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第五章
問いかける影
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不意に聞き慣れない声がした。
「顔を上げろ、ニック」
身も心も浸食されたニックは、重い首を持ち上げる。身体中の骨は軋み、腫れ上がった瞼が半分蓋をする目は霞んでよく見えない。けれどそれは、新しい言葉だった。
ぼんやりと映る視界にはフード姿の影がふたつ。うち、ひとりがざらついた声で問いかけた。
「てめぇはアレク……シス王子を知ってるな」
ニックは機能しない頭で受け止める。もはやここに至る経緯など、欠片ほども残っていなかったが。
「知り……ません」
そう答えた。
「いや、知っているはずだ。よく思い出すんだな。最近、胸糞わりぃロナルドの奴が引き入れた少年がいたはずだ。銀髪の…綺麗な顔立ちをした奴が」
ロナルド。
その言葉がちくりと脳の奥を刺激する。
膜のかかった記憶に亀裂が入り、光明がじんわりと滲みだした。
徐々に彼の顔が鮮明になり、笑顔を浮かべる。時折見せるその笑顔は警戒心がない子供のようで、とても好きだった。
不意に、その笑顔が自分から逸らされる。
その先には不思議な紫色の目を持つ銀髪の少年。
「アレ……ク」
今度は記憶の亀裂から黒いものが溢れでた。
眩しかった光りはあっという間に飲みこまれ、ドロドロとしたものがニックを絡め取る。
当時、彼はロナルドの正当な判断を鈍らせるあの少年を嫌悪していた。嫌悪し、嫉妬していた。
いまとなっては、その理由でさえ遠く霞んで思い出せない。
残っている純粋な感情だけが彼を支配し、苦痛を生んだ。
顔を歪ませたニックに男は問う。
「あれはひとを狂わせる悪い奴だ。その片鱗をてめぇは見たはずだ。何を見たか話せ」
男の本心は全く別のところにあったが、用意した台詞をそのまま言ってのけた。そう言わなくてはならなかった。
彼の中で生み出された小さな葛藤は、誰にも気づかれることはない。
殴られた痣を顔中に刻み、ぼこぼこと顔を変形させたニックは切れた唇を僅かに動かした。
「ひとを……狂わせる……」
そのとき、カチャリと記憶の隅で歯車が噛み合った気がした。
生気をなくした瞳にちりっと怒りの炎が宿り、失ったはずの言葉も思い出した。ニックは身の内から腐った膿を絞り出すように唸る。
「そうだ……あい…つは副隊長を狂わせた悪い奴だ。彼は…あいつにいいように……操られている。でなければ…ゲホッ……あんな判断はしない!」
「あんな判断ってのは、なんだ」
「アレクを……ホーキンスの元に同行させた。入隊の年にも満た…ない少年を補佐に付けるだけでもおか…しい。それ…なのに……ア…レクに頼まれたからといって、立ち入り禁止…の尋問室へ……同行を許すなんて!」
「そこで俺の……アレクは何かしたのか?」
「何も」
「何も?」
「そうだ……あの時は…何もしなかった」
男は一旦そこで言葉を切った。ぼそぼそと会話が聞こえる。どうやら片割れと話しているようだが、聞き取ることは出来なかった。
「答えろ。おまえはいま、あの時は、といったな。ではその後、何かあったのか」
今度は違う声だった。
片割れの方だろう。滑らかで低く、落ち着いた声だった。
しかしニックはこぼれ落ちそうなほど目を見開く。無意識に強ばった体を繋ぐチェーンはギシッと揺れ、喉は痙攣した。
この声を……知っている!
この声には決して逆らってはいけない。
忠誠を。忠誠を!
『総統閣下に忠誠を』
魂に刻まれたその言葉が脳内を掻き乱し、視点はぎょろぎょろと定まらない。
早く、答えなれけば!
必死にそう思うのに、ガチガチと奥歯が鳴る。喉に蓋をされたように言葉が出てこなくて、ニックは青ざめた。
早く! 早く!
理由の分からない焦燥感に駆り立てられて、痛む肺に無理やり空気を取り込む。血の味がする喉を裂く思いで必死に声を絞り出した。
「ありました! でも何があったかは知りません!」
「矛盾しているではないか」
「じ、尋問官の報告によれば、あの後アレクは単身でロナルド副隊長の言伝をホーキンスに伝えに来たと!」
「それだけか」
「いいえ。ここからが分からない所なのですが、アレクがそれを伝えた途端、頑なに自供を拒んでいたホーキンスがべらべらと話し始めたそうです! とても信じられませんでした」
「……ほう。アレクは長いこと、その場にいたのか?」
「いいえ! あっという間ことだったようです。耳元で何か囁いて……すぐに退室したと」
「何か脅しをかけたのではないのか」
「あり得ません。アレクを同行させた際、ロナルド副隊長はそうしてみせました。だけどホーキンスはせせら笑った。死より怖いものがある。それがゲイリー・ヴァレットだと。あれは死を覚悟した人間の目です。脅しなんて効くはずがありません!」
必死に言葉を吐いた。喉から込み上げる血でゴホゴホと咳き込むと、つかの間の静寂が訪れる。
そこにクスクスとした笑い声が響いた。
「顔を上げろ、ニック」
身も心も浸食されたニックは、重い首を持ち上げる。身体中の骨は軋み、腫れ上がった瞼が半分蓋をする目は霞んでよく見えない。けれどそれは、新しい言葉だった。
ぼんやりと映る視界にはフード姿の影がふたつ。うち、ひとりがざらついた声で問いかけた。
「てめぇはアレク……シス王子を知ってるな」
ニックは機能しない頭で受け止める。もはやここに至る経緯など、欠片ほども残っていなかったが。
「知り……ません」
そう答えた。
「いや、知っているはずだ。よく思い出すんだな。最近、胸糞わりぃロナルドの奴が引き入れた少年がいたはずだ。銀髪の…綺麗な顔立ちをした奴が」
ロナルド。
その言葉がちくりと脳の奥を刺激する。
膜のかかった記憶に亀裂が入り、光明がじんわりと滲みだした。
徐々に彼の顔が鮮明になり、笑顔を浮かべる。時折見せるその笑顔は警戒心がない子供のようで、とても好きだった。
不意に、その笑顔が自分から逸らされる。
その先には不思議な紫色の目を持つ銀髪の少年。
「アレ……ク」
今度は記憶の亀裂から黒いものが溢れでた。
眩しかった光りはあっという間に飲みこまれ、ドロドロとしたものがニックを絡め取る。
当時、彼はロナルドの正当な判断を鈍らせるあの少年を嫌悪していた。嫌悪し、嫉妬していた。
いまとなっては、その理由でさえ遠く霞んで思い出せない。
残っている純粋な感情だけが彼を支配し、苦痛を生んだ。
顔を歪ませたニックに男は問う。
「あれはひとを狂わせる悪い奴だ。その片鱗をてめぇは見たはずだ。何を見たか話せ」
男の本心は全く別のところにあったが、用意した台詞をそのまま言ってのけた。そう言わなくてはならなかった。
彼の中で生み出された小さな葛藤は、誰にも気づかれることはない。
殴られた痣を顔中に刻み、ぼこぼこと顔を変形させたニックは切れた唇を僅かに動かした。
「ひとを……狂わせる……」
そのとき、カチャリと記憶の隅で歯車が噛み合った気がした。
生気をなくした瞳にちりっと怒りの炎が宿り、失ったはずの言葉も思い出した。ニックは身の内から腐った膿を絞り出すように唸る。
「そうだ……あい…つは副隊長を狂わせた悪い奴だ。彼は…あいつにいいように……操られている。でなければ…ゲホッ……あんな判断はしない!」
「あんな判断ってのは、なんだ」
「アレクを……ホーキンスの元に同行させた。入隊の年にも満た…ない少年を補佐に付けるだけでもおか…しい。それ…なのに……ア…レクに頼まれたからといって、立ち入り禁止…の尋問室へ……同行を許すなんて!」
「そこで俺の……アレクは何かしたのか?」
「何も」
「何も?」
「そうだ……あの時は…何もしなかった」
男は一旦そこで言葉を切った。ぼそぼそと会話が聞こえる。どうやら片割れと話しているようだが、聞き取ることは出来なかった。
「答えろ。おまえはいま、あの時は、といったな。ではその後、何かあったのか」
今度は違う声だった。
片割れの方だろう。滑らかで低く、落ち着いた声だった。
しかしニックはこぼれ落ちそうなほど目を見開く。無意識に強ばった体を繋ぐチェーンはギシッと揺れ、喉は痙攣した。
この声を……知っている!
この声には決して逆らってはいけない。
忠誠を。忠誠を!
『総統閣下に忠誠を』
魂に刻まれたその言葉が脳内を掻き乱し、視点はぎょろぎょろと定まらない。
早く、答えなれけば!
必死にそう思うのに、ガチガチと奥歯が鳴る。喉に蓋をされたように言葉が出てこなくて、ニックは青ざめた。
早く! 早く!
理由の分からない焦燥感に駆り立てられて、痛む肺に無理やり空気を取り込む。血の味がする喉を裂く思いで必死に声を絞り出した。
「ありました! でも何があったかは知りません!」
「矛盾しているではないか」
「じ、尋問官の報告によれば、あの後アレクは単身でロナルド副隊長の言伝をホーキンスに伝えに来たと!」
「それだけか」
「いいえ。ここからが分からない所なのですが、アレクがそれを伝えた途端、頑なに自供を拒んでいたホーキンスがべらべらと話し始めたそうです! とても信じられませんでした」
「……ほう。アレクは長いこと、その場にいたのか?」
「いいえ! あっという間ことだったようです。耳元で何か囁いて……すぐに退室したと」
「何か脅しをかけたのではないのか」
「あり得ません。アレクを同行させた際、ロナルド副隊長はそうしてみせました。だけどホーキンスはせせら笑った。死より怖いものがある。それがゲイリー・ヴァレットだと。あれは死を覚悟した人間の目です。脅しなんて効くはずがありません!」
必死に言葉を吐いた。喉から込み上げる血でゴホゴホと咳き込むと、つかの間の静寂が訪れる。
そこにクスクスとした笑い声が響いた。
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