなかった明星は、大喜びで異世界の大空を飛び回る。
すると遥か空の彼方、誰も到達できないほどの高度に存在する、巨大な空獣に守られた天空城にたどり着く。
主人不在らしきその城に入ると頭の中にダイレクトに声が流れてきた。
――霊子力パターン、熾天使《セラフ》と認識。天界の座マスター登録します。……ああ、お帰りなさいルシフェル様。お戻りをお待ち申し上げておりました――
風景が目まぐるしく移り変わる。
天空城に封じられていた七つの天国が解放されていく。
移り変わる景色こそは、
第一天 ヴィロン。
第二天 ラキア。
第三天 シャハクィム。
第四天 ゼブル。
第五天 マオン。
第六天 マコン。
それらはかつて天界を構成していた七つの天国を再現したものだ。
気付けば明星は、玉座に座っていた。
そこは天の最高位。
第七天 アラボト。
そして玉座の前には、明星に絶対の忠誠を誓う超常なる存在《七元徳の守護天使たち》が膝をついていたのだった。
――これは異世界で神なる権能と無敵の天使軍団を手にした明星が、調子に乗ったエセ強者を相手に無双したり、のんびりスローライフを満喫したりする物語。
異世界転生~チート魔法でスローライフ
玲央
ファンタジー
【あらすじ⠀】都会で産まれ育ち、学生時代を過ごし 社会人になって早20年。
43歳になった主人公。趣味はアニメや漫画、スポーツ等 多岐に渡る。
その中でも最近嵌ってるのは「ソロキャンプ」
大型連休を利用して、
穴場スポットへやってきた!
テントを建て、BBQコンロに
テーブル等用意して……。
近くの川まで散歩しに来たら、
何やら動物か?の気配が……
木の影からこっそり覗くとそこには……
キラキラと光注ぐように発光した
「え!オオカミ!」
3メートルはありそうな巨大なオオカミが!!
急いでテントまで戻ってくると
「え!ここどこだ??」
都会の生活に疲れた主人公が、
異世界へ転生して 冒険者になって
魔物を倒したり、現代知識で商売したり…… 。
恋愛は多分ありません。
基本スローライフを目指してます(笑)
※挿絵有りますが、自作です。
無断転載はしてません。
イラストは、あくまで私のイメージです
※当初恋愛無しで進めようと書いていましたが
少し趣向を変えて、
若干ですが恋愛有りになります。
※カクヨム、なろうでも公開しています
神託が下りまして、今日から神の愛し子です! 最強チート承りました。では、我慢はいたしません!
しののめ あき
ファンタジー
旧題:最強チート承りました。では、我慢はいたしません!
神託が下りまして、今日から神の愛し子です!〜最強チート承りました!では、我慢はいたしません!〜
と、いうタイトルで12月8日にアルファポリス様より書籍発売されます!
3万字程の加筆と修正をさせて頂いております。
ぜひ、読んで頂ければ嬉しいです!
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
非常に申し訳ない…
と、言ったのは、立派な白髭の仙人みたいな人だろうか?
色々手違いがあって…
と、目を逸らしたのは、そちらのピンク色の髪の女の人だっけ?
代わりにといってはなんだけど…
と、眉を下げながら申し訳なさそうな顔をしたのは、手前の黒髪イケメン?
私の周りをぐるっと8人に囲まれて、謝罪を受けている事は分かった。
なんの謝罪だっけ?
そして、最後に言われた言葉
どうか、幸せになって(くれ)
んん?
弩級最強チート公爵令嬢が爆誕致します。
※同タイトルの掲載不可との事で、1.2.番外編をまとめる作業をします
完了後、更新開始致しますのでよろしくお願いします
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる