上 下
41 / 57
第一章【少年よ冒険者になれ】

40・試練、不思議な世界で。(1)

しおりを挟む
「しばらく振り返らない方がいい」

 この空間をも歪める魔法の特質に気が付いたテレスは、皆に忠告した。彼の指摘は正しい。本人たちは真っすぐ道を進んでいるつもりだが、空間が捻じれて今は地面が上を向き、空が下になっているのだ。つまり、彼らは今、コウモリのように天地さかさまに歩いているわけだ。だが、それを気にしなければどうということはない。ただ真っすぐ進めばいいのだ。
 空間の捻じれを我慢してしばらく進むと、周りの風景が一変した。周りの木と木の間がなくなっていき、それらはいつしか混ざり合い、壁になっていった。だが、明かりの元がないのに暗くはならない。それどころか、周りの壁はどんどん大理石のようなしっかりとしたものになっていった。

「え、え、ここ、外だったよね? 建物なんてなかったよね?」
「いつの間にか、お部屋の中にいますー」
「すごい! 前に本で読んだ宮殿みたいだ」

 少々動揺しながらも歩みを止めないのは、これまでの彼らの成長と、何も気にしないかのように胸を張って先頭を行くテレスの存在あってのことだろう。そうこうしている間にボードが言ったようにどんどん景色は宮殿の中のようになり、やがて広間で行き止まりとなった。そんな彼らによく反響の効いた、厳格な声が聞こえてくる。

「よく来たな。知恵ある冒険者たちよ……」
「だ、誰?」

 皆、一斉に身構える。

「私は大精霊、クロノースである。知恵ある冒険者たちよ、試練に立ち向かう勇気はあるか?」

 一歩前に出ているテレスは、一度振り返り皆と視線を合わせる。

「クロノース様……あります。試練に挑戦させてください!」
「……はっはっは。そう肩に力をいれるでない。いいかテレス。この試練の参加者は君一人だ。もし失敗しても、何度でも挑戦することを許そう。会えるのを楽しみにしているぞ」

 そういうと、声の気配はすっと消えていった。同時に、行き止まりだった壁が鏡のようになったが、その鏡は水面のようにゆらゆらと揺れていた。

「今の、大精霊、様? なんでテレスの名前を知っているんだろう」
「相手の名前がわかる魔法を持っているんですかね~? 怖いです……」

 そんな魔法は聞いたことがないが、大精霊クロノースともなればたやすいことなのかもしれない。あるいは、光の精霊やジャネットとの精神的なつながりを持っていて、情報が筒抜けとも考えられる。ともかく、これほどまでの空間を作れる存在なのだ。テレスの名前を知ることなど造作もないのだろう。

「じゃ、とりあえず行ってみるよ。もし帰りが遅いようなら、一度街へ帰って身支度を整えてきて」
「え、そんなに時間がかかるの?」
「たぶんだけど、クロノース様は僕ら人間よりも神様に近い存在だと思う。光の精霊も時間の概念が曖昧だったし、どうなるかわからないからね」
「そっか……」

 皆、不安そうな表情になる。今や、テレスという存在は立派にこのパーティの中心だったのだ。

「ま、長くなりそうだったら一度帰ってくるよ」

 テレスは笑顔さえ見せて、皆に背を向けた。だが、それは決して皆を安心させるために作った笑顔ではなかった。この先待っているものに、確かな期待と好奇心があるのだ。

「よし」
「気をつけてね!」

 アリスの声と、ボードとリプリィの視線を背に、やわらかい頬を一度パシッと叩いて、少年は水面へと歩き出した。

 水面に体を通すと、意識が遠のくのを感じた。最後に見たのは真っ暗なのにどこまでも広がっているように感じる世界。何もないのに異常なまでのエネルギーが密集しているのがわかった。目を閉じながら少年は、自分が分解されていくような奇妙な感覚をもち、意識を失った。

「テレス、テレス。遅刻するわよ」

 その声に少年はゆっくりと目を開ける。

「……長い夢だったな」

 おぼろげながら今まで見ていた夢を断片的に思い出す。それは、この時代とは明らかに違う世界であった。魔法があって、剣があって、魔物がいて。そして、気心の知れた仲間たちと一緒に、少年は何かを目指して冒険をしていたのだ。すでに顔も性格も声もおぼろげにしか覚えてはいないが、とても大事に思っていた気がする。

「はいはい、中二病ありがとうございます」

 おかしな夢を見た自分への皮肉も決まったところで、ひとつ大きな伸びをして、少年は殆ど軋むことのない階段を下りてリビングへと向かう。朝ごはんのいい匂いとテレビの音。そして、自身を起こした優しい声が少年の耳に届く。

「ほら、さっさと食べちゃいなさい。眠そうな顔して。遅くまでゲームでもやってたんでしょう?」
「やってないよ。ほら、その、勉強を、ね」
「あらそう、ならいいけど」
「そうか、テレスも来年は受験生か。今からしっかり準備しておけよ」
「はいはい、わかってますよ」
「「はいは一回」」

 二人の声がシンクロすることで、なんとなく皆、朝から笑ってしまう。これが日常。なんの不満も不安もないといえば嘘になるが、十四歳の少年にとってはこれがどこまでも日常である。だが、今日に至っては少し違和感を覚えた。あの長い夢のせいだ。すでにほとんど覚えてはいないが、ずいぶん多くの時間をそこで過ごしたような気がする。そのせいか両親に会うのが酷く久しぶりに感じてしまうのだ。二人の笑顔も、声も、食事も。昨日確かに同じような時間を過ごしたはずなのに、懐かしさが心を占めている。

「どうした? 箸が進んでいないぞ? もう始業式から三日経ったんだから、寝ぼけ癖は直さないとな」
「あ、うん」
「え、嫌いなもの入れてないわよ、わたし」
「だ、大丈夫。おいしいよ。ちょっと考え事をしていただけ」
「そ、ならよかった」

 食事と身支度を済ませた少年は、学校へと向かう。通いなれた公立の中学校。少し小高いところにあって、長閑のどかな場所だ。山道特有の曲がった道を、息を切らせながら登っていくと、眼下には栄えている駅とその周辺が広がる。数日前までは桜がそこかしこに咲いていたが、すでに緑に変わりかけていた。その景色に、また違和感を覚える。これはただの違和感というより、既視感に近い。どこかで同じ光景を見たような気がしてならないのだ。

 ――いやいや、そりゃいつも見てるんだから、当たり前だろ。

 自分で自分に突っ込んで、ほんの少しの心のもやもやを抱えながら、残りの道を急いだ。
 教室には見慣れたクラスメイト達ですでに賑わっていた。皆と挨拶を交わして席につく。いつも話しかけてくるウィルと談笑していると、これまた見慣れた光景が教室の入り口から飛び込んでくる。

「テレス! どうしよう!?」

 幼馴染のボード先輩だ。巨体を揺らして、朝から汗だくである。

「どうしたの、ボード、先輩」

 普段は呼び捨てだが、学校なので一応敬称をつける。

「また体操着?」
「そう、家に忘れちゃってさ! って、なんでわかったの?」
「そりゃわかるよ。木曜日は一限目が体育、でしょ」
「おお、さっすがテレス!」

 そして、教室後方の簡易ロッカーから体操服の上下セットを渡す。これはボードのご両親から預かっているもので、忘れ物の多い息子のことを危惧しての転ばぬ先の杖、というわけだ。もっとも、これは一度、自分の体操着をボードに貸したら伸びてしまったため、テレスからそう進言したことがきっかけなのだが。
 テレスのロッカーには体操着の他、体育館シューズや地図帳、ルーズリーフなどがボード用に置かれていることから、半分はボードのロッカーである。始業式の日はまるごと持ってこなければいけなかったので、さすがに骨が折れた。

「ありがとう、助かったよ、テレス!」

 そういっている間に、先ほどよりも汗が増えているが、お構いなしで教室を出て行った。

「お前も大変だな」
「まあね、慣れっこだよ」

 周りに同情されて、思わず苦笑いをするが、テレスにとってボードは兄弟同然なのである。これもせわしない日常の一コマにすぎないのだ。

「あ、うちの社長出勤上級者がまーだあんなところにいるぜ」

 ウィルの目線を追って、窓の外に目をやると、そこには校門入り口あたりから猛烈にダッシュしてくる人影が確認できた。

「今日は結構距離があるな。さすがに遅刻か?」

 ――キーンコーンカーン……

 始業を告げるチャイムが校内に響き、皆自分の席に戻る。まもなく担任の先生がここへくるだろう。チャイムが鳴り終わるかどうかというときに、慌ただしく教室のドアが開く。

「今日もセーフ!!」

 陸上部のエース、アリスだ。つい二十秒前まではまだ校庭を横断していたのに、信じられない速さである。教室も思わず拍手に包まれた。

「いやー、まいったまいった。目覚ましが壊れてるんだもん」

 皆、そのあどけない笑顔と間の抜けた、ありがちなエピソードに思わず笑う。そこに、追い打ちをかけるようにウィルがアリスに話しかける。

「素晴らしい走りでした。世界記録が更新されましたが、今の心境は?」

 どこぞの紳士のようにインタビューへ向かう彼に、皆こらえきれずに笑う。

「は? ウィル、寝ぼけてるんじゃない?」
「ちょっとちょっと、俺は場の空気を軽くしようと思って」

 笑いはさらに爆笑へと変わる。二人とも本当に天然なのだ。アリスは元気な天然で、ウィルは空気を読んでいるようで読めていない、勘違い体質な天然といったところか。お決まりのこのやりとりは、このクラスの名物となっている。そして、このお約束で盛り上がったということは、そろそろ次の展開がやってくる。

「ちょっと、もう先生来るわよ。そろそろ静かにしなさい。まったく、あんたたちはいつもいつも……」

 テレスの想像通り、クラス委員のフェリアが腕組みをしながら二人に説教を始める。そして、次の展開はこうだ。

「はい、皆さんおはようございます」

 彼らに気を取られている隙に、いつの間にかレンダ先生が教壇に立っているのだ。生徒の数倍は眠そうな顔をしているところをみると、昨晩も何かしらの本を読み漁っていたのだろう。
 テレスにはここまでの流れが、戯曲を書いた本人であるかのようにわかっていた。それくらい日常の中の日常なのだ。だが、今日に至ってはそれすらが少し遠く、久しぶりに感じてしまう。

 その後は何事もなく授業が進み、数学や英語、歴史などを学んだ。昼になるとアリス、テレス、フェリア、ウィルの四人でお弁当を食べるのだが、何故かそこに上級生であるボードとリプリィが加わる。ボードはテレスと一緒にお昼を食べたいからだが、リプリィはフェリアと幼馴染なため、自然とこういう形になった。普通、上級生が下級生の教室でご飯を食べるなど、威圧的に見えて敬遠されがちだが、この二人は無害なため周りも特に気を使っていない。
 さらに、リプリィはお菓子作りが趣味で、しばしばクッキーなどを持ってきてくれるし、ボードは肉屋なため肉団子などをおすそ分けしてくれる。
 なんとも不思議なメンバーだが、何故かこの凸凹でこぼこな六人は気が合い、プライベートでもなんとなく一緒にいることが多い。因みに、アリス以外は皆天文部に所属していて、担任のレンダ先生の教えを受けながら、プラネタリウムを見たり望遠鏡で空を眺めたりしている。もっとも、陸上部がない日はアリスも何故か参加するのだが。
 そんなこんなで、騒がしくも楽しい一日は過ぎていく。そうこうしているうちに、テレスも今朝がたみたの存在をいつの間にか忘れてしまった。朝から感じていた違和感も、徐々に薄れ、やがて消えた。

 当たり前の中学生として、当たり前の日常を生きる。面倒なことも多いが、楽しい仲間に囲まれて、日々はあっという間に過ぎていった。そうして、テレスがあの夢から醒めてから、一週間が経った。
しおりを挟む

処理中です...