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第1章 渦巻く陰謀
終わりの時。
しおりを挟む部屋を出るや否や、ウルヌは立ち止まった。
「どうしたのですか?」
後ろから着いてきていたナナが不思議そうに声を上げる。
「コータたちだけで何とかなると思うか?」
荒波に飛び込むことに恐怖がなくなったわけではない。でも、少しでも誰かの助けになりたくて。
ウルヌは震える声でそう訊いた。
「第2王女であるサーニャ様までいらっしゃるので、何とかなると……」
「本当にそうか?」
ウルヌの答えは違っていた。だからこそ、楽観視しているナナに重い声でぶつけた。
「え、でも……」
「相手はエルフでさえ手駒にしている可能性だってあるんだ」
人間なんかより遥かに魔法を使うことに長けた存在が敵にいるとすれば、幾ら王女がいたところで絶対に大丈夫とは言い難い。
「それはそうですけど」
「なら絶対ってことはないだろ」
最初から分かっていた。3人なんかではきついのでは、と。
「こうなったら行くしかないだろ」
そう告げるウルヌの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「そこまでしてどうして……」
ガクガクと震える膝。溢れ出す涙。そのどれを取っても恐怖していることは丸わかりだ。それなのに、ウルヌは悪に立ち向かうと言う。
その意味が、ナナには分からなかった。
「それはオレがコータの相棒だからだよ」
ウルヌは今までパーティーを組んだことが無かった。それは単にウルヌの冒険者ランクが低いからとかではない。大きな原因は、ウルヌの顔だった。
幼少期には目付きが悪い、ということだけで友だちが出来なかった。そのためか、普通の友だちが出来なかったウルヌは、裏路地にたまるようなゴロツキとつるむようになった。結果、称号にまでゴロツキが現れ、より一層に人が寄り付かなくなった。だからこそ、パーティーを組む、と言われた時は嬉しかったのだろう。嫌だ嫌だ、と口で言いながらも心のどこかでそれを承認していたのだ。だからこそ、コータの一方的な宣言だけでパーティーが組めたのだ。
そんな自分とはじめてパーティーを組んでくれた奴が、危ない目にあっている。それが分かっているのに、見過ごすことなんて出来なかった。怖くて、怖気付いて、名前を呼ぶことしか出来なかった。それでは必ず後悔する。
「ここで冒険者二人を失うほど、ギルドの状況は良くないんです?」
ナナは少し苛立ちを見せながら言う。
「コータを失うようなことにはさせねぇ。そのためにオレが行くんだよ!」
背後からウルヌを制止することが飛ぶ。その声に従って、今すぐにでも逃げ出したい気持ちだってある。それでも、コータのためにそれを無視して、ウルヌは、ソソケットで一番高い場所にある、領主の家へと向かったのだ。
* * * *
「どうしてウルヌがここに?」
冒険者ギルドにて別れ、ここにいるはずのない人物がいた。
「相棒を見捨ててオレだけ平和を待ってるなんて出来るわけねぇーだろ」
微笑を浮かべ、ウルヌは手にしていた鍵で檻を一つずつ開けていく。
「どこでその鍵を……」
溢れて止まない疑問を口にすると、ウルヌは人差し指で上を指した。
「王女様が持ってた」
「何でサーニャ様が?」
地上では一体何が起こっているのか。コータが地下に潜ってからそれほど時間が経っていないというのに、理解が出来ない。
「ルーストさんとサーニャ様でイサベルを捕縛しようとした時に、腰についてたから取ったらしいぜ」
それを聞いて納得がいった。そして同時に、サーニャを地上に置いてきてよかった、と思う。
「ウルヌ、来てくれてありがとう。助かった」
「な、なんだよ」
コータの心からの言葉に、ウルヌは照れたような声を出しながら、解錠していく。
「このままじゃみんなを助けられなかったから」
「相棒のためだからな」
少しだけ俯き、照れたように放ったウルヌに、コータは「そうだな」と告げた。
「みんなのこと頼んでいいか?」
「あぁ」
ウルヌの言葉を聞き届け、コータは少し広まった檻のある場所の奥へと続く道に足を踏み入れる。先程の場所の明るさに目が慣れていたせいだろう。やけに真っ暗に見える道を進んでいく。
「行き止まりか?」
すると、すぐに道が途切れた。まだ目が暗闇に慣れていないために、詳しいことは分からないが、両サイドに手を当ててることができることから恐らくここが最奥ということだ。
「奥にいるって言ってたよな」
猫耳の女性の言葉に嘘は無かったように思える。コータは前方の壁をぺたぺたと触っていく。そうしているうちに、視界が暗闇に慣れていく。
「ドアってことか」
コータの腰元にあたる高さに、取手になるへこみがある。どうやら壁と思っていたそこは、スライド式のドアらしい。
コータは取手に手をかけ、ゆっくと扉を引く。ガガガ、と錆び付いたような音を立てながら、扉は開いていく。同時に、強い光が視界を襲う。
目を細め、飛び込んでくる明かりが視界に入ってくる量を制御する。ある程度光が視界に入ったところで、光量に目が慣れた。
コータはしっかりと目を開き、扉の奥を見た。
「っ!」
その光景に、コータの目は限界まで見開かれた。
扉の奥。そこは部屋と表現して差し支えないほどの広さと物量だった。
右端には本棚があり、その隣には机がある。
また、中心より少し左側にはテーブルとソファーが用意されている。
現在、部屋の中心にあるそれさえ除けば書斎のように思えただろう。
「大丈夫か!?」
景色に圧倒され、動くことが遅れていたコータは、我に返り、部屋の中心にへと駆け出す。
「がほっ」
吐血混じりの息でコータの言葉に返事をしようとする。
部屋の中心には十字架の杭があり、そこには人が打ち付けてあった。──磔だ。
両の手のひらが釘で打ち抜かれ、木に打ち付けてあるため、その真下には血溜まりが出来ている。
上半身は裸で、体のあちこちに鞭で打ったような痕がある。
ぐったりと項垂れている渋い顔立ちをした男性。それはまるでイエス・キリストの如くだ。
「今助けてやる」
顔を近づけると、男性の呼吸が僅かである事が分かった。
──戻ってる時間がおしい。
「ウルヌ!!」
そう考えたコータは、男性の前でありったけの声で叫んだ。
「どうした!」
すると数秒遅れでウルヌからの返事が返ってきた。まだ近くにいてくれてよかった。心底そう思いながら、コータは続きを言う。
「ポーションはあるか?」
「あぁ!」
「今すぐ持ってきてくれ!」
「分かった!」
ウルヌは刹那で返事をし、駆け出す音がコータの耳に届く。
「あとちょっとだ。あとちょっと耐えてくれ」
祈るように、コータは男性に言う。それを言い終えるとほぼ同時に、ウルヌが入ってきた。
「まぶしっ!」
コータが最初に抱いた感想と同じものを口にしながらも、ウルヌは歩を止めることなく部屋の中心に来る。
「って、ギルドマスター!?」
ウルヌは驚きに打ちひしがれたような表情で、傷だけら、血まみれのギルドマスターを見る。
「やっぱりそうだったか。ということは、ギルドマスターは監禁されてたってことか」
これでギルドマスターがイサベルに抱き込まれているという可能性はなくなった。
コータがそう考える間に、ウルヌは闇色の空間を展開し、その中からポーションを取り出す。
「かけるぞ?」
「頼む」
その言葉を聞いてから、ウルヌはポーションの入った小瓶の蓋を取り、手のひらにチョロチョロとかけ始める。それが染みるのだろう。ギルドマスターは呻き声に近い声をこぼしている。
「止めてくれ」
そうコータに言われたウルヌは、不思議そうな顔を浮かべながらも、ポーションをかけるのをやめる。同時に、コータは先程までポーションがかかっていて濡れている手に刺さっている釘に手をやる。
「気合い入れろよ」
そう告げ、コータは一気に釘を抜き去る。
「うぅ」
ギルドマスターの口内から血が滲み、釘を抜いた手のひらからは、ピューピューと音を立てながら血が吹き出している。
「かけてくれ!」
ぜぇせぇという音を出しながら呼吸をしているギルドマスターの手に再度ポーションがかけられ、傷が塞がっていく。
「次、逆もだ」
そう告げると、ウルヌは再度闇色の空間を展開しポーションをもう一本取り出した。
そして同じことを繰り返し、手のひらから釘を抜き去る。
どれほどの激痛がギルドマスターを襲ったのか、コータには分からない。しかし、想像を絶するものだと言うことだけは理解が出来た。
ギルドマスターは釘が抜け、磔から解き放たれた瞬間、その場に崩れるように倒れ込んだのだ。
「大丈夫か?」
「……ぁぁ」
静かにしていなければ聞き逃してしまうほどの、か細い声で返事をしたギルドマスター。
「ウルヌ、いくぞ」
コータはギルドマスターの右肩を支えるようにして、ウルヌに言う。それを見たウルヌは、ギルドマスターの左側に回り、左肩を支える。
「いくぞ」
「あぁ」
コータの言葉にウルヌは返事する。そして、声を合わせて「いっせのーで」と、掛け声を上げる。
ギルドマスターを支えながら、コータとウルヌは部屋を後にし、暗闇の中を進み、出口へと向かった。
背にギルドマスターを担ぎ、どうにかはしごを登りきると、そこには首に鎖をまかれ、痩せ細った体躯の亜人種が陽の光に怯えるように、木陰に小さくなってかたまっていた。
「国際問題になりかねないわ」
その状況を見たサーニャは、頭が痛いのか、頭を抑えながら呟く。
「それよりもギルドマスターです」
コータは亜人種の奴隷を持つ、という法律違反を犯していた事実に頭を悩ませているサーニャにそう言う。
「そうですよ。まずは目の前の人命を大切にしてください」
ルーストにまでそう言われたサーニャは、分かってるわよ、と不貞腐れるように言う。
「ルースト、あれは?」
「ございます」
サーニャの一言に、ルーストは正解と言わんばかりに頷き、ウルヌと同じく闇色の空間を展開する。
「それって……ウルヌと一緒の……」
「あら。ウルヌ殿も空間魔法を使えるのですか」
珍しい、と言いながらルーストは透き通るような水色のポーションを取り出した。
「あぁ……って、上級ポーション!?」
「サーニャ様に何かあったら大変ですので」
そう言いながら、ルーストは上級ポーションをコータに渡す。
「これでギルドマスターさんをお助けになってください」
「あ、あぁ」
ウルヌの驚く上級ポーションが、一体どれくらいの価値があり、効果があるのかわからないコータは、短く返事をし、全てをギルドマスターにかけた。
瞬間、ギルドマスターの全身が仄かに光に包まれ、みるみるうちに傷が消えていく。それと同時にギルドマスターは伏せていた瞳を持ち上げる。
浅黒い肌色に、奥二重の目は切れ長で、綺麗に整えられた太い眉はダンディーな印象を覚える。手入れされた髭も同じく濃い色で、ギルドマスターと言うよりはバーのマスターといった方が近いような印象を受ける。
「うぅ……」
陽の光が眩しいのだろう。ギルドマスターは目を細め、小さく声を洩らす。
「痛く……ない?」
そして自分の置かれている状況が、変化していることに気づき慌てて起き上がる。
「貴女は確か、第2王女のサーニャ様ではないですか?」
「ほう。私を知っているか」
「それはもちろんです! この度はご迷惑をおかけ致しました!」
自分が監禁されていたことにより、不祥事でも起こったのだろうか。そう考えたギルドマスターはサーニャに、深々と頭を下げる。
「大丈夫だ。それよりも体の方は大丈夫か?」
「あ、はい。もう平気です」
「そうか。それならよかった」
サーニャは慈悲に溢れた優しい微笑みを浮かべる。
「それよりもコータとウルヌに礼を言うのだな」
「コータ?」
流石は冒険者ギルドのマスター。冒険者として登録しているウルヌのことは周知しているようだ。だが、つい先日登録したばかりのコータのことは知らないようだ。
「三日前かな? ギルドに登録した冒険者のコータです」
「そうか。わざわざありがとう」
ギルドマスターはコータの手を取り、涙ながらにそう言う。
「い、いえ。それよりも何があったのですか?」
「それは──」
* * * *
5日前。ギルドマスターの元にある1枚の通告が来た。それは、本年度における決算書に不明な点があるから領主の元を訪れるように、というものだった。
「不明な点などあったか?」
例年通り、不備なく提出したはず。通告に違和感を覚えたものの、自分の予期せぬところでミスが生まれているかも、と考えギルドマスターは領主の元へと訪れた。
「冒険者ギルドのマスター、オネスタッタです」
大きな門扉の前で、ギルドマスターは声を上げる。すると、奥の玄関が開き、中から恰幅のいい中年男性、領主イサベルが姿を見せた。
「おぉ、オネスタッタくん。よく来てくれた。さぁ、入ってくれ」
言われるまま、ギルドマスターは屋敷内に入る。両壁に絵の掛けられた廊下を抜け、応接間に通される。応接間の真ん中にあるテーブルの上には1枚の紙があった。それこそが今回ギルドマスターが領主イサベルに呼び出された理由の決算書だ。
「掛けてくれ」
イサベルは手で入口側の椅子を示す。
「はい」
言われるがまま、ギルドマスターは椅子に腰をかける。領主はその対面に座り、件の決算書のある一箇所を指さす。
そこから数十分間。意味もない質疑応答を繰り返した。これまでに送っていた書類に目を通せば分かるようなことばかりを聞かれ、何故呼び出されたか分からなくってきたギルドマスターが、訊いた。
「このようなことをお聞きするために、私を呼びつけたのですか?」
「いやいや、そうではないよ」
瞬間、イサベルの表情が変化した。目を鋭くし、いかにも悪いことを企てている表情。
「ところで、ギルドマスターは亜人種の奴隷についてどう思う?」
「いいわけないでしょ。法律で禁止されています」
「仮に、だ。法律が廃止されれば?」
「どういうことですか?」
イサベルが何を言いたいのか見えないギルドマスターは、眉間に皺を寄せ、怪訝な表情を浮かべる。
「そのままの意味だよ。もし、亜人保護法がなく亜人を奴隷に出来るとすれば君はどう思う?」
「話になりませんね。私は奴隷制度について反対なのです。人を人として扱わないなんて以ての外です。それに亜人を奴隷にするということは、亜人種との戦争を意味しています。人の命を無駄にする原因を作るそれは廃止すべきなのです」
ムッとした表情で、ギルドマスターは語った。人の下に人を作らない。平等な世界こそが平和を導く。ギルドマスターはその事に気づいて、実践しようとしている。だが、その答えを聞いたイサベルは、更に訊いた。
「もしだぞ。亜人を奴隷として飼っている者を知ったらどうする?」
「断罪します」
キッパリと言い切るギルドマスターに、イサベルは一瞬、諦めの表情を浮かべる。その事に気づかなかったギルドマスターは、心底気分が悪そうな表情を浮かべて言う。
「このような話しかされないのでしたら、私は帰ります」
「まぁまぁ」
立ち上がろうとしたギルドマスターに、イサベルはそう言いながらギルドマスターの肩を触る。
「まだ聞きたいことがあるのだ」
「先程のような奴隷の話なら聞きません」
「違う、違う」
苦笑を浮かべながら言うイサベルを白い目で見ながら、ギルドマスターは上げた腰を下ろす。
「つい先日小耳に挟んだ話なのだが、麻薬というのが人間の国でも流行り出しているそうだな」
「そうなのですか!?」
そのような話を聞いていなかったギルドマスターは、顔色を変えイサベルの話に食いつく。
「噂程度の話だから、詳しくは知らんがね」
そう言うと、イサベルはゆっくりと腰を上げる。
「どちらへ行かれるのですか?」
「少し喉が渇いたであろう。お茶をいれてくる」
ギルドマスターの問いにイサベルは何もおかしくない返事する。
「領主様にそのようなことはさせられません」
そう言いいながら立ち上がるギルドマスターに、イサベルは優しく微笑む。
「気など遣わんでよい。そこで待っておれ」
それだけ残してイサベルは部屋を出た。
応接間の左側には執務室がある。イサベルはその間にある小さな部屋、給湯室へと入る。
そこには小さなキッチンとシンクがある。ヤカンを取り出し、水を入れお湯を沸かす。
その間にイサベルは、紅茶を入れる準備を整えた。
しばらくしているうちにお湯は沸き、ティーカップも二つ並べて置いた。
あとはその中に紅茶を入れるだけ。
その段階で、イサベルは豪華な白衣のシュミーズの上に羽織っている黒衣の上着の内ポケットから白い粉の入った袋──コカ材でつくった麻薬を取り出す。
「これで奴も堕ちな」
独りごち、イサベルはティーカップの一つにその粉を全て入れる。その上に紅茶を入れた。
見間違わないように、イサベルは粉の入っていない方にはスプーンを載せることなく、二つをお盆の上に載せ、ギルドマスターの待つ応接間へと戻る。
「すまんね、いつもはメイドに任せているのだが。今は生憎の買い出し中でね」
イサベルはそう断りをいれ、ギルドマスターの前にスプーンの乗ったティーカップを置く。
「作法など間違っているかもしれんが、許してくれ」 「滅相もないです」
領主という、自分よりも上位の存在のイサベルに紅茶を入れてもらい運んで頂いている。それだけでもあってはいけないことだ。そう思ったギルドマスターは首を振った。
「そう言って貰えると助かるよ」
イサベルはそう言いながら、紅茶を飲むように進める。
「それでは」
言われるがまま、ギルドマスターは一言を添えてから紅茶に口をつけた。
「美味しいです」
「おぉ、それはよかった」
嬉しそうな笑顔を浮かべ、イサベルはギルドマスターの対面のソファーに腰を下ろす。
「それで、先ほどの話だが」
「麻薬の件ですね」
「そうだ」
再度、麻薬の話を切り出すイサベル。手に持っていたティーカップを置き、ギルドマスターは真剣な表情を浮かべる。
「どうやら麻薬の原材料がすぐに手に入る、とからしい」
「どういうことですか?」
「それが何かは私にも分からんが、身近にあるものだとか」
ギルドマスターにとっては驚愕の事実に、開いた口が塞がらない。
「それでは誰でも採取して、製造することが可能だと言うことですか?」
どうにか口を閉じ、言葉を紡ぐ。それに対し、イサベルは真剣な面持ちでこくん、と頷く。
「だが、まだその素材が何で、どうやって作るか、までは分かっていない」
申し訳なさそうな表情を浮かべるイサベルに、ギルドマスターは大きく頭を振る。
「とんでもないです。その情報が頂けただけでも、注意喚起を行えます」
来てよかった。そう言わんばかりの表情を浮かべるギルドマスターに、イサベルは安堵の表情を見せた。
「それは良かった。私も民のことが心配で」
「それは私もです」
イサベルとギルドマスターが視線を交錯させ、小さく微笑む。その時だった。
ギルドマスターの身体に異変が起こった。
暑くもなければ、運動をしたわけでもない。それなのに、ギルドマスターの額には大量の汗が浮かび上がった。
「凄い汗ですけど」
「えぇ……だいろうぶ……でしゅ」
何が起こったのか、まともに呂律も回っていない。
はぁ、はぁ、と息を荒らげながらギルドマスターはテーブルに手をつく。
「大丈夫ですか?」
イサベルの言葉に、ギルドマスターは返事すら出来ない。そしてそのまま、前へと倒れる。二人の紅茶が零れ、ギルドマスターの腕にかかる。テーブルの上にあった決算書はくしゃくしゃになり、紅茶が侵食していく。
「やっと効いてきたか」
ドスの効いた声がギルドマスターの頭上から降ってくる。
「ろういう……?」
「まだ分からんか」
イサベルは今にも高笑いをしそうなテンションでそう告げるや、ギルドマスターの髪を掴む。
「麻薬を作れるのは私だよ。そして、今、お前は私の作った麻薬の入った紅茶を飲んだんだよ」
虚ろな目でイサベルを睨む。だが、イサベルは堪えた様子もなく頭をテーブルの上に投げ捨てる。そして部屋を出ていく。
今度は給湯室を超え、執務室へと入る。執務室には執務を行うためのデスクがある。そのデスクの上から2段目の引き出し。そこを開ける。そこにはなんの変哲もない書類が沢山入っている。イサベルはそれを取り出し、引き出しを引っ張り出す。次に、その上段の引き出しを引っ張り出し、先程引っ張り出した2段目の引き出しを1段目に入れ、1段目にあった引き出しを2段目に入れ替える。途端、噴水の水が引いていく。一体どういう原理なのか、噴きあがっていた水が止まるだけでなく、溜まっていた水さえも無くなる。そして同時に噴水の場所が数センチズレる。
イサベルはランプを片手に外へ出て、現れたはしごを降りていく。
檻の前まで辿り着くと、イサベルは腰に下げた鍵で1つの檻を開ける。犬の耳と手が柴犬のような薄茶色の体毛で覆われたのが特徴的な男性の入った檻だ。首に着いた鎖を引っ張るようにして入り口をまで連れていく。
「あがれ」
「嫌です」
「あがれ!」
1度目の命令に背いた男性に、今度は強く命令する。瞬間、みぞおち辺りに紫色の光が走る。奴隷紋による強制力が発動したのだ。男性は渋々はしごを上がる。上がり終えるを見てから、イサベルも地上へと戻る。
そして犬耳を持つ男性を連れ、応接間へと戻る。
「はぁー……はぁー……」
「まだ意識があるとは。流石はギルドマスター」
嘲笑うようにそう言って退ける。怒りを込めて睨めつけようと、顔を上げる。だが、ギルドマスターに更なる驚きが訪れた。
「あぁ、言ってなかったか? これが奴隷だよ」
首に繋がる鎖を持つイサベルに、ギルドマスターはただただ驚くしか無かった。
「ろうなっ……ても」
「はい? ちゃんと喋って貰えますか?」
怒気を孕んだ声を放ち、イサベルはギルドマスターの横へと周り蹴り飛ばす。
ガードすることも出来ないギルドマスターは、それを直に喰らう。血反吐を零しながら、受身をとることも出来ずに応接間に転がる。
「汚いだろ!」
そう言いながら、ギルドマスターの顔面を踏みつけるイサベル。
「おい!」
踏みつけたまま。イサベルは自分が連れてきた犬耳を持つ男性奴隷に呼びかける。
「運べ」
「え?」
「この男をあそこへと運べ!」
強い命令に、再度奴隷紋が反応し、男性が悲鳴をあげる。
「やれ」
「……はい」
弱々しく呟くように返事をし、男性はギルドマスターを担ぐ。そして外へと運び出す。イサベルはそれを監視するように、後ろから着いていく。
噴水部が開けた状態となっているそこまで行くと、イサベルは再度命令を下す。
「担いで降りろ」
男性は何も言わずに、無言でゆっくりとギルドマスターを担いだままはしごを降りていく。それに続き、イサベルも降りていく。
はしごを降り切ると、イサベルは顎で奥を指す。男性は静かに奥へと歩き出す。
檻の前を通り過ぎ、男性は最奥の部屋の前に立つ。
「どけ」
イサベルは短く告げ、部屋のドアを開ける。一見すれば第二の執務室とでも思えるその部屋。しかし、真ん中にそびえ立つ杭が異様な物々しさを感じさせる。
「下ろせ」
命令に従い、男性はギルドマスターをそこに下ろす。同時に、イサベルは鎖を握る。そして引っ張るようにして部屋から出し、檻のなかへと戻す。
「大人しくしてろよ」
冷酷な視線を男性に浴びせながら、イサベルはそう告げ、檻の鍵を締める。
そして、ギルドマスターが下ろされた最奥の部屋へと戻る。机の引き出しの中から釘とハンマーを取り出す。ハンマーには微かに血痕が残っている。
「汚くなってきたな」
イサベルはそんなことを呟きながら、ギルドマスターを担ぎ起こす。
そして地面に突き刺さった十字架の杭に持たれかけるように立たせ、まずは右手を木に張り付けるように押さえ付ける。そして、手のひらに釘を打ち込む。ドン、と打ち込む度に意識を失っているはずのギルドマスターの口から吐息のようなものがこぼれ、手のひらからは血が吹き出す。
それを薄い笑みを浮かべながら行うイサベル。狂気に満ちた表情で、左手にも同じことを行う。
そうすることで完成したイエス・キリストもどき。ハンマーに着いた血を拭くことなく、机の引き出しの中に戻し、イサベルは部屋を出て、地上へと上がった。
地上にもどったイサベルは、執務室に戻り、入れ替えた1段目と2段目の引き出しを元に戻す。すると、噴水の位置が戻り、水が戻り、噴水から水が上がる。
「今晩からは楽しみだな」
汚い、悪人面でほくそ笑みながらイサベルは呟いた。
そしてその夜から、ギルドマスターは鞭による拷問を受けたらしい。
* * * *
ギルドマスターは苦悶の表情を浮かべながら、5日前からの出来事を語った。
「そんなことが……」
ギルドマスターの壮絶な5日間に、ウルヌはそれしかこぼせなかった。
「てめぇ!」
そしてその怒りをイサベルへと向ける。
「やめろ」
縛り上げられたイサベルに拳を振り上げたウルヌに、コータは静かに告げた。
「どうして!」
「今殴ってもウルヌの手が痛いだけだ。こういうのは司法に任せるのが1番なんだ」
怒りまかせに殴るのは簡単なことだ。だが、それで自らも傷害罪などで訴えられば面倒なことこの上ない。さらに、殴ったところで一瞬の気晴らしにしかならず、結局また怒りが、恨みが湧き上がってくる。それならきっちりと確立された司法で裁いてもらうのが一番だ。
被害を受けた者からすれば綺麗事だと思われるだろう。だが、一度振るわれた暴力は二度と消えない。だから、これが正解なのだ。
今すぐにでも殴りたいのコータも同じだった。しかし、奥歯をぐっと噛み締め、怒りを噛み殺している。
「それが正解だ。感情に任せるのもいいが、今回は相手が悪い。幾ら犯罪者とはいえ、領主だからな」
サーニャもやるせない表情を浮かべながらそう告げた。
「ちっ!」
大きく舌打ちをしながらも、ウルヌは握っていた手を開き、振り上げた手を下ろした。
「だが、本当にコータたちがコカノキを与えないでよかった。コカ材よりも強い麻薬が作られるところだった」
イサベルはコカ材での麻薬しか保持していないことが分かった。コカ材で作られた麻薬は中毒性が低いらしい。麻薬を与えられていたであろう亜人種たちも今のところ異常が見られないのは、不幸中の幸い、といったところだろう。
「だがこのままと言うのも……」
「それもそうだな。近いうちに教会で清めて貰うのがいいだろう」
サーニャはギルドマスターの言葉にそう答える。
「ギルドマスター、オネスタッタと言ったかな?」
「はい、そうです」
サーニャに呼びかけられ、体を硬くするギルドマスター。
「そんなに硬くならなくてもいいぞ」
それを見たサーニャは小さく微笑みながらそう言う。それに対し、ギルドマスターは「そういう訳には」と答える。
「真面目なやつだ」
そう告げてから、サーニャは更に続ける。
「監禁されている間、オネスタッタはエルフ種を見なかったか?」
「あのエルフ種ですか?」
「そうだ。あのエルフ種だ」
人の国と亜人種との問題に、何故エルフ種が出てくるのか分かっていないギルドマスターは眉間に皺を寄せながら、見ていない、と答える。
「そうか」
「どうしてエルフ種なんですか?」
「コータがソソケット森林で見かけたらしい」
「それは本当ですか!?」
慌て、驚くギルドマスターに、コータは頷いてから口を開く。
「そしてそのエルフ種はイサベルの名を口にしていました」
「なんだって!?」
想像以上にとんでもない事態になってきていることを理解したギルドマスターは声を大にする。
「その様子では知らないみたいだな」
サーニャの一言に、場が静まり返る。
「ここではなんです。場所を移すのはどうでしょう?」
幾ら領主の領地ないとは言え、外であることに変わりはない。それにここは亜人種を奴隷とし、麻薬を使っていたイサベルが住んでいる場所。何があるかわからない。
「そうだな。とりあず詰所へ行こうか」
身体にロープが巻き付けられたイサベルに、サーニャは言い放つ。そしてロープの先を持つ。
「そこは私が」
幾ら全身を縛っているとは言え、王女が犯罪者に背を見せるのは危険だ。そう判断したギルドマスターは、そう言った。
「助かる。ではオネスタッタ、頼む」
「はい」
そう返事をし、ロープをサーニャから受け取る。その後ろにウルヌ、亜人種たち、サーニャ、ルースト、コータの順で並びイサベル宅から出た。
市場を歩いている間、ロープに縛られているイサベルを見た民からは様々な声が上がった。しかし、そのほとんどがイサベルを心配する声だった。どうやら表の顔は本当によかったらしい。
それからしばらく歩き、ソソケットの中心部から西に進んだ所にある大きな石造りの建物が視界に入った。
「もうすぐです」
ギルドマスターがそう告げた瞬間だった。
突風が起こったかのような、強烈な風が頬を掠めた。
「何事だ!?」
突然の出来事にサーニャは風が通り過ぎた背後に向かって声を上げた。それと同時に亜人種たちの悲鳴が上がった。
「うわぁぁぁぁ」
それに続きウルヌが声を上げる。何事か、そう思いサーニャは再び前方を見る。
「なっ……」
コータは声すら出なかった。
皆が悲鳴を上げ、コータは声すら出なかった。なぜなら、イサベルの首から上が無かったからだ。頭があった場所には頭がなく、代わりにそこから噴水のように鮮血が噴き出している。
眼前で突然訪れた死。現代日本にいれば見ることないシーンに、コータは思わず腰をぬかす。
「何者ですか」
一番冷静に声を放ったのはギルドマスターだった。恐らく、ギルドマスターになるまでに数多くの修羅場をくぐってきたのだろう。
「あぶねぇ!」
突風が吹いた。しかし、瞬時に双剣を抜刀したウルヌが何かを受け止めた。同時に耳を劈く金属音がなる。
「へぇ、これを受け止める奴がいるのか」
中性的な声音を放ち、現れたのは男か女かすら分からない、全てが中性的な人物。
「あんたか、コータが見たって言ったのは」
「あぁ、ミリちゃんの言ってた通りだったんだ」
「だから言ったじゃん」
そう言って姿を現したのは、黄緑より黄色よりの髪と碧眼を持つ羽の生えた小さな女の子だ。
「何故殺した!」
間違いなくコータが見た二人。どうにか月の宝刀を支えにして、立ち上がったコータ。それと同時にサーニャが声を飛ばした。
「何故って、話されたら鬱陶しいし」
「それだけで殺すのか!」
「そうだよ?」
何がわるい。そう言わんばかりに、中性的な人物は言い放つ。サーニャはその態度に奥歯を噛み締める。
「あぁ、それとそこの亜人も今から殺すから覚悟しててね」
首を回し、中性的な人物は言う。
「ロイ、いざ参る」
恐らくそれが名前だろう。中性的な人物は自身をロイ、と名乗り目の前に両手を広げる。同時にそこには、黄金に輝く刀身を持つ刀が現れる。そして、同時にロイは地を蹴った。
轟音と共に姿は消える。コータには目で追う事など不可能だった。だが、狙う場所はわかっていた。
だから、コータは亜人たちの前に立つ。そして抜刀する。
神速にも近い動きのため、姿より先に風が頬を撫でる。
風が現れたほう。そちらに剣を構えたコータ。瞬間、甲高い金属音が耳をつんざいた。
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