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五章 文明の魔王編
第6話 記憶の中の聖レクス市
しおりを挟むサントーン・カーシャヘルの無機質な「都市」が崩れ、光の奔流に飲み込まれた次の瞬間。
鼻を突く鉄錆の匂いは消え、代わりに湿った土の匂いと、濃密な緑の香りが鼻腔をくすぐった。
「……ぁ……」
エリシェヴァは、柔らかい苔の感触を指先に感じて目を開けた。
そこは、あの忌まわしい摩天楼の廃墟ではなかった。
高くそびえる木々の隙間から、柔らかな木漏れ日が降り注ぎ、周囲には見覚えのある野花が咲き乱れている。
「ここは……故郷の、森……?」
震える声で呟き、彼女はゆっくりと身体を起こした。
数年前、飢えと病で死にゆく村を救うため、たった一人で分け入った森の奥深く。
両親を亡くし、神にも見捨てられ、絶望の果てにたどり着いた――忘れられた神の祠。
目の前には、あの夜と同じ、苔むした古い石の祠が静かに佇んでいた。
「……懐かしいね。あの日も、君はそんな風に震えていた」
背後から響いた、穏やかで風に揺れる草のような声。
エリシェヴァは弾かれたように振り返った。
そこに、彼はいた。
淡い茶髪を揺らし、草原を思わせる深緑の瞳で彼女を見つめる青年。
頭上には二本の羊のような角があり、背中には蛾のように透けた翅と、蜂の羽のように歪んだ異形の翼。
かつて「豊穣の神」と呼ばれ、今は「魔王」と蔑まれる存在――ベルゼブブ。
「ベルゼブブ様……!?」
エリシェヴァは駆け寄ろうとして、ふと足を止めた。
目の前に立つ彼の姿は、どこか現実味に欠けていた。陽光を透かし、輪郭が微かに揺らめいている。
「……幻、なのですね。貴方は今、魔界へ戻っているはずだもの」
「察しがいいね。サントーン・カーシャヘルのシステムが壊れ、君たちの意識が不安定になった隙に、僕との契約が一時的に逆流したんだろう。ここは君の記憶が作り出した、僕と君の『原点』だ」
ベルゼブブの幻影は、寂しげな笑みを浮かべて祠の縁に腰掛けた。
「君は優しい。だから、傷つくだろう……。あの日、僕はそう言ったね。……どうだい、エリシェヴァ。僕の力を使い、旅をして……君の心は、まだ折れてはいないかい?」
その問いに、エリシェヴァは自身の掌を見つめた。
聖レクス市で魔女として火刑台に立たされた恐怖。カルデア・ザフラーンでアーリヤという少女を救えなかった無力感。そして今、サントーン・カーシャヘルの地獄を目の当たりにしている現状。
「……何度も、折れそうになりました。人を救いたいと願うたびに、この力が『異端』であることを思い知らされて……。ロクサーナさんのように、理想を捨ててしまえば楽になれるのかと、考えたこともあります」
彼女は一歩、幻影へと歩み寄った。
「でも、ミツキやルーク、ライラ……仲間たちがいてくれたから。ベルゼブブ様、貴方が私の力を『罪ではない』と言ってくれたから、私はまだ、ここに立っていられます」
エリシェヴァの瞳に、静かな、けれど強い光が宿る。
「たとえこの先、どんな『絶望のリアル』を見せられても……私はこの力で、一人でも多くの人を癒やしたい。それが、貴方と契約した私の誇りだから」
その言葉を聞いたベルゼブブの幻影は、深く、慈しむように目を細めた。
「……そうか。やはり、君を選んでよかった」
彼の姿が、次第に淡い光の粒子となって溶け始める。
精神世界の接続が限界に達しようとしていた。
「行きなさい、エリシェヴァ。まもなく意識が戻る。……サントーン・カーシャヘルの深部には、君の『治癒』を必要としている魂が、まだたくさん眠っているはずだ」
「待ってください! みんなは……ミツキたちは無事なのですか!?」
「安心しなさい、魂の糸は繋がっている。……さあ、目覚めの時だ」
ベルゼブブの手がエリシェヴァの頬に触れた気がした。
瞬間、森の景色が霧のように晴れ、再びあの「ノイズの混じった空」が視界を埋め尽くしていく。
「ベルゼブブ様――!」
ベルゼブブの幻影が溶けるように消え、故郷の森の緑が急速に色褪せていく。
柔らかな苔の感触は硬い石畳へと変わり、鼻をくすぐっていた花の香りは、焦げ付いた蝋燭と、金属質な「浄化」の香油が混じり合う、あの重苦しい街の匂いへと塗り替えられた。
エリシェヴァは、無意識に自分の腕を抱きしめた。
薄暗い視界の先、緩やかな坂道の向こうに、白亜の城壁に囲まれた巨大な都市の姿が浮かび上がる。
――聖レクス市。
彼女が魔女として捕らえられ、火刑台へと送られた、絶望と救済の地。
「……また、ここなのね」
乾いた声が、冷たい風にさらわれていく。
まだ、街の門には距離がある。けれど、ここからでもはっきりと見えるものがあった。
街の中央、広場にそびえ立つ教皇アダムスの巨大な石像だ。それは空高くから民衆を見下ろし、その影は冷酷な指先のように街の隅々まで伸びている。
ゴーン……ゴーン……。
遠くから、正午を告げる鐘の音が響いてきた。
かつては敬虔な祈りを捧げるための音だったそれが、今のエリシェヴァの耳には、罪人を追い詰める足音のように、あるいは獲物を探す獣の咆哮のように聞こえた。
街道の脇には、教会の威光を示す青い旗が何本も掲げられ、風にパタパタとはためいている。その旗の向こう側、白いマントを翻して巡回する浄化官の影が、門の近くで小さく動くのが見えた。
エリシェヴァの足が、その場で止まった。
一歩進むたびに、あの日の縄の痛みが、群衆が投げた石の衝撃が、そして火刑台の熱風が蘇ってくる。心臓が早鐘を打ち、治癒の魔力を宿した掌が不自然に熱くなる。
(嫌……怖い……行きたくない……)
本能が叫ぶ。あの壁の向こう側は、彼女にとっての「牢獄」だ。
だが、同時に彼女は思い出す。
あの日、仮病を使って診療所を訪れた、あの黒髪の少女の笑みを。
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エリシェヴァは、震える手で自身の胸元を抑えた。
街の入り口を前にして、彼女はただ、立ち尽くしている。
太陽の光を跳ね返すほど白いその城壁は、内側の闇を隠すための巨大な死装束のように、静かに彼女を拒絶していた。
まだ、門をくぐる勇気は持てない。
けれど、逃げ出すこともできない。
エリシェヴァは、冷たい城壁を見上げたまま、ただ重苦しい呼吸を繰り返していた。
エリシェヴァは震える足で、ゆっくりと門をくぐった。
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彼女の呟きは、虚無に吸い込まれていった。
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かつて白亜と讃えられた大通りは、降り積もった灰と砂に覆われ、まるで色を失った古い絵画のようだった。商店の棚は空っぽのまま放置され、風が吹き抜けるたびに、破れた青い教会の旗が力なく石畳を撫でている。
かつて人々が列をなしたパン屋も、果物屋も、今はただの暗い洞穴のようだ。
略奪の跡さえも古い。奪い尽くされた後、誰も戻ってこなかった。そんな死の気配が街を支配していた。
エリシェヴァは、かつて自分の診療所があった通りへと向かった。
道端には、かつて「不敬虔だ」と殴られていた若者や、熱心に祈っていた老婆たちが、等しく煤けた毛布にくるまって横たわっている。
だが、彼らを蹴り飛ばす兵士も、悔い改めを迫る神官も、もうどこにもいなかった。
教会の施設は、扉が閉ざされたまま沈黙している。
――あの後教会は、民衆を導くどころか、自ら殻に閉じこもってしまったようだ。
「おねがい……助けて……」
路地の隅から、か細い声が漏れた。
見れば、一人の男が化膿した足を押さえてうずくまっている。パズズの疫病が去った後、残されたのは、不衛生な環境で悪化したただの「傷」と「飢え」だった。
それは、祈りや浄化でどうにかなる「穢れ」などではない。
ただの、救われない現実だ。
男は、自分の前を通り過ぎようとするエリシェヴァが「魔女」であることも、かつてこの街で火刑にかけられそうになった娘であることにも気づかない。
ただ、縋れるものなら何でもいいと言わんばかりに、汚れた手を伸ばす。
「教会は……何もしてくれないんだ……。アダムス様も……天使様も……もう、いないんだ……」
男の瞳には、かつての狂信的な熱は微塵もなかった。
あるのは、拠り所を失った者の、底知れぬ虚無感だけ。
教会が「敵」として君臨していた頃よりも、この「無関心な崩壊」の方が、エリシェヴァには何倍も残酷に感じられた。
広場に出ると、かつて自分を見下ろしていたアダムスの巨大な石像が、無惨に首を折られて転がっていた。
誰がやったのかはわからない。だが、その断面には、絶望した民衆が投げつけたのであろう泥と汚物がこびりついている。
広場に積み上げられたままの薪の山。
かつてエリシェヴァが立たされた火刑台の残骸だ。
今はもう火が灯ることもなく、ただ腐りかけ、降り積もる灰を静かに受け止めている。
エリシェヴァは、その炭化した木の山をそっと指先でなぞった。
(ここには……もう、あたしを憎む力さえ残っていないのね)
敵も、正義も、神も消えた。
残されたのは、かつて「救いたい」と願った人々が、何もない空を見上げて、ただ死を待つだけの虚ろな都。
彼女の診療所のあった場所は、今や崩れた壁と、焼けた薬草の匂いだけが漂う廃墟と化していた。
エリシェヴァはそこに立ち尽くし、かつて「優しいね」と言ってくれたミツキの言葉を思い出しながら、言葉にできない喪失感に胸を締め付けられた。
そしてエリシェヴァは、かつて多くの人々を癒やした場所――診療所の残骸へと足を踏み入れた。
崩れ落ちた梁、割れた薬瓶の破片が散乱し、かつての活気は微塵もない。ただ、風が吹き抜けるたびに、瓦礫の下から微かに乾燥したハーブの香りが、死んだ街の匂いに混じって漂っていた。
彼女は、作業台があった場所の奥、床板が不自然に浮いている箇所に気づいた。
そこは、かつて地方教会の厳しい監視から貴重な薬草を守るために作った、小さな地下貯蔵庫だった。
「……誰か、いるの?」
彼女が恐る恐る床板を退けると、暗い穴の中から、一人の痩せこけた男が這い出してきた。
かつてエリシェヴァが、そのひどい手荒れを案じて薬を渡していた木工職人のハンスだった。彼は、泥と煤にまみれた一冊の革の束を、震える手で宝物のように抱きしめていた。
「エリシェヴァ……エリシェヴァなのか……? 良かった、生きていてくれたんだな……」
ハンスは涙を流しながら、その束をエリシェヴァに差し出した。それは、彼女が書き溜めていた「薬草の調合録」と「患者たちの記録」だった。
「あんたが連れて行かれた後、地方教会の役人どもがここを壊しに来たが、これだけは何とか隠し通したんだ。いつかあんたが戻ってきた時に、これがないと困るだろうと思って……。今のこの街には、もう『救い』なんてどこにも残っていないからな……」
地方組織が腐敗し、人々が絶望に沈む中で、一人の男がただ「恩」だけを頼りに守り抜いた、かつての善意の証だった。
診療所を後にしたエリシェヴァは、広場に近い裏路地の隅で、泥水の中に投げ出されるように座り込んでいる一人の男に出会った。
かつて地方教会の命令で彼女を「不敬者」として捕らえた地元の浄化官の一人だった。
かつては白く輝いていたはずのマントは、今や泥と吐瀉物に汚れ、彼の右脚は手当てもされず壊疽を起こしていた。
「……殺せよ。今の俺に、抵抗する力なんてない……」
男は焦点の合わない目でエリシェヴァを見上げ、自嘲気味に呟いた。
「……本部の教皇様(アダムス)は戻られたのでしょう? なぜ、この街の教会は何もしてくれないの? なぜ、誰も助けてもらえないの?」
その問いに、男は虚空を見上げたまま、乾いた笑いを漏らした。
「ああ、猊下は戻られたらしいな。……だが、猊下が今見つめているのは、遥か遠くの異変と、あの巫女の事だけだ。
あのお方にとって、この末端の街がどうなろうが、もはや関心の外なんだよ。本部の連中も『聖戦の準備』とやらで自分のことばかり。……俺たち地方の兵や民なんて、とうの昔に切り捨てられたのさ」
男は、震える手で泥だらけの石畳を叩いた。
「本部からの支援も指示も止まった。街の神官たちは逃げ出し、残されたのは飢えと傷だけだ。……自分たちの正義が通用しなくなった途端、あいつらは俺たちを見捨てたんだ。この街は……アダムス様に忘れ去られた『抜け殻』なんだよ……」
かつて「秩序」の末端を担った浄化官の口から漏れたのは、中央の関心が逸れたことで自壊していく地方都市の、最も惨めな真実だったのだ。
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