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第三章
その五
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「いやあぁぁぁぁっ!!!」
自分の叫び声で美沙ははっと目を覚ました。開いた目に映ったのは、豪華なシャンデリアがぶら下がった天井。そして、心配そうにこちらを覗き込む優しい瞳。
「大丈夫ですわ、美沙さん。落ち着いてちょうだい」
美沙はしばらく叫んでいたが、たおやかな声で大丈夫だと言われてはっと我に返った。肩を包み込む優しい礼子の手。穏やかな微笑。安全であることを悟って、急激に気分が落ち着いていく。
「あ、あれ?あの、ここはお屋敷ですか?」
「ええ、そうですわ。大丈夫かしら?怪我はしていないようだけれど」
「あ、あのっ、アタシ、牛の面の化け物に襲われて森でみんなとはぐれてっ、走っていて洞窟みたいなとこに逃げ込んだんです。そ、そこに白骨がいっぱい落ちていて」
「まあまあ、怖い夢でも見たのね。これを飲んで落ち着いてくださいな」
暖かいココアを渡される。全身が冷えていたせいか、夏だというのに甘くて暖かいココアがすごくおいしい。
「あの、アタシ暗闇で角の生えたあの牛の面の男に襲われたはずなんです。なのに、どうして?」
「角の生えた牛のお面の男なんて、怖いですわね。でも、そんなものはいませんでしたわ。あなたを見つけたのは森の中よ。キノコを採取していたら、偶然あなたが真っ青な顔で倒れているのを見てしまって。雨で全身が濡れていたから、慌てて屋敷に運び込んで毛布に包んだんですけど、寒くないかしら」
「あ、はい。ぜんぜん寒くないです。アタシ、森で倒れていたんですか?」
「そうですわ。洞窟なんて、この島にはないと思うのですが?」
「う、ウソ。確かにアタシ、洞窟みたいな通路みたいな場所を見つけて逃げ込んだのに。あっ、そういえば晋くんたちは?あの。晋くんや時夜くん、圭吾くんはどこ!?」
「みなさん、もう戻ってきていますわ。呼んできましょう」
礼子が立ち上がってリビングを出て行く。美沙はソファに急激な疲労感に襲われて身体をぐったりとソファに横たえた。
もしかして、アタシは倒れて夢をみていたの?だとしたら、どこからどこまでが夢?
気持ちがわるい咀嚼音と血の臭いがして、朱里かもしれないって探しに行ったところはきっと現実だ。
そのあと、薄情者の八重子や和樹くんと合流しようって圭吾くんが言って、戻ったんだっけ。
違う、晋くんや時夜くんの意見で雨が降りそうだし、二人は放っておいて朱里を探そうってことになったんだ。
その時、足音が近づいてきて、あの牛の面の男が現れて。
それから恐怖でまっさきに逃げ出したところまでははっきりと覚えている。でも、そこから先はちょっと曖昧だ。アタシはもしかすると、走っている途中であまりの恐怖に気を失って、変な夢を見ていたのだろうか。
「美沙ちゃん。心配したぜ、大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。それより、時夜くんこそ大丈夫?」
「おう、オレはこの通りピンピンしてるぜ。晋も圭吾もな」
時夜が親指で後ろに立っている晋と圭吾を指差す。二人とも怪我をしている様子はない。美沙はホッとした。
「ごめんね、アタシ、さっき一人で先に逃げちゃった。みんな、怒ってるよね?」
「怒ってるわけねーじゃん。オレの方こそ、美沙ちゃんのこと守ってやれなくてごめんな。恐い思いさせちまった」
「そんなの、時夜くんのせいじゃないよ。なんだったの、あの化け物。アタシ、怖い。ここに居れば安全だよね?」
「そりゃ家の中までこねーだろーから、安全に決まってんだろ。なあ、晋」
「それはどうだろうな。安全とは言い切れない。猪や熊ならともかく、相手は牛の面をしていたけど人間だった。言葉も喋っていたし、知能がないわけではなさそうだと俺は思っている」
「や、やだ。恐いこと言わないで、晋くん」
「悪い。でも、楽観視はよくない」
晋が薄暗い顔で言うと、リビングに笑い声が響いた。
高らかな声で笑ったのは、書物を手にソファにふんぞり返っていた和樹だ。
「はははっ、晋くんが臆病風に吹かれるところを見られるなんて、旅行にきたかいがあったね」
馬鹿にするような目で和樹が晋を見る。晋は聞こえないとばかりに無視していたが、美沙は自分たちを放って先に屋敷に帰って安全に過ごしていたくせに、朱里を探していて危険な目に遭った晋を嘲笑う和樹が許せなかった。ぎろりと和樹を睨みつける。
「ちょっと、笑わないでよ!」
美沙が叱り飛ばすと、和樹は面食らった顔になった。
「驚いた、どうして美沙さんが怒るんだい?僕が笑ったのは晋くんだよ。彼と来たら、森で牛の面を被った白髪の蓬髪の化け物を見たなんて大法螺を吹いていたんだよ。それも、時夜くんや圭吾くんまで一緒になってね」
「本当にいたんだもん!アタシも見たんだよ、嘘じゃないよ!それとも、和樹くんが化け物に変装してアタシたちを驚かせたとてでもいうの?」
「い、いや、僕はそんな趣味の悪い事はしていないよ」
「そもそも、和樹くんったら八重子といっしょに音の正体を探りに行ったアタシたちを放って、森から先に屋敷に帰っちゃったくせに。化け物を目にしていないから、呑気に笑っていられるのよ。八重子もさいていっ!アタシと朱里が危険な目に遭っているかもしれないのに、怖いからって見捨てていくなんて!それで本当に友達なのっ?」
和樹から少し離れた場所に腰を下ろしていた八重子が、いきなり水を向けられてびくりと竦みあがった。分厚い眼鏡のレンズの向こうから、オドオドした顔でこちらを見る。
猫に睨まれた鼠のような表情。まるで、昔の自分みたいだ。そう思ったら、余計に腹が立ってきた。
美沙は毛布を跳ねのけて立ち上がると、八重子に掴みかかった。
「なんなの、八重子!自分ばっかりがかわいくって、アタシと朱里を利用することしか考えてないんでしょ?」
「それは、そっちの方でしょ。わたしは単なる二人の引き立て役。利用されているのはわたしの方なのに」
ぼそりと呟くように八重子が言った。美沙は思わず手を振りかぶる。厚かましい横っ面を叩いてやろうとしたが、晋に止められた。
「よせ、海野。いがみあっていてもしょうがないだろう」
「それはそうだけど、ムカつくんだもん!アタシたちが化け物に追っかけられていたあいだに、八重子は和樹くんとこの屋敷に帰って、のんびりしてたんだよ?ゆるせないっ」
「腹を立ててもしょうがないだろう。他人は他人、自分は自分なんだ。助けなんて、期待しない方がいい」
「晋くん―…」
「それより今は、これからどうすべきか考えるべきだろう。佐藤は見つかっていない。屋敷の外の森には危険かもしれない牛の面の男がうろついているんだ」
「まあ、牛の面の男?なんですか、それは?」
人数分の紅茶を持ってきた礼子が不思議そうに首を捻る。
「聞いてくださいよ礼子さん。晋くんたちはね、森でそれは恐ろしい牛の面を被った化け物のような男を見たというんですよ。どう思いますか?」
呆れと嘲笑を含んだ顔で、和樹が大袈裟に肩を竦めて見せる。
「それが本当でしたら、とても恐ろしいですわね。でも、安心なさって。この島にはあなた方とわたくししかいませんわ」
紅茶を一人一人に手渡しながら、礼子が上品で温和な笑みを浮かべて言う。笑顔の礼子から温かい紅茶のカップを受け取ると、美沙はさっきまであらぶっていた心が急速に静まるのを感じた。
「この島は完全な無人島ですわ。侵入者がやってくるなんて、考えられません。あなた達以外は誰もここにはいないのよ」
「しかし、実際俺達は森で化け物を見ました。白昼夢なんかじゃない、確かにこの目で見ました」
はっきりとそう告げた晋に礼子が体を寄せる。サラサラした黒髪に礼子が顔を近づけた。それから深く息を吸って、片眉を困ったようにさげる。
「あなたがた、森を歩き回っていて幻覚を見たのかもしれませんわ」
「どういうことですか?」
「晋さん、あなたからこの島に生えている幻覚作用のあるキダマシソウの匂いがします。お香のような甘いかおりですよ、ほら、嗅いでごらんなさい」
晋の髪を礼子が指さすと、時夜が真っ先に身を乗り出して晋の髪に顔を近づけた。時夜はスンスンと鼻を動かすと、片眉を吊り上げる。
「うおっ、マジで晋の髪から甘ったりぃ匂いがしやがる。これがその、キダマシソウとかいう花の匂いなんすか?」
「ええ、そうですわ。夏から秋にかけて群生す草花でね、薄紅色に黒い斑模様のある花なんですよ。咲いていませんでしたか?」
「そう言われてみれば、確かにそんな花が咲いていた気がするぞ。俺、見たことのない花だったから、なんの花が咲いてんだろうって疑問に思ったんだ。月島や椿木は見なかったか?」
「圭吾、呑気に野草観察しながらあるいていたのかよ。オレは気ぃつかなかったわ。晋や美沙ちゃんはどうだ?」
「アタシ、まったく気が付かなかったよ。朱里のことが気になっていて、お花なんて見てる余裕なかったもん」
「俺も足元は見ていなかった。礼子さん、その花の匂いを嗅ぐと幻覚を見るのですか?」
「ええ、そうなのよ。毒はないのだけど困りものでね。緊張状態にあったり、疲れていたりするとトリップしやすいんですよ」
「じゃ、じゃあ、斧を持った牛の面をした化け物は幻覚ってこと?」
「ええ、きっとそうですわ。だって、そんなモノがいたらわたくしなんて、とっくに殺されてしまっているわ。女の一人暮らしですもの。玄関に鍵もかけずにすごしているくらいなんですよ」
礼子の言葉に美沙は緊張していた体からふっと力が抜けていくのを感じた。
「な、なんだぁー、よかった。化け物なんていないのね。ほんと、怖かったぁ。よかったね、晋くん、時夜くん、圭吾くん」
「おう、ホントによかったな。美沙ちゃん」
「俺も安心したよ」
時夜と圭吾が安堵の表情を浮かべて、紅茶を飲みはじめる。しかし、晋だけは難しい顔のまま黙り込んでいた。美沙はそんな晋の顔が冷たく見えて怖かった。
晋はかなりの美男子だけど、クールすぎてときどき怖い。何を考えているのかわからない、あの澄んだ目がとても怖いのだ。
「俺にはあの牛の面の男が幻だったとは思えない。あの声が耳の奥に刻みついている。それに、あの恐ろしい金色の瞳も」
「よほど恐ろしい幻覚をご覧になったのね。かわいそうに、同情しますわ。でもご安心なさって。化け物なんて、この島にはいませんから」
「ですが、確かに頭に角の生えた男がいたんです」
「鹿か何かが幻覚で人間に見えたのかもしれませんわ」
「いや、そんな感じではなかった」
食い下がる晋に、礼子がほんの少しだけ困った顔になる。
「そこまでおっしゃるなら、わたくしが森を見回ってきますわ。ちょうど夕飯に使う木の実をとりに行きたいと思っていたんです。化け物が入ってくるかもしれないとご心配でしたら、わたくし、鍵をかけて出かけますわ。戸締りもなさってください。この家はね、鍵がとても頑丈なんですよ」
礼子の言葉に晋は唇を引き結んで黙っていた。美沙にはそれがほんの少しだけ不愉快だった。
この島に住んでいる礼子が化け物なんていないと言っているのに、晋はどうして引き下がろうとしないのだろう。化け物の話なんてこれ以上しないでほしい。
察しのいい晋ならみんなが怖がっていることに気付いて、いつもならこの辺りで自分の意見を取り下げてくれるのに、今日はどうしてしまったというのだろうか。
「ああそうそう、出かける前に朱里さんからの伝言を伝えますわ。朱里さん、みなさんが森に出掛けて行ったあとに帰っていらっしゃったのよ。それで、面白いものを見つけたとおっしゃっていたわ。また後でみなさんに見せるから、心配せずに待っていて欲しいそうですわよ」
「えっ、朱里、ちゃんと帰ってきたんですか?」
「ええ、元気そうだったから安心して下さいね。また出かけてしまったけど、なんでもみんなに秘密で進めたい調べ物があるそうですよ。どんな発見か楽しみですね。それでは、わたくしは行って来ますわ」
礼子が手を振って出掛けていった。
「朱里も無事だったんだ。じゃあ、発見ってなんだろう、すごく楽しみだね。朱里も無事とわかったし、もう今日は屋敷でゆっくりしようよ。アタシ、疲れちゃった」
「オレも美沙ちゃんに賛成。歩き回ったからな、すっかりクタクタだわ」
「佐藤のことは、探さないのか?礼子さんが言った通り、本当に無事だと思うのか?」
真剣な顔で晋が問いかける。それに対して、和樹が鼻で笑った。
「晋くん、君が陰険で嫌な奴だとは知っていたけど、まさか、屋敷に泊めてごちそうまでしてくれた礼子さんを疑っているのかい?」
「いや、そういう訳じゃないが。なんで佐藤は昨夜から姿を見せないんだ?なんだかおかしいと思わないか?それに、俺はまだ幻覚を見たことを認めていない」
「頑固な男だね、晋くんは。みんな、晋くんなんて放っておいて屋敷で休もうじゃないか。朱里さんの無事も確認したしね」
「俺も一条の意見に賛成だ。体力馬鹿の椿木が疲れるぐらいだし、俺も疲れたな。休もうぜ、月島」
「そうだぜ晋。圭吾の言う通りだって。あんま考え過ぎてると倒れるぞ」
時夜と圭吾に説き伏せられて、ようやく晋は頭を盾に振った。
「わかった。休もう」
晋は紅茶を一気に飲み干すと、まっさきにリビングを後にした。時夜と圭吾が彼の後を追う。
「美沙さん、二人きりで次回の旅行についてゆっくり語り合わないかい?」
他の男子がいなくなった途端、和樹が肩を抱いてきた。馴れ馴れしい手に、美沙は密かにむっとする。
いくら断っても、彼はなかなか引き下がらない。遠回しに嫌味を言ってみても通じない。勉強ができても頭の回らない馬鹿な男だ。
おまけに自信家で嫌味。こんな奴と話していたら、森を散策するよりも疲れてしまう。
「ごめんなさい、アタシも疲れたから」
さり気なく肩に回された手を払いのけると、美沙もリビングを後にした。
風呂に入ってさっぱりすると、美沙は夕食までベッドで眠ることにした。ベッドに仰向けに寝て目を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。
みさ、ねえ、みさ。みさってば。
誰かがアタシを呼ぶ声が聞こえる。この声は朱里。やっぱり朱里は礼子さんの言った通り無事だったんだ。
目を開けなくてはと思うけど、疲れていて目が開かない。瞼が重いし、頭の芯もぼんやりとしている。
「ねえ、朱里どこにいるの?」
問いかけてみるが、返事はない。沈黙がかえってくるだけ。
「いないの、朱里?」
「いるわよ、美沙。私はこっち、こっちよ」
声に誘われるように体からスッと魂が抜けだす。ふわふわと屋敷の中を漂って、自分の魂は冷たい空気が漂ってくる地下に辿り着いた。
この屋敷、地下室もあったんだ。感心するよりも、何故だかゾッとした。この墓場みたいな冷たくて陰気な空気の所為かもしれない。
「朱里、ねえ、どこなの?」
「こっちよ、美沙、来て」
朱里の声はいつもと違ってはりがない。いつも凛とした声は薄暗く、なんとなく無感情で別人の声みたいだ。
「こっちよ、開けて」
銀色の大きな扉の前から朱里の声がする。なんの扉だろう。不思議に思いながらも、美沙は銀色の扉の取っ手に手をかけた。握った取っ手はびっくりするくらい冷たい。
「おもいっ、よいしょっと」
後ろに体重をかけて扉を開いた。あまりにも固い扉だったので、開けた反動で美沙は尻もちをついてしまった。
開いた扉から玉手箱を連想させるモウモウとした白い煙が這い出てきた。とても冷たい煙。これは冷気だ。
白くて冷たい霧が視界を埋め尽くする。それが晴れると、扉の向こうにあるものがおぼろげに見えてきた。
「あ…か、り―…?」
美沙の唇が戦慄く。寒さのせいもあったがそれだけではない。扉の向こうに、無数の肉体が吊るされていたからだ。
バラバラにした芋虫のような胴体だけの体。手足はあるけど頭から上がない体。肩から堂にかけて袈裟懸けに抉られて赤黒い断面や白い骨が見えている体。どれもこれも動物の肉体じゃない、人間の肉体ばかりだ。
その中に、美しいままの裸体が吊るされていた。逆さ吊りになって長い髪が地面でとぐろを巻いている。きつく閉じた瞳、一本の線のような美しい眉。スッと通った鼻筋。紫の唇だけが異質だけど、分かる。これは朱里だ。
閉じていた朱里の目がカッと大きく見開く。瞳孔が開ききった瞳は真っ黒で、昆虫の目を連想させて酷く恐ろしかった。
冷たく死を宣告された瞬間、美沙は気を失った。
はっと目を開けると、昨晩泊った洋室のピンクの小花模様の壁紙が貼られた天井が見えた。
美沙は自分の喉元に触れた。汗がびっしょり手のひらにつく。手の甲を額にあてると、額にも汗が浮かんでいた。
「な、なんなの?さっきの。夢だよね?」
ちらりと時計に目を遣ると、午後三時を過ぎていた。晋達と別れて部屋きてからもう二時間が経っている。どうやら、恐ろしい夢を見ただけのようだ。
「やだ、気持ち悪い夢だったな。もう、ホントさいてい」
溜息を吐きながら起き上る。すると、部屋のドアノブがガチャリと揺れた。
「誰?朱里なの?」
声を掛けるが返事はない。鍵をかけていないドアが少しだけ開いた。三センチほどの闇から、ふっと何か光るものが見えた。
美沙は首を傾げ、ベッドから降りる。ドアに近付いていくと、あの恐ろしい牛の面から覗いていたのと同じ、金色の瞳が見えた。
「いやぁぁっ、やめてっ、こないでっ!」
美沙は叫びながらドアを閉める。すぐに部屋の鍵をかけた。すると、ドアノブが激しくガチャガチャと揺れはじめた。ドアの外にいる金色の目の誰かが、ドアを無理やり開けようとしているらしい。
もしもドアが開いたら、今度こそアタシは殺されてしまう。
強い恐怖で、全身から一気に汗が噴き出した。腰が抜けてしまったので這いつくばってベッドに戻ると、美沙は頭から布団をかぶって蹲った。
ドアノブを激しく揺すぶる音はいつまでもやまない。執拗にそとの人物はこの部屋に入ってこようとしている。
「みぃぃぃぃ、さぁぁぁっっ、みっ、さぁっちゃぁぁぁ」
まるで、アタシの名前を呼んでいるような呻き声だ。いやだ、怖い。
どうか、入ってこないでください。あの化け物をアタシの部屋にいれないで。心の中で美沙は神に祈った。そうしているうちに、また気が遠くなって目の前が闇に染まった。
自分の叫び声で美沙ははっと目を覚ました。開いた目に映ったのは、豪華なシャンデリアがぶら下がった天井。そして、心配そうにこちらを覗き込む優しい瞳。
「大丈夫ですわ、美沙さん。落ち着いてちょうだい」
美沙はしばらく叫んでいたが、たおやかな声で大丈夫だと言われてはっと我に返った。肩を包み込む優しい礼子の手。穏やかな微笑。安全であることを悟って、急激に気分が落ち着いていく。
「あ、あれ?あの、ここはお屋敷ですか?」
「ええ、そうですわ。大丈夫かしら?怪我はしていないようだけれど」
「あ、あのっ、アタシ、牛の面の化け物に襲われて森でみんなとはぐれてっ、走っていて洞窟みたいなとこに逃げ込んだんです。そ、そこに白骨がいっぱい落ちていて」
「まあまあ、怖い夢でも見たのね。これを飲んで落ち着いてくださいな」
暖かいココアを渡される。全身が冷えていたせいか、夏だというのに甘くて暖かいココアがすごくおいしい。
「あの、アタシ暗闇で角の生えたあの牛の面の男に襲われたはずなんです。なのに、どうして?」
「角の生えた牛のお面の男なんて、怖いですわね。でも、そんなものはいませんでしたわ。あなたを見つけたのは森の中よ。キノコを採取していたら、偶然あなたが真っ青な顔で倒れているのを見てしまって。雨で全身が濡れていたから、慌てて屋敷に運び込んで毛布に包んだんですけど、寒くないかしら」
「あ、はい。ぜんぜん寒くないです。アタシ、森で倒れていたんですか?」
「そうですわ。洞窟なんて、この島にはないと思うのですが?」
「う、ウソ。確かにアタシ、洞窟みたいな通路みたいな場所を見つけて逃げ込んだのに。あっ、そういえば晋くんたちは?あの。晋くんや時夜くん、圭吾くんはどこ!?」
「みなさん、もう戻ってきていますわ。呼んできましょう」
礼子が立ち上がってリビングを出て行く。美沙はソファに急激な疲労感に襲われて身体をぐったりとソファに横たえた。
もしかして、アタシは倒れて夢をみていたの?だとしたら、どこからどこまでが夢?
気持ちがわるい咀嚼音と血の臭いがして、朱里かもしれないって探しに行ったところはきっと現実だ。
そのあと、薄情者の八重子や和樹くんと合流しようって圭吾くんが言って、戻ったんだっけ。
違う、晋くんや時夜くんの意見で雨が降りそうだし、二人は放っておいて朱里を探そうってことになったんだ。
その時、足音が近づいてきて、あの牛の面の男が現れて。
それから恐怖でまっさきに逃げ出したところまでははっきりと覚えている。でも、そこから先はちょっと曖昧だ。アタシはもしかすると、走っている途中であまりの恐怖に気を失って、変な夢を見ていたのだろうか。
「美沙ちゃん。心配したぜ、大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。それより、時夜くんこそ大丈夫?」
「おう、オレはこの通りピンピンしてるぜ。晋も圭吾もな」
時夜が親指で後ろに立っている晋と圭吾を指差す。二人とも怪我をしている様子はない。美沙はホッとした。
「ごめんね、アタシ、さっき一人で先に逃げちゃった。みんな、怒ってるよね?」
「怒ってるわけねーじゃん。オレの方こそ、美沙ちゃんのこと守ってやれなくてごめんな。恐い思いさせちまった」
「そんなの、時夜くんのせいじゃないよ。なんだったの、あの化け物。アタシ、怖い。ここに居れば安全だよね?」
「そりゃ家の中までこねーだろーから、安全に決まってんだろ。なあ、晋」
「それはどうだろうな。安全とは言い切れない。猪や熊ならともかく、相手は牛の面をしていたけど人間だった。言葉も喋っていたし、知能がないわけではなさそうだと俺は思っている」
「や、やだ。恐いこと言わないで、晋くん」
「悪い。でも、楽観視はよくない」
晋が薄暗い顔で言うと、リビングに笑い声が響いた。
高らかな声で笑ったのは、書物を手にソファにふんぞり返っていた和樹だ。
「はははっ、晋くんが臆病風に吹かれるところを見られるなんて、旅行にきたかいがあったね」
馬鹿にするような目で和樹が晋を見る。晋は聞こえないとばかりに無視していたが、美沙は自分たちを放って先に屋敷に帰って安全に過ごしていたくせに、朱里を探していて危険な目に遭った晋を嘲笑う和樹が許せなかった。ぎろりと和樹を睨みつける。
「ちょっと、笑わないでよ!」
美沙が叱り飛ばすと、和樹は面食らった顔になった。
「驚いた、どうして美沙さんが怒るんだい?僕が笑ったのは晋くんだよ。彼と来たら、森で牛の面を被った白髪の蓬髪の化け物を見たなんて大法螺を吹いていたんだよ。それも、時夜くんや圭吾くんまで一緒になってね」
「本当にいたんだもん!アタシも見たんだよ、嘘じゃないよ!それとも、和樹くんが化け物に変装してアタシたちを驚かせたとてでもいうの?」
「い、いや、僕はそんな趣味の悪い事はしていないよ」
「そもそも、和樹くんったら八重子といっしょに音の正体を探りに行ったアタシたちを放って、森から先に屋敷に帰っちゃったくせに。化け物を目にしていないから、呑気に笑っていられるのよ。八重子もさいていっ!アタシと朱里が危険な目に遭っているかもしれないのに、怖いからって見捨てていくなんて!それで本当に友達なのっ?」
和樹から少し離れた場所に腰を下ろしていた八重子が、いきなり水を向けられてびくりと竦みあがった。分厚い眼鏡のレンズの向こうから、オドオドした顔でこちらを見る。
猫に睨まれた鼠のような表情。まるで、昔の自分みたいだ。そう思ったら、余計に腹が立ってきた。
美沙は毛布を跳ねのけて立ち上がると、八重子に掴みかかった。
「なんなの、八重子!自分ばっかりがかわいくって、アタシと朱里を利用することしか考えてないんでしょ?」
「それは、そっちの方でしょ。わたしは単なる二人の引き立て役。利用されているのはわたしの方なのに」
ぼそりと呟くように八重子が言った。美沙は思わず手を振りかぶる。厚かましい横っ面を叩いてやろうとしたが、晋に止められた。
「よせ、海野。いがみあっていてもしょうがないだろう」
「それはそうだけど、ムカつくんだもん!アタシたちが化け物に追っかけられていたあいだに、八重子は和樹くんとこの屋敷に帰って、のんびりしてたんだよ?ゆるせないっ」
「腹を立ててもしょうがないだろう。他人は他人、自分は自分なんだ。助けなんて、期待しない方がいい」
「晋くん―…」
「それより今は、これからどうすべきか考えるべきだろう。佐藤は見つかっていない。屋敷の外の森には危険かもしれない牛の面の男がうろついているんだ」
「まあ、牛の面の男?なんですか、それは?」
人数分の紅茶を持ってきた礼子が不思議そうに首を捻る。
「聞いてくださいよ礼子さん。晋くんたちはね、森でそれは恐ろしい牛の面を被った化け物のような男を見たというんですよ。どう思いますか?」
呆れと嘲笑を含んだ顔で、和樹が大袈裟に肩を竦めて見せる。
「それが本当でしたら、とても恐ろしいですわね。でも、安心なさって。この島にはあなた方とわたくししかいませんわ」
紅茶を一人一人に手渡しながら、礼子が上品で温和な笑みを浮かべて言う。笑顔の礼子から温かい紅茶のカップを受け取ると、美沙はさっきまであらぶっていた心が急速に静まるのを感じた。
「この島は完全な無人島ですわ。侵入者がやってくるなんて、考えられません。あなた達以外は誰もここにはいないのよ」
「しかし、実際俺達は森で化け物を見ました。白昼夢なんかじゃない、確かにこの目で見ました」
はっきりとそう告げた晋に礼子が体を寄せる。サラサラした黒髪に礼子が顔を近づけた。それから深く息を吸って、片眉を困ったようにさげる。
「あなたがた、森を歩き回っていて幻覚を見たのかもしれませんわ」
「どういうことですか?」
「晋さん、あなたからこの島に生えている幻覚作用のあるキダマシソウの匂いがします。お香のような甘いかおりですよ、ほら、嗅いでごらんなさい」
晋の髪を礼子が指さすと、時夜が真っ先に身を乗り出して晋の髪に顔を近づけた。時夜はスンスンと鼻を動かすと、片眉を吊り上げる。
「うおっ、マジで晋の髪から甘ったりぃ匂いがしやがる。これがその、キダマシソウとかいう花の匂いなんすか?」
「ええ、そうですわ。夏から秋にかけて群生す草花でね、薄紅色に黒い斑模様のある花なんですよ。咲いていませんでしたか?」
「そう言われてみれば、確かにそんな花が咲いていた気がするぞ。俺、見たことのない花だったから、なんの花が咲いてんだろうって疑問に思ったんだ。月島や椿木は見なかったか?」
「圭吾、呑気に野草観察しながらあるいていたのかよ。オレは気ぃつかなかったわ。晋や美沙ちゃんはどうだ?」
「アタシ、まったく気が付かなかったよ。朱里のことが気になっていて、お花なんて見てる余裕なかったもん」
「俺も足元は見ていなかった。礼子さん、その花の匂いを嗅ぐと幻覚を見るのですか?」
「ええ、そうなのよ。毒はないのだけど困りものでね。緊張状態にあったり、疲れていたりするとトリップしやすいんですよ」
「じゃ、じゃあ、斧を持った牛の面をした化け物は幻覚ってこと?」
「ええ、きっとそうですわ。だって、そんなモノがいたらわたくしなんて、とっくに殺されてしまっているわ。女の一人暮らしですもの。玄関に鍵もかけずにすごしているくらいなんですよ」
礼子の言葉に美沙は緊張していた体からふっと力が抜けていくのを感じた。
「な、なんだぁー、よかった。化け物なんていないのね。ほんと、怖かったぁ。よかったね、晋くん、時夜くん、圭吾くん」
「おう、ホントによかったな。美沙ちゃん」
「俺も安心したよ」
時夜と圭吾が安堵の表情を浮かべて、紅茶を飲みはじめる。しかし、晋だけは難しい顔のまま黙り込んでいた。美沙はそんな晋の顔が冷たく見えて怖かった。
晋はかなりの美男子だけど、クールすぎてときどき怖い。何を考えているのかわからない、あの澄んだ目がとても怖いのだ。
「俺にはあの牛の面の男が幻だったとは思えない。あの声が耳の奥に刻みついている。それに、あの恐ろしい金色の瞳も」
「よほど恐ろしい幻覚をご覧になったのね。かわいそうに、同情しますわ。でもご安心なさって。化け物なんて、この島にはいませんから」
「ですが、確かに頭に角の生えた男がいたんです」
「鹿か何かが幻覚で人間に見えたのかもしれませんわ」
「いや、そんな感じではなかった」
食い下がる晋に、礼子がほんの少しだけ困った顔になる。
「そこまでおっしゃるなら、わたくしが森を見回ってきますわ。ちょうど夕飯に使う木の実をとりに行きたいと思っていたんです。化け物が入ってくるかもしれないとご心配でしたら、わたくし、鍵をかけて出かけますわ。戸締りもなさってください。この家はね、鍵がとても頑丈なんですよ」
礼子の言葉に晋は唇を引き結んで黙っていた。美沙にはそれがほんの少しだけ不愉快だった。
この島に住んでいる礼子が化け物なんていないと言っているのに、晋はどうして引き下がろうとしないのだろう。化け物の話なんてこれ以上しないでほしい。
察しのいい晋ならみんなが怖がっていることに気付いて、いつもならこの辺りで自分の意見を取り下げてくれるのに、今日はどうしてしまったというのだろうか。
「ああそうそう、出かける前に朱里さんからの伝言を伝えますわ。朱里さん、みなさんが森に出掛けて行ったあとに帰っていらっしゃったのよ。それで、面白いものを見つけたとおっしゃっていたわ。また後でみなさんに見せるから、心配せずに待っていて欲しいそうですわよ」
「えっ、朱里、ちゃんと帰ってきたんですか?」
「ええ、元気そうだったから安心して下さいね。また出かけてしまったけど、なんでもみんなに秘密で進めたい調べ物があるそうですよ。どんな発見か楽しみですね。それでは、わたくしは行って来ますわ」
礼子が手を振って出掛けていった。
「朱里も無事だったんだ。じゃあ、発見ってなんだろう、すごく楽しみだね。朱里も無事とわかったし、もう今日は屋敷でゆっくりしようよ。アタシ、疲れちゃった」
「オレも美沙ちゃんに賛成。歩き回ったからな、すっかりクタクタだわ」
「佐藤のことは、探さないのか?礼子さんが言った通り、本当に無事だと思うのか?」
真剣な顔で晋が問いかける。それに対して、和樹が鼻で笑った。
「晋くん、君が陰険で嫌な奴だとは知っていたけど、まさか、屋敷に泊めてごちそうまでしてくれた礼子さんを疑っているのかい?」
「いや、そういう訳じゃないが。なんで佐藤は昨夜から姿を見せないんだ?なんだかおかしいと思わないか?それに、俺はまだ幻覚を見たことを認めていない」
「頑固な男だね、晋くんは。みんな、晋くんなんて放っておいて屋敷で休もうじゃないか。朱里さんの無事も確認したしね」
「俺も一条の意見に賛成だ。体力馬鹿の椿木が疲れるぐらいだし、俺も疲れたな。休もうぜ、月島」
「そうだぜ晋。圭吾の言う通りだって。あんま考え過ぎてると倒れるぞ」
時夜と圭吾に説き伏せられて、ようやく晋は頭を盾に振った。
「わかった。休もう」
晋は紅茶を一気に飲み干すと、まっさきにリビングを後にした。時夜と圭吾が彼の後を追う。
「美沙さん、二人きりで次回の旅行についてゆっくり語り合わないかい?」
他の男子がいなくなった途端、和樹が肩を抱いてきた。馴れ馴れしい手に、美沙は密かにむっとする。
いくら断っても、彼はなかなか引き下がらない。遠回しに嫌味を言ってみても通じない。勉強ができても頭の回らない馬鹿な男だ。
おまけに自信家で嫌味。こんな奴と話していたら、森を散策するよりも疲れてしまう。
「ごめんなさい、アタシも疲れたから」
さり気なく肩に回された手を払いのけると、美沙もリビングを後にした。
風呂に入ってさっぱりすると、美沙は夕食までベッドで眠ることにした。ベッドに仰向けに寝て目を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。
みさ、ねえ、みさ。みさってば。
誰かがアタシを呼ぶ声が聞こえる。この声は朱里。やっぱり朱里は礼子さんの言った通り無事だったんだ。
目を開けなくてはと思うけど、疲れていて目が開かない。瞼が重いし、頭の芯もぼんやりとしている。
「ねえ、朱里どこにいるの?」
問いかけてみるが、返事はない。沈黙がかえってくるだけ。
「いないの、朱里?」
「いるわよ、美沙。私はこっち、こっちよ」
声に誘われるように体からスッと魂が抜けだす。ふわふわと屋敷の中を漂って、自分の魂は冷たい空気が漂ってくる地下に辿り着いた。
この屋敷、地下室もあったんだ。感心するよりも、何故だかゾッとした。この墓場みたいな冷たくて陰気な空気の所為かもしれない。
「朱里、ねえ、どこなの?」
「こっちよ、美沙、来て」
朱里の声はいつもと違ってはりがない。いつも凛とした声は薄暗く、なんとなく無感情で別人の声みたいだ。
「こっちよ、開けて」
銀色の大きな扉の前から朱里の声がする。なんの扉だろう。不思議に思いながらも、美沙は銀色の扉の取っ手に手をかけた。握った取っ手はびっくりするくらい冷たい。
「おもいっ、よいしょっと」
後ろに体重をかけて扉を開いた。あまりにも固い扉だったので、開けた反動で美沙は尻もちをついてしまった。
開いた扉から玉手箱を連想させるモウモウとした白い煙が這い出てきた。とても冷たい煙。これは冷気だ。
白くて冷たい霧が視界を埋め尽くする。それが晴れると、扉の向こうにあるものがおぼろげに見えてきた。
「あ…か、り―…?」
美沙の唇が戦慄く。寒さのせいもあったがそれだけではない。扉の向こうに、無数の肉体が吊るされていたからだ。
バラバラにした芋虫のような胴体だけの体。手足はあるけど頭から上がない体。肩から堂にかけて袈裟懸けに抉られて赤黒い断面や白い骨が見えている体。どれもこれも動物の肉体じゃない、人間の肉体ばかりだ。
その中に、美しいままの裸体が吊るされていた。逆さ吊りになって長い髪が地面でとぐろを巻いている。きつく閉じた瞳、一本の線のような美しい眉。スッと通った鼻筋。紫の唇だけが異質だけど、分かる。これは朱里だ。
閉じていた朱里の目がカッと大きく見開く。瞳孔が開ききった瞳は真っ黒で、昆虫の目を連想させて酷く恐ろしかった。
冷たく死を宣告された瞬間、美沙は気を失った。
はっと目を開けると、昨晩泊った洋室のピンクの小花模様の壁紙が貼られた天井が見えた。
美沙は自分の喉元に触れた。汗がびっしょり手のひらにつく。手の甲を額にあてると、額にも汗が浮かんでいた。
「な、なんなの?さっきの。夢だよね?」
ちらりと時計に目を遣ると、午後三時を過ぎていた。晋達と別れて部屋きてからもう二時間が経っている。どうやら、恐ろしい夢を見ただけのようだ。
「やだ、気持ち悪い夢だったな。もう、ホントさいてい」
溜息を吐きながら起き上る。すると、部屋のドアノブがガチャリと揺れた。
「誰?朱里なの?」
声を掛けるが返事はない。鍵をかけていないドアが少しだけ開いた。三センチほどの闇から、ふっと何か光るものが見えた。
美沙は首を傾げ、ベッドから降りる。ドアに近付いていくと、あの恐ろしい牛の面から覗いていたのと同じ、金色の瞳が見えた。
「いやぁぁっ、やめてっ、こないでっ!」
美沙は叫びながらドアを閉める。すぐに部屋の鍵をかけた。すると、ドアノブが激しくガチャガチャと揺れはじめた。ドアの外にいる金色の目の誰かが、ドアを無理やり開けようとしているらしい。
もしもドアが開いたら、今度こそアタシは殺されてしまう。
強い恐怖で、全身から一気に汗が噴き出した。腰が抜けてしまったので這いつくばってベッドに戻ると、美沙は頭から布団をかぶって蹲った。
ドアノブを激しく揺すぶる音はいつまでもやまない。執拗にそとの人物はこの部屋に入ってこようとしている。
「みぃぃぃぃ、さぁぁぁっっ、みっ、さぁっちゃぁぁぁ」
まるで、アタシの名前を呼んでいるような呻き声だ。いやだ、怖い。
どうか、入ってこないでください。あの化け物をアタシの部屋にいれないで。心の中で美沙は神に祈った。そうしているうちに、また気が遠くなって目の前が闇に染まった。
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