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柏屋御試始末
闇の蠢動
しおりを挟む強烈、と言う言葉では追いつかない。
空中から放たれる打ち下ろしを前に、冬吉は裏拳を放つ姿勢から、腕を振り回すはずだった向きに体全体を捻り込んだ。
コマのように、と言うよりも竜巻のごとく、冬吉の身体は回る。
大上段からの攻撃であるので、虎之助の視界は開けている。
単に避けるだけでは、打ち込みの角度を変えるだけで、不完全にしろ当てられてしまう。
かする程度であったとしても、ただではすまない。
冬吉の体を捻る動作は、虎之助を幻惑した。
右か左か、どちらにかわすのか、予想がつかなかったのである。
どちらでもなかった。
冬吉は体を竜巻のごとく捻りながら、後ろに倒れ込んだ。
左肩を槍の柄がかすったが、衝撃は回転によって受け流される。
そのまま、腹ばいとなり、両手を地につけた。
回転は止まらない。
地を叩いたばかりの槍を握る虎之助の手の甲に、冬吉の右の踵が打ち付けられた。
さらに捻られ、左手だけが地に着いた状態で体は仰向けに近いところまで開き、右腕を振り回す力でさらに回転を加速する。
左足が虎之助の脇腹にめり込んだ。
日本の武術では、蹴り技が発達してこなかったと言われる。
古代においては、当麻蹴速と野見宿禰が捔力(相撲)で対戦し、激しく蹴り合って野見宿禰が勝利したとある。
当麻蹴速の名前も、蹴り技が得意であったことから付けられたとの説がある。
しかし、後の相撲は安全性を気にしたものとなり、蹴り技はおろか、拳を握って殴ることさえ禁止されていく。
戦場の戦闘術である柔術においても、足払いなど下半身への蹴りはあっても、上半身、特に顔面への、いわゆるハイキックはあまり見られない。
これは日本人の肉体的な特徴が問題だったのか、足蹴にすることは如何に敵に対してと言えども、礼に失すると考えたのか、皆目わからない。
冬吉は、合理的な男である。
足の方が手よりも長く、遠くに届く。
また、その力も遥かに強い。
素手で圧倒的に不利な相手と戦う時、これを使わない手はない。
まして、蹴りを使う者があまりいないのなら、意表をつくことになり、切り札となりうる。
虎之助の体は吹き飛ばされた。
数歩先で地に転がる。
その身体に冬吉が飛びかかった。
そこに転がる小男の身体は度を越して強靭であり、脇腹への一撃で戦闘不能となったとは確信できなかった。
抑え込んだところで、振りほどかれる可能性もある。
やはり、裏拳で顎を振り抜くか、怪我をさせることも承知で身体のどこかを空中から踏み抜く、あるいは、無防備に仰向けになっているので、顔面に拳を打ち下ろす。
ここまでやられたことを考えると、怪我の一つや二つ、躊躇するには及ばない。
とは言え、虎之助は柏屋の用心棒なのである。
そして、おそらくはそれ以外の重要な仕事をしているであろうと、冬吉は勘付いている。
柏屋が襲撃された日、虎之助はあの戦いを見ていたのだ。
そうでなければ、刺客の一方を防ぐ役目は虎之助が果たしていたはずである。
当時はそこまで考えは及ばなかったが、冬吉が柏屋の戦力となりうるかどうか、これを試していたのではないか。
そして、今日のこれもその一環であるに違いないのだ。
とは言え、ここまでやられたのだから、一発ぐらいはぶん殴りたいものだ。
冬吉の両足が虎之助の両の二の腕を踏みつけた。
強靭な筋肉の甲冑により、骨を折るには至らなかったようだが、虎之助の動きは封じられた。
冬吉は躊躇なく、右の拳を虎之助の顔面に向けて振り下ろす。
「そこまでっ! 勝負ありっ! そこまでです」
凛とした、しかし、少々しわがれた叫び声が、拳を鼻先三寸のところで止めた。
お詩乃は栗原周平を見失った。
『双刃・蟷螂・畳鎌』の受けとほぼ同時に行う攻撃がかわされただけでなく、こちらの視界から消えてしまったのである。
どこに、と考える暇はなかった。
周平は、逆袈裟の一撃が受け止められた瞬間、脇差を捨てた。
同時に倒れ込むように身を低くし、敵の女の腰あたりに肩からぶつかった。
現代のアマチュアレスリングで言えば、タックルによって相手を押し倒す攻撃である。
これを不意に食らってしまうと、よほど足腰が強くても、そうそう耐えられるものではない。
周平は二、三歩押し込んだのち、さらに身を屈めてと言うより腹這いに寝るようにして、両膝あたりで足を取り、体ごとそれを捻り込んだ。
立っていられるはずがない。
当然お詩乃は転倒する。
その上、さらに足を交差させ、体ごと捻る。
現代で言う関節技である。
周平の仕事は用心棒。
刺客は殺すことができなくとも、足を使えなくしてしまえば、それで十分であるのでこの狙いは正しい。
決まりかけたその時、周平は見てはいけないものを見てしまった。
江戸時代、当時の女性は現代のように下着を着けていない。
月に一度の女性特有の体調変化のある期間には、男性のような下帯、つまり褌をつけていたようだ。
だが、それ以外の時は基本的に、着物の下は何もつけていない。
今日のお詩乃は、いつもの御隠居風の男装ではない。
あの服装は、殺しを含む仕事をする際の、一種の戦装束である。
一応、お詩乃の意識としては、これは殺しではなく、栗原周平を試すためのものであるから、あのような格好を選ばなかったのだ。
色は地味ながら普通の女性の着物である。
よって、足などを掴まれて転ばされては、恥ずかしいところが露わになってしまう。
栗原周平がこの戦いで初めてしくじった。
それを見てしまった瞬間、わずかに腕の力抜けたのである。
転がりながら、足を捻られる最中、それを感じ取ったお詩乃は、自分の方から栗原と同じ方向に体を捻りつつ、拘束から抜け出した。
抜けた瞬間に思い切り顔面に蹴りを喰らわせる。
周平はすぐに気を取り直したが、その時には眼前に刃が差し向けられていた。
「今の所、不届き者に女がいたことはありませんが、今後はわかりませんので、以後はお気をつけられよ」
まじめ腐った言い方であるが、顔を僅かに赤らめ、片手で裾を直している。
お詩乃はもう三十前、この時代にあっては大年増もいいところなのだが、だからと言って、羞恥心はある。
歴戦の刺客ではあるので、戦いの最中にそれを気にして動きを鈍らせたりはしないのだが、後になれば恥ずかしくは思うのだ。
周平はこの時初めて、この女が刺客ではなく、自分を試す者であることを理解した。
今夜は試しであることは聞いていたが、戦いの間はそんなことを考える余裕もなかったのである。
「そ、それでは」
「ええ。これだけ真兎田の技を返せたのですから、柏屋の用心棒は務まりましょう」
喜ぶか、居住まいを正して礼を言うのかと思ったが、周平の反応は予想とは違った。
困惑した様子でキョトンとして疑問を述べる。
「しんとだ?」
「冬士……冬吉殿に聞いてないのですか?」
あれだけの技をかわして見せたのだ、知らないと言うことは考えられない。
「冬吉殿には、用心棒としての心得を教わりました。あとはこの数日、毎日稽古の相手を務めていただいたのみ。確かに、変わった技をお使いになるので、その返しについては、工夫を考えておりましたが」
冬吉は真兎田の技を稽古で使ってみせるだけで、栗原を育ててみせたのである。
栗原の剣客としての力も十分ではあったが、たった数日、技を使って稽古するだけで、真兎田と戦える剣士に仕立て上げたのは冬吉なのだ。
そして、真兎田流そのものについては、何も話していないのである。
「そうですか。柏屋ではこの技を使う者に襲われたことがあります。今後もあると思われますので、精進してください。暇がある時は私がお相手いたします」
冬吉は思慮深い。
おそらくは、栗原周平の試し役がお詩乃になることも読んでいた。
それだけでなく、真兎田の剣客に襲撃される恐れのある柏屋の用心棒には、それに対抗する力が必要であると考えたのであろう。
お詩乃は、冬吉の仕事を引き継ぐことを決意した。
もし、お詩乃が篠塚龍右衛門に同じように技を見せていれば、あるいは刺客の技に倒れることは無かったかもしれない。
自身が刺客であることで、技の開示という禁忌を犯す発想はなかった。
冬吉がそれを行った。
そうとなっては、今更隠したところで意味はないのだ。
冬吉が、自分以上に正しい判断をした。
それに気づいたのである。
「かたじけない。お役目、命をかけて全う致します」
こくり、とお詩乃は頷いたのち、風のようにその場から消えた。
周平は脇差を拾い、衣服を整えて元のように渡り廊下に座り、酒を舐める。
『冬吉殿へは、いずれ何かの形で恩を返さねば』
胸中で呟いた後は、静かに周囲を油断なく見回し、酒と肴、白湯を口にする。
ずっとこれを繰り返し、朝まで過ごすだけだった。
冬吉は、虎之助の顔面に向かって拳を突き出したままの姿勢で固まっていた。
相手は自分よりも小柄だが、その名の示す通り虎のようなものである。
注意を逸らすなど、できようはずもない。
下に突き出した右腕に対して、左腕は掌を開いたまま、肘を上げて肩口まで引き寄せている。
何か動きがあれば、右拳を引くと同時に全体重を乗せた左の掌底打ちが顔面を捉える。
右の拳は鼻を潰し、気を失わせる程度で加減するつもりだったが、左の掌底を使う場合は、殺すつもりの一撃となる。
掌底なら拳と違って、全力で打ってもこちらの手が壊れることはない。
鼻どころか、顔面を陥没させるだけの力を込めることができるのだ。
勝負を止めた人物が歩み寄ってきた。
足音も立てず、大股でも走っているわけでもないのに、気づいた時には傍にいた、というぐらいに速い。
その人物が、仰向けに倒れたままの虎之助の顔面を、思い切り踏みつける。
「この馬鹿者がっ! こんなことはお前の役目ではあるまいっ!!」
と、なじりながら、草履の履いた足で顔面をぐりぐりとやり、さらに足を上げて再び踏みつける。
「お前なんぞがこのお人を試すなど、傲慢不遜の極みじゃっ! 体ばかり鍛えておるから、頭の中まで筋張ってくるんじゃ! この破落戸めっ」
何度も顔面を踏みつける。
冬吉はすっかり気がそがれてしまい、虎之助の上から降り、少々苦笑いを浮かべた。
明らかにこの人物、老人は虎之助を庇うために、あえてこうしているのがわかる。
そして、この老人は冬吉の顔見知りでもあった。
「和尚さん、その辺にしておきましょうか」
善応和尚、戦いの場となったこの寺の住職である。
この寺には篠塚龍右衛門と、彼を殺した真兎田の刺客が葬られているのだ。
仏を運び出したのは、この善応と冬吉、他に寺男の三人である。
「冬吉さん、全く申し訳ない。愚息がご迷惑をおかけしました」
「えっ?」
確かに、よく見てみれば、顔にいくらか共通点がある。
善応和尚は細身で長身、年齢のせいもあるだろうが、鶴のように細く、しなやかな体つきをしている。
一方、虎之助は小柄だが筋骨逞しい。
着物の身につけ方で、それがわからぬようにし、少々臆病な頼りない感じを装ってはいるが、冬吉から見れば一目瞭然、なかなかの使い手だと戦わなくともわかっていた。
居酒屋草間を開く以前、柏屋で働いていた頃からである。
だが、特に鼻と口元は同じ形をしている。
言われてみれば親子としても違和感はない。
「ははは、私も昔はこの馬鹿と同じ仕事をしていたのですよ。仏の道に入る前はね。こやつもやっと安心して任せられるようになったかと思えば、これだもの」
むくり、と立ち上がってきた虎之助の頭を、ぱこんっと引っ叩く。
が、顔を踏みつけられたのも虎之助にとっては、大して痛くはなかったようである。
鍛え方も尋常ではないが、そもそも痛みに鈍いのかもしれない。
「先ほどの、槍を手で跳ね上げたのと、それがしを蹴り上げた技、真兎田の無刃の技にござるか?」
虎之助は父親を無視して、冬吉に問うた。
冬吉は小さく、ため息をついてから答えた。
「いえ。武士を捨てるにあたって、丸腰でも身を守るために私が工夫したものです。まだ、諸国を旅していた頃にですが」
冬吉は生国を出た後、武士を捨てるに至るまでには数年あった。
気楽に旅を楽しめたかと言えば、そうではない。
自ら身を守る必要があったので、刀を捨てるならそれに代わる技が必要であった。
町人なら脇差は持つことはできるが、いつでも身につけられるとは限らない。
ならば、無手の技を鍛えるというのが合理的だったのである。
ふむ、と頷いた虎之助は納得した様子であった。
「まずは冬吉さんに謝らんかっ!」
「失礼した」
父親の叱責に全く堪えた様子もなく、ぶっきらぼうに頭も下げずにそう言った。
善応は深いため息をついた後で、倅の背中を思い切り引っ叩いた。
「もういいっ! とっとと穴蔵に戻れっ」
虎之助は父には何も言い返すこともなく、挨拶もなしに柏屋へ向かって去っていった。
「さて、もう夜も深い。泊まっていきなされ」
「では、ご厄介になります」
冬吉は善応の言葉にすぐに同意した。
善応は冬吉に話したいことがあり、冬吉はそれが聞きたかった。
それは、必ずしも柏屋半左衛門の心に叶うことではなかったが、この先必要なことであったのだ。
結局、この翌日には半左衛門自身が草間を訪れ、栗原周平を柏屋の用心棒として、雇うことが決まったと知らされた。
たまたま居合わせた中村丹斎は、少々しかめつらしい顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
半左衛門は夕刻に現れ、多少は酒肴を口にしてから帰って行ったが、冬吉のある変化に気づいている。
同じことはお夏にも分かっていた。
奉公人の誰もがわかる変化であった。
板場のすぐ近くの壁に刀掛けがつけられ、仕事中は常にそこに愛用の脇差が置かれるようになった。
サラシに包まれた、何か細長い物を常に懐に入れて持ち歩いてもいる。
これが何かまでは、お夏にはわからない。
半左衛門と丹斎にはわかった。
畳針であろう。
素手でも十分に強い冬吉が、目立たないようにとは言え、常時武装をするようになった。
この意味がわかるのも半左衛門と丹斎だけである。
しかし、数日以内には、お夏も理解した。
いや、江戸中の人々が冬吉のことは知らなくても、その理由の方だけは知ることとなる。
「くそっ! なんてやつだ。思いつく限りの無法に非道。人のすることとは思えんっ!」
平蔵は青い顔をしている。
怒りに震える声に、珍しいことに僅かに恐れが含まれていた。
「武家屋敷狙いの赤首の勘兵衛一味がいなくなったというのに、今度は見境ない畜生働き……このような卑劣を行う奴らが現れるとは。お頭、これは一体何が起こっているのでしょうか」
目の前の惨殺された死体から顔を背けた。
長年、火頭改で探索方を務める与力、山根十内をして見るに忍びぬ惨状であった。
それほど大きくもない、ありふれた商家、干物問屋河内屋が凶賊に襲われた。
凶賊のすることであるから、家人に死人が出るのはいつものことである。
だが、これはただの盗人、凶賊の仕業とは思えない。
凶賊と言えども、その目的は金品を奪うことにある。
盗みの障害になるから殺す、ついでに殺しの愉悦を楽しむという輩もいる。
しかし、これは違う。
河内屋は大した儲けのある店ではない。
せいぜい小金持ちといった程度だ。
少なくとも大所帯で襲っては、割りに合わない。
家人も六人だけ。
店の主人に番頭が一人、小僧(丁稚)が二人に女中が二人。
その全員が殺されていた。
だが、それだけではない。
「見境ねぇ。こんな、年端も行かぬ娘に、老婆もなんてな」
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二人とも顎が外れており、口も下半身も血だらけであった。
「目的がこれだとしても、そうでないとしても、こいつは許されねぇ。誰が許しても俺が許さんっ!」
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