鬼月島

都貴

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第三章

その一

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昼間の晴れ具合が嘘のように窓の外は激しい雨が降っていた。分厚い硝子を叩く雨音、窓がガタガタと揺れる音で、その晩晋はなかなか眠ることが出来なかった。

唸るような風の音に交じって妙な声が聞こえた気がした。獣の遠吠えのような声だ。

 屋敷付近の森は深い。獣の一匹や二匹いたって可笑しくない。昼間、遭遇せずに済んだのは幸運だったかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、晋はやっとウトウトしだした。
また遠吠えのような声が聞こえた気がするけど、微睡みかけていたのでベッドから出るのが億劫だったので、そのまま晋は目を閉じて眠ってしまった。

 朝日が窓から差し込んできて目を覚ますと、隣のベッドではまだ間抜け面で時夜が爆睡していた。

 ケータイの時計を確認すると、すでに七時を過ぎている。

「起きろよ、時夜」

 声を掛けたが、時夜は緩みきった顔で爆睡している。こんな奇妙な屋敷で熟睡できるなんて、時夜の心臓には毛が生えているに違いない。

まるで実家であるかのようにあまりにも気持ちよさそうに寝ているので起こすのが忍びない気がしたが、心を鬼にして晋は時夜の頬を軽く叩いた。

「さっさと起きろ、朝だぞ」
「んあ?もう学校に行く時間かぁ?」

 完全に寝ぼけた様子でむくりと起き上がった時夜に、晋は肩を竦める。

「夏休みだろう、時夜。そんなにお前が熱心だったとはな」
「んんー、あれ、晋。おはよーさん、なんでいるんだ?」

「なんでって、同じ部屋に泊まったからだろう。どこだと思っているんだ、明らかにお前の暮らしているアパートでも、俺が暮らしているアパートでもないだろう」

 時夜は瞼を擦ると、大きな口を開けて欠伸をする。

「ああ、そうだ。ここは鬼月島だったよな。すっかり忘れちまってたわ。いやーよく寝たよく寝た」

「お前は本当に堂々とした奴だな。怖いものはないのか?」
「怖いもん。怖いもんねぇ」

 また一つ大きな欠伸をしながら、時夜は考え込むようなそぶりを見せた。灰色の瞳が鈍い光を宿す。どこか虚ろな瞳に晋はぎくりとした。

「怖いもんか。オレは、人間が怖ぇな」
「人間が、怖い―…」

 自分を見つめる灰色の瞳は冷酷な色を帯びていた。幽霊よりも生きた人間が怖いなんてよく聞くちょっとだけ格好をつけた台詞とは違う響き。

時夜の顔は能面のように無表情で普段の飄々とした彼とはまるで別人のようだ。

「人間が怖いって、時夜、お前」

「なーんてな。怖いもんなんかオレにはねーよ。あ、やっぱウソ。ゴキブリは怖ぇな。アイツら素早いし、こっちの存在に気付いても逃げずに飛んでくる時があるしよ。この前な、オレの部屋にすげーでけーヤツが出たんだぜ。コードレスの小型マウスぐらいはあったぜ、あれ。いやー、マジビビったわ」

 話しながらケラケラ笑う時夜はいつもどおりだった。
さっき一瞬だけ見せたあの表情はなんだったのだろう。
人間が怖いという言葉の裏にはどんな意味が隠されているのか。

聞いてみたい気がしたけど、聞いたら何かが壊れる気がして聞けなかった。
 不穏な会話などはじめから存在しなかったようにふるまう。

「さてと、今日は何をすっかなー。化け物、探さねーとな」

「化け物なんているかよ。時夜、先に言っておくが俺は化け物探しになんざ付き合わないからな」

「なんだよ、つまんねーな。せっかく無人島に来てるんだぜ、もっと楽しもーぜ」

「何を言われようが、化け物探しはしねえ。お断りだ」

「まあ、化け物探しよりも女の子と遊んでる方が楽しいよな。それより晋、オマエ顔色が悪いじゃねーか。どうしたんだよ」

「別に、夕べよく眠れなかったんだ」

「さては晋、女の子とお泊りだから興奮して眠れなかったな?もしかして、ベッドの中で夜這いかけようかどうかずっと悩んでたのか?」

「ふん、お前と一緒にするな。そんな気は一切ねえよ、馬鹿」

 眠れなかったストレス解消に、ニヤニヤと笑う時夜の頭を軽く叩く。痛いと言いながらも、時夜はまだにやついていた。

「眠れなかったのは、音が煩かったからだ」
「音?なんか音がしてたのか?」

「今朝は晴れてるが、昨晩はすごい雨が降っていたんだ。雨音がしていただろう。それに風の音も。それだけじゃない。獣の唸り声が聞こえた気がするんだ」

「はあ?獣の唸り声ねぇ。そんなもん、オレは聞こえなかったぜ」

怪訝な顔をする時夜に「風の音だったのかもな」と言うと、晋はノースリーブと短パンを脱ぎ捨てて、七分丈のシャツとジーンズに着替える。


 着替えている途中、部屋の扉を誰かがドンドンと激しく叩いた。

何事だろうか。晋は急いで服を着ると、部屋の鍵を開ける。
ドアの向こうには、チャームポイントのツインテールをおろし、パジャマがわりらしきシンプルな黒のTシャツに、ショートパンツといういで立ちの美沙が立っていた。

 いつでもどこでもしっかりメイクをしていて、服だってばっちりおしゃれに決めている彼女らしくない姿だ。晋と時夜は顔を見合わせた。

「どうかしたのか、海野」
「美沙ちゃん、顔が青いぜ。大丈夫かよ?」
「晋くん、時夜くん。あのね、いないの……」
「いないって何がだ?」

 晋が問い返すと、美沙は大きな目を潤ませた。

「どうしよう、朱里がいなくなっちゃった―…」

 朱里がいなくなったなんて、美沙は寝ぼけているのだろうか。トイレか洗面所にでも行っていて、部屋にいないだけではないのか。

 晋は時夜と顔を見合わせて首を捻った。とりあえず美沙を部屋に招いて、ベッドの端に座らせた。

「それで、佐藤がいなくなったってどういう意味なんだ?」
「そのままの意味だってば!本当に、いなくなっちゃったの!」

 まるで地方のように「いなくなった」と繰り返す美沙に晋は眉根を寄せた。意味が分からない。お手上げだ。

 困った顔で時夜を見ると、彼は自分の出番だとばかりに笑みを浮かべて、美沙に見えないように密かにサムスアップして見せた。

 時夜は美沙の隣に腰を下ろすと、彼女の細い肩に優しく手を置いた。

「大丈夫だぜ、美沙ちゃん。ここは広いとはいえただの洋館だし、人ひとりがいなくなっちまうなんてありえねーよ。トイレか風呂か洗面所じゃねーか?」

アタシもそう思ったんだけど、違うの。だって、三十分も部屋に帰ってこないんだよ?朝起きたらすでにいなかったし。ベッドを触ってみたけど、ひんやりしていて」

 朱里が寝ていたベッドに触ってぬくもりが残っているかどうかを確かめるなんて、まるで探偵みたいだ。

それほどまでに朱里を心配しているのか、それとももっと陰険な別の理由があるのか。
前者ならいいが後者なら少し怖い。

いや、そんなことよりも三十分も部屋に戻らないとなれば、さすがに少し心配だ。

「圭吾と一条、桜田も起こしてみんなで探した方がいいかもしれないな」
「確かに、晋の言う通りだぜ。よし、みんなで探そうぜ、美沙ちゃん」
「ありがとう、晋くん、時夜くん」

 三人は部屋を飛び出すと、圭吾と和樹、八重子も起こして手分けして朱里を探し始める。屋敷は広いので一人で迷子になるのは危険だと、二人組に別れて朱里を探すことにした。

「誰と誰が組むんだ?」

 圭吾の問いかけに、真っ先に手をあげて答えたのは和樹だ。

「女性同士より男女が組んだ方が女性を守ってあげられる。僕は美沙さんと探そう」

 女性を守るなんて言って、和樹は単に美沙と組みたいだけなのだろう。晋は呆れた顔をする。時夜もあからさまに嫌そうな顔をした。

「一条、オマエバカだろ。オマエみたいなひょろいのが何かあった時女を守れるかっつーの。オレが美沙ちゃんと組むぜ。まあ、桜田でもいいけど。桜田はオレのこと苦手みてーだし」

「何を勝手なことを言い出すんだい?僕が美沙さんを守るんだ」

「黙っとけよ。オマエなんかじゃ頼りねーって言ってんだろ。なあ、美沙ちゃん。美沙ちゃんだって一条みてーなインテリ野郎より、オレの方がいいだろ?」

「そうだね、アタシは和樹くんより時夜くんがいいなー」

 美沙に拒否されて、和樹はすねたような顔になる。
美沙と組めないなら、圭吾がいいと和樹が言ったので、晋はあまった八重子と組んで朱里を探しはじめる。

 朱里の名前を呼びながら通りかかった部屋のドアを慎重にすべて開けていくが、なかなか朱里は見つからない。

この屋敷は広くて、なかなか声が隅から隅までは通らない。
でも、三組に分かれてみんなでいろんな場所から名前を呼んでいるのだ。朱里が屋敷にいるのならば、誰かの声は届くはずなのに。

 はじめはあまり深刻に考えていなかったが、晋は朱里がいないことがとんでもない事態のような気がしてきた。
何か、よくないことが起きている。そんな気がする。

「朱里ちゃん、出てこないね。きっともう、食べられてしまったんだよ」

 八重子が薄暗い声でぽつりとつぶやいた。晋は思わず眉間に皺を寄せる。

「食べられたって。何を言っているんだ、桜田。誰が佐藤を食べるんだ?」
「月島君は感じとっているんじゃないの?あいつの気配を―…」
「あいつ?誰のことだかさっぱりわからねえな。誰なんだ、あいつって」

「牛の化け物だよ。この島はクレタ島と同じなんだよ。いるんだよ、化け物が。人を食らう牛と人が混ざってできた化け物、ミノタウロスがいる」

「桜田、ミノタウロスなんて作り話だ。ましてや、ここは日本だぞ」
「ぜったいにいるよ。わたし、感じるの」

 八重子の虚ろな黒い瞳がこちらを見る。見つめ返すと深い闇を覗いているよう感覚に陥り、背筋がぞっとした。

気味が悪いのに目が逸らせない。
呑み込まれてしまいそうな吸引力のある黒い瞳。
彼女はこんなにぞっとするような瞳をしていただろうか。

八重子とそんなに関わりはないけど、今の彼女が普段の彼女とは違っていることだけははっきりとわかる。
だけど、何が違うのかと問われれば答えられない。

ちょっと暗そうな伏し目がちな瞳、痩せているわけではないけど全体的に小柄な体。
着ている服も普段と変わらない地味な服装で、一見普段と変わらない姿をしている。

こちらを見詰める八重子を晋はもう一度よく見た。
細い肌に馴染むくすんだオレンジ色のフレームのメガネの奥にある黒い瞳が、なんとなく爛々としている。

友人の朱里がいなくなったかもしれないというのに、どこか楽しげな目をしているように感じるのは気のせいなのだろうか。
口角は下がっていて表情は暗いのに、目だけ輝いている。

「ミノタウロスが朱里ちゃんを食べてしまったんだよ」

 ひとりごちる八重子に晋は不気味なものを感じた。
彼女を置いて一人で朱里を探したいと思ったけど、もしも八重子を一人にして何かあったら大変だ。

一人になった途端に何者かが、たとえば八重子のいう牛の化け物が襲ってくるような気がしてならない。

「向こうを探すぞ」

 しょうがなく八重子を置き去りにしないように注意しながら、晋は朱里の姿を探して回った。


どれほど探し回っても朱里は見つからなかった。すでに二十分以上も時間が経っていた。三十分後に美沙の部屋に集合という約束なので、朱里探しを断念して晋と八重子は美沙の部屋に向かった。

「晋くん。朱里、いた?」

 すでに部屋に集合していた美沙が期待したような目でこちらを見る。緩く首を横に振ると、彼女は青い顔で唇を引き結んだ。

「その様子じゃ、そっちも見つからなかったようだな。そうなんだろう?時夜」

「その通り。朱里ちゃん、どこいっちまったんだ?」
「どうしよう。いなくなっちゃうなんて―…」

 明るい陽射しが差し込む部屋に陰気な空気が漂う。

「まったく、朱里さんはどこに行ってしまったというんだい?朝からこんなにみんなに迷惑を掛けるなんてね。彼女、ちょっとミステリー好きの変わり者な一面があったからね。奇怪な屋敷に興味をそそられて、探検でもして遊んでいるのかもしれないね。そうだとしたら、本当にはた迷惑なことだ」

 ブツブツとぼやきながら和樹が部屋に入ってきた。彼の後ろにいる圭吾は気まずげな顔をしている。

「ちょっと、和樹くんったら酷いんじゃない?迷惑だなんて、朱里に酷いこと言わないで!」

 珍しくカリカリしている美沙に、和樹が面食らった顔になる。

「す、すまない美沙さん。気に障ったのならば謝るから、怒らないでくれないかい」

「怒るよ!アタシ、朱里のことが本当に心配なんだもん!それなのに、和樹くんは文句ばっかり」

「ああ、ごめんよ美沙さん。優しい君の気持も考えず、僕は朱里さんへの文句を並べてしまった。本当にすまない」

 不機嫌を隠そうともしない美沙をおろおろと和樹がフォローをする。

その時、ベルの音が一階から聞こえてきた。

晋達六人はぞろぞろと部屋から廊下に出る。ベルの音はまだ鳴り続けている。
それも、だんだんと近付いてきていた。

「なんなんだ、この音は」

 晋が眉を顰めて呟くと、時夜は肩を竦めた。

「なんだろーな。昔の火事に鳴らす鐘みたいな音だよな」
「アタシ、なんか、ちょっと怖いかも―…」

 美沙がぶるりと体を震わせて、時夜にしがみつく。
時夜がデレデレした顔になった。それを見て和樹が面白くないとばかりに不貞腐れる。

 呑気な連中だ。晋は密かに小さく溜息を吐いた。

 音が近付いてきている。音の方に向かっていくべきか、逃げるべきか。

晋が目まぐるしくいろいろな予想を立てるなか、他の連中は呑気に突っ立っていた。
そうしている間にも音はかなり大きくなってきていた。

 晋は思い切って音の方に近づいていった。
すると、白いフリルのエプロンを身に着けた礼子が金色のハンドベルを鳴らしながら、階段を上ってくるのが見えた。

「あら、みなさんお揃いで。朝ご飯を用意したので一階のダイニングへどうぞ」

 たおやかに微笑む礼子に毒気を抜かれた。内心、首に大きな鈴を下げた牛の化け物が近付いてきているのではないかなどと怖いような、嗤えるような想像をしていた。だが、大外れもいいところだ。

 馬鹿か俺は、この屋敷に化け物なんていない。昨晩聞いた獣の声は風の音か外の森にいる獣の声だったのだろうし、八重子がミラーハウスみたいな部屋で見たと騒いだ牛の化け物は見間違いだ。

八重子が「朱里はミノタウロスに食べられた」なんて可笑しなことを言うから、妙な悪影響を受けてしまったのだ。

 晋は小さく息を吐いた。
「動き回ったからオレもう腹ペコだわ。飯にしようぜ」

 時夜がへらりと笑う。緩い笑顔につられたように、さっきまで焦りと苛立ちを露にしていた美沙も微笑む。圭吾と和樹も「腹減ったな」とか「朝食まで用意してもらえるなんてありがないね」と呑気に話しながら階段を降りていく。
 八重子だけが、薄暗い顔でぼんやりとしていた。

だが、みんなが階段を下りていくのを見て、彼女もパタパタと急ぎ足でついてきた。

 なんだか妙な気分だ。さっきまで朱里がいなくなり、みんなで焦って彼女を探し回っていたというのに、朝食に呼ばれたからといって呑気にぞろぞろと食堂に向かう。

礼子があまりにも上品で温厚そうな顔をしているから、つられてしまったのだろうか。確かに緊張は長くは続かないというが。

もともとここに集められた連中はみんな楽天家なのかもしれない。

時夜は確かに普段からかなり楽天的に物事を考える。そのせいで提出物はいつも締め切り寸前。単位を落としさえしなければいいと考えていて成績表はぎりぎり合格ラインの可が目立つ。

 圭吾だってスポーツマンの割には闘争心が薄くて事なかれ主義だ。和樹は自信過剰で自分には悪いことや不幸なことは起きないと思っている。

 女子三人の性格はよく知らないが、朱里も美沙も自分に絶対的な自信を持っているタイプだ。

和樹と同じように自分がいつでも幸福で幸運あることを疑わない節がなくはない。八重子だけは慎重派に見えるけど、結局は周りに流されるタイプだ。

 最後の晩餐という印象がある食堂と美沙が称した赤い絨毯が敷かれ、長机が置かれたダイニングルーム。は

じめは美沙の喩えを大げさだなんて思っていたけど、今の晋には本当にそう見えてきてぞっとしない。考えすぎなのだろうか。


 テーブルに並んだ朝食を見て疑心暗鬼に駆られる。この屋敷は、もっと言えばこの屋敷の主の礼子はなんだか怪しい。

 疑り深いのがお前の悪い癖だと前に圭吾に言われた。反対に、時夜には疑いを持つことはいいことだと褒められた。どちらが正しいのだろうか。

 朝食は七人分用意してあった。ゲストである自分たちの分だけなら数はあっているけど、家主の礼子も席についていて、その前にはちゃんと朝食が並んでいる。そうなると、一人分朝食が足りないのだ。

人数を数え間違えたのか、それとも朱里がいなくなったことを話していないのに礼子はそのことを知っているのか。

後者ならば、礼子が朱里の失踪に関わっている可能性が高い。
だが仮にもし礼子が朱里をどこかに隠したとして、それなら犯人として疑われないように、敢えて朝食を用意するのではないのか。

わからない、一人分賭けた食事は何を意味しているのだろうか。

 晋は突っ立ったまま他のメンバーの顔を見回した。注意力が足りないのか、無頓着なのか、自分以外は誰もそのことに疑問を抱いていないようだ。

各々好きな席に座っている。朱里を案じていた美沙さえも平然とした顔で席に着いていた。

 みんな能天気すぎやしないか。晋は半ば呆れ顔でぼんやりと立ち尽くしていた。そのことに気付いた礼子が首をかしげる。

「どうかなさいましたか?お座りになってください」
「あの、失礼ですが、一人分足りないように思うのですが」
「まあ、そんなことはないですよ。みなさん、六人でしょう?」

 怒ったふうも驚いたふうもなく、ただただ嫋やかに礼子が微笑む。どういう意図の言葉か測りかねたが、晋はストレートに攻めることにした。

「俺達は七人でこの屋敷に泊まりました。あと一人、佐藤朱里という女性がいたはずです。つまり、礼子さんをいれて八人分の朝食が必要なはずだと思うのですが。じつは、朝から佐藤がいなくて、貴方に呼ばれる前までみんなで屋敷中探していました」

「まあ、わたくしとしたことが。朱里さんは朝早くに起きてきて、森に行ってみたいと屋敷からでかけられましたわ。朝食は先にお食べになったのよ」

「なあんだぁ、朱里ったら一人ででかけちゃっただけだったんだね。よかったー、いなくなっちゃったってアタシたち心配してたの」

「本当、ほっとしたよな。屋敷のどこを探しても見つからないから、消えちまったのかと思っていたんだ」

 礼子の言葉を美沙と圭吾が真っ先にすんなりと受け入れ、ほっとした顔をする。

「まったく、朱里さんにはミステリアスなところがあるとは思っていたけれど、まさかこれほどとはね。何も言わずに出かけてしまうなんて、ひょっとして僕らをからかおうとしているのではないかな?案外、噂の角がある牛の面に白い蓬髪の化け物の格好で、いきなり僕らの前に現れるかもしれないね」

「ありそうだね。朱里、ホラー好きだもん」

「そうだろう、朱里さんならちょっとしたジョークをやりそうだろう」

 美沙に同調してもらえて、和樹が嬉しそうに口元を緩める。

「それじゃあ佐藤に驚かされないように、今から注意しないとな。なあ、時夜」

「そーだな。でも、バケモンの格好ででてきたらそれが朱里ちゃんだと分かってても驚いちまうかもしんねーな。みんな、腰抜かして朱里ちゃんに笑われないように気をつけろよ。チキン野郎認定されちまうぞ。特に、一条。オマエちょービビリだからな」

「失礼なことを言わないでくれたまえ、時夜くん。君こそ、大きな図体をして臆病のもじゃないか」

「はっ、言ってろタコ。テメーよりはマシだっつーの」

「まあまあ、喧嘩はやめておけよ椿木。一条は頭脳派、椿木は肉体派だから組めば最強コンビになるだろう。何かあった時は、二人とも頼りにしているぞ」

「やめろよ圭吾。オレはこんな口ばっかのチキンひ弱野郎とコンビになんてなりたくねーよ。チビでも頭もよくて運動神経抜群の晋とコンビだからな」

「はははっ、椿木と月島は喧嘩ばっかしてるけど仲がいいよな。たしかにすでにコンビだよな、お前ら。男版の海野と佐藤って感じだな」

「えーっ、なんかそれってステキだね。それじゃあこの島から帰ったら、アタシと朱里、晋くんと時夜くんでダブルデートでもしよっか」

「おお、いーなー。それ。なあ、晋」

 満面の笑みでこちらを見る時夜に、晋は返事ができなかった。

みんな朱里は一人で森に出かけたことで納得しているけど、本当にそうなのだろうか。
自分にはそう思えない。朱里が無事に帰ってくるという確証はない。

思えば、朱里は昨夜トランプをしていた時から様子が少し可笑しかった。妙にソワソワしていたり、いつもよりはしゃいだりしていたように思う。晋にはそれが、彼女が何かに怯えているように見えた。

みんなすっかり朱里がいないということを気に留めていないが、この話題はそんなにすっぱり終わっていい物なのだろうか。

「俺達、さっきまでかなり屋敷の中で騒がしく佐藤を探し回っていましたが、礼子さんはその物音は聞こえませんでしたか?」

 礼子を疑っているわけではない。だけど、不可解な点はあるので、そこらへんははっきりしておきたい。失礼を承知で晋は礼子に尋ねた。

「ええ、聞こえませんでしたわ。なにぶん、この屋敷は広いし、防音効果のある壁ですので、なかなか他の部屋の音は聞こえてきません。それに、台所で冷や水を使っていましたので。ごめんなさいね」

 晋の無礼な言葉に対して、礼子は真摯に答えて申し訳なさそうに眉根を寄せる。これ以上礼子を疑うのは、あまりにも失礼だ。

晋は腑に落ちないものを感じてはいたが、礼子に小さく頭を下げた。

「いえ。礼子さんは悪くありません。みんなに黙って一人で出かけた朱里が悪いので。朝食、用意して頂いてありがとうございます。いただきます」

 まだ湯気がのぼっている味噌汁に口をつける。一口飲むと、熱さで体が温まった。
この屋敷は空調が効いているからか、もともとこの島の気温が低いからなのか、夏だというのに冷える。熱い味噌汁がちょうどいい。

 今も肌に触れる空気はひんやりとしている。それにしては食事が温かい。

味噌汁だけじゃない。卵焼きも、焼き鮭もやはり湯気がのぼっている。味噌汁なら朱里に出したあとでもう一度温め直したのだと考えられるが、卵焼きや焼き鮭までわざわざ温めて出すだろうか。
七人分となれば、温め直すのが面倒ではないか。

ここはホテルじゃない、一個人の家だ。
自分たちは一応客人といっても無賃宿泊のただの学生だ。礼子の知り合いですらない。
それなのに、熱々の食事を出す必要があるのだろうか。

礼子によほどサービス精神が高いのか、それとも何か別の理由があるのか。

 じつは最初から朱里の分は用意していなかった。そんな風に思うのはとても失礼なのだろうが、そう思えて仕方がない。

礼子は自分達が朱里を探している間食事を作っていて、できあがったから自分たちを呼んだ。それなら、まだ食事が温かいのも納得だ。

だとしたら、森に出かけたという朱里の分の朝食はどうしたのだろう。朱里が森に行く前に彼女の分だけ準備をして食べさせたのだろうか。そんな手間、わざわざかけるだろうか。

 礼子が自分たちが朱里を探していたことに気付かなかったというのもやっぱり妙だ。

自分と八重子は二階ばかり探していて一階には足を向けなかったが、圭吾と和樹のペアか、美沙と時夜のペアのどちからが一階を探していたのなら、ダイニングも訪れていてキッチンで料理中の礼子と遭遇していても可笑しくないのだが。
誰もダイニングを探さなかったのだろうか。

 いろいろ腑に落ちない点はあったが、晋は考えるのをやめた。
こんなにも疑り深いのは自分だけで、圭吾の言う通りあまり人を疑いすぎるのはよくないと思ったからだ。

礼子が朱里を襲う理由がない。メリットもない。いくら無人島に一人で住む奇人だからといって、礼子を疑うのはやっぱり失礼だ。

 温かくて美味しい食事を食べているうちに、疑念は薄らいでいった。食欲が満たされると幸福感で思考が鈍くなるというのは本当らしい。

 さっきまであれだけ色々と考えていたのに、すっかり思考が止まった。大丈夫だ、朱里は森に行っただけだ。食事を食べたら探しにいけばいい。

 みんなの楽天思考がうつったようで、晋もその考えに傾いた。


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