彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『下顎水平埋伏智歯抜歯 5顎目』 

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 名前が呼ばれて診察室へ行くと、

「ふむ。少し腫れてるね」

 顎のラインやリンパの辺りに指先で触れながら先生が言う。
 更に口を開くよう言われ、傷の治りをチェックされる。

「ふむ」

 特に何も言われず、何かを傷口に塗られ、

「薬はちゃんと飲んでる?抗生物質」
「はい」
「痛み止めは?」
「それも」
「うん。痛かったら無理しないで飲んでね。あと抗生物質は必ず全部飲み切ること」

 受付でも言われたことを再度言われ、

「まあ問題ないでしょう。じゃあ次抜糸ね。今日は終わりでいいです」

 あっさりと診察は終わった。10分もかかってない。本当に形だけだ。
 受付で支払いを済ませ、抜糸は四日後、抜いてからちょうど一週間後にした。


 それから。
 さてどうしようと亜衣は歯医者の前で途方に暮れる。
 まだ10時前なので店は開いてない。
 かといって歩いてどこかに行くのも体力を使うから嫌だが、そこまで考えて、

「あ」

 思い出した。
 今日は加入してるケータイ会社のサービスデーで、提携してるコンビニのアイスが一個無料で貰える日だった。

「っていうか、これ、で食べるのか」

 これで。この状態で。
 抜糸も済んでいない状態で。
 先週も貰ったが、貰えるアイスは一個200円するワッフルコーンアイス。
 だがワッフルコーンのカリカリが今は怖い。
 歯茎に刺さったらどうしよう。
 隙間に入りこんだら。
 そんなことを考える。
 だが無駄にはしたくない。

「んんんー…。ん?そうか!」

 答えはすぐに出た。
 カップアイスの方を貰えばいいのだ。
 貰えるアイスは二種類あった。
 カップは値段が少し安いので敬遠していたが、今はそれがありがたかった。
 一番近い、抜歯終わりに寄ったコンビニへ向かう。
 貰う手順が描かれたボードがアイス売り場に掲げられている。
 そしてそこに掲載されているカップアイスを手にレジへ。




 貰ってきたアイスを家に着くなり早速食べてみた。
 小さなカップのバニラアイス。
 高級だが量が少ない。
 
「んーっ」

 ものすごく美味しい、というわけではないが、ふつうに美味しい。
 冷たい甘さが憂鬱な口内を癒やしてくれる。

「うんうん」

 傷口に気を遣って、舌と上顎で押しつぶすように味わう。
 ゆっくり、いつもより時間を掛けて。
 成分表を見ると、卵と牛乳が入ってるから栄養価は高そうだ。
 傷の修復に一役買ってくれればいいのだが、と思いながら亜衣はゆっくりと無料アイスを平らげていった。


 午前中のおやつを食べ、昼食も相変わらずのパン粥。
 缶のトマトジュースがあったので今度はそれで煮てみた。
 そして気づく。

「あれ?」

 あまり痛くない。
 糸が引きつる鬱陶しさはあるのだが。
 うう、しくしくするなあ気になるなあという気持ちはあるのだが。
 あの、早く薬、薬という感じがない。
 薬を飲むための食事という感じがしない。
 例えるなら生理痛はあるにはあるが、薬を飲むほどではない、くらいか。
 痛みに強いというのはこれだろうかと考えるが、とりあえず散々言われた通り抗生物質はきちんと飲んだ。
 鎮痛剤は痛くなかったら飲まなくてもいい。
 そんなことがあるのか、むしろ足らなくなるのでは、と思ったが本当だった。
 手の中には一錠だけ残った痛み止め。

「ああ、でも夜中か」

 一瞬は楽観的に考えたが、そうだ、夜中が怖いのだと気づく。
 ならば取っておこう。
 明日からは仕事だ。
 また昼寝でもして、少しでも回復に向かおうと亜衣は横になった。



 翌朝。

「あれ?」

 亜衣は普通に起きた。
 いつもと同じ普通の寝覚め。
 一度も痛みで起きなかった。
 結局取っておいたあの一錠を使うことはなかった。


 そして予定通り仕事に復帰した。
 抗生物質はその日のうちに無くなった。
 さすがに外でパン粥は作れないので昼はサンドイッチにした。
 普段食べないコンビニのサンドイッチを食べる。
 それだけでも楽しかった。
 今日はこれを買ったから明日は隣りにあったあれにしよう。
 別のコンビニも気になるなあ。
 そんなことが楽しい。
 米や麺が食べれないが、普段食べないものを食べるのが楽しい。
 そろそろ普通食に戻しても大丈夫だとは思うのだが、まだ硬いものは避け、粒子が小さいものも避ける。
 飲み物も気を使う。
 しかしそんな縛り食事もなんだか楽しかった。
 これがだめならこっち。
 あれがだめだからそれを。
 抜け道を探して策を練る。
 どことなくゲーム性があった。
 短期間の非日常感を楽しんでいた。


 そして歯を抜いてから一週間後。

「はい。いいですよ」

 念願の抜糸。
 先生の声とともに、開かなかった口が一気に解放される。
 自由だと思えた。あんな一本の糸だけで。

「傷が塞がるのが大体半年くらいですかね。肉が盛り上がってきますから。それまでは気をつけてあげてください。ご飯粒とか」

 先生からあまりアドバイスにならないアドバイスを貰い、亜衣は晴れて自由の身となった。
 あの鬱陶しい疼きともオサラバだ。
 愛する人には今このタイミングであの言葉を言うしかないとも思った。
 だが、

「じゃ、反対側いつ抜きます?一番近いとですねえ、そうだなあ」

 カルテを見ながら、先生はそう仰られた。



「なに?」
「抜糸終わった」
「ああ、そうなんだ。おめでとう」
「それでさ」
「うん」
「一緒に、住まない?」
「えっ」

 電話の向こうで多恵が掠れたような声を出し、それっきり何も聞こえない。

「おーい」
「はっ、うんっ」
「どう?」
「え、いや、」

 珍しく口ごもる。
 らしくないなと亜衣は笑った。
 相手は死んだ母親の代わりに家事を取り仕切る実家暮らし。
 自分はひとり暮らし歴10年以上。
 どうなるかわからないが、今回のことでそばに居てくれると助かると思えた。
 同じ家に居てくれると助かると。

「実はさ、まだ反対側に親知らず残ってて、すぐにでも抜かなきゃいけないんだ。先生が早い方がいいだろうって。まだ予約はしてないんだけど、食事のこともあるし」
「なに、あたしにメシ作れってーの?」

 笑いながら多恵が言う。
 亜衣も笑う。

「あと、上にもあるから将来的には抜いたほうがいいって。埋伏のやつ。両サイド」
「なにそれサイアクじゃん」
「私もレントゲン見て絶句した。またご飯がタイヘン」
「さっさと抜いちまえよ」

 笑いながら多恵が言う。
 そして、その流れで。
 いいよ、一緒に暮らそう、とさらりと言ってくれた。


〈了〉



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