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31 抱きしめてほしい
しかし突っ立っていても、どうにもならない。
意を決した俺は、注意深く辺りを見渡す。なにか手掛かりがないかと目を凝らすが、似たような木々が並ぶだけの森である。よくわからない。
誰か他の冒険者でも通ってくれないだろうか。そこまで奥に入ったわけじゃないと思うので、そのうち誰かが通りかかるかもしれない。そんな期待を胸に、ひたすら歩く。そうしないと心が折れて涙が出てきそうだから。
歩き出して少し経った頃、進行方向の草むらが小さく音を立てた。怖々歩いていた俺は、ビクッと体を揺らして立ち止まる。
「だ、誰……?」
通りかかった冒険者でありますように。
祈る俺であったが、現実は残酷だった。
「ひっ……!」
草を掻き分けるようにして出てきたのは、大型犬よりも確実に大きな獣だった。銀と黒が混じったような毛並みに、太い手足。同じ色の尻尾。低く身を屈めて、今にも飛びかかってきそうな体勢で低く唸り声を上げている。
頭の中に、狼という言葉が浮かんだ。
ハンスが言っていたじゃないか。狼の目撃情報があったから気をつけろって。
目の前の狼が鋭い牙を覗かせて唸り声をあげた。
その瞬間、俺は弾かれたように駆け出す。咄嗟に動けたのは、ほとんど奇跡だと思う。近くの木に手をかけて、必死によじ登った。まさに火事場の馬鹿力だ。普段の俺は、ここまで俊敏に動けない。
けれども狼も諦め悪く木に飛びかかろうとしてくる。だが木登りは得意じゃないらしく、地面に後ろ足をついたままガシガシと鋭い爪で幹を引っ掻いている。
「う、うぇ、やめろよぉ」
どうにか狼の手が届かない位置までよじ登った俺は、太い枝に腰掛けて幹にしがみつく。すぐ下には狼。
なにか武器になるものをと考えて、ラーシュが買ってくれた短剣の存在を思い出した。短剣といっても、ほとんどナイフのような感じである。あまり大きなものは扱えないだろうとラーシュに言われて、一番小さくて軽いものを選んだ。これで生き物を狩るのは無理だと思う。
震える手でカバンから短剣を引っ張り出した俺は、そのまま鞘から引き抜いた。その拍子に、鞘がぽろっと手からこぼれ落ちた。
「あっ」
地面にぽてっと落ちた鞘に、狼が気を引かれる。幹から離れて、鞘に鼻先を寄せて探るようにしている。その隙に短剣を持ち直すが、どう考えても俺に太刀打ちできる相手ではない。
そのうち鞘に飽きたのか。
狼が再び木に前足をかけた。ガリガリと木の皮を削る音がして、恐怖に震える。
「あっち行けよ、来ないで!」
出鱈目に短剣を振り回してみるが、刃の届かない狼の頭上でそんなことをやっても意味はない。近くにあった葉をちぎって狼に投げつけるが、ひらひら舞い落ちる葉には何の威力もない。
「やめて、あっち行け!」
枝に腰掛けて、幹にしがみつくという不安定な体勢。おまけに短剣も握りしめている。もう動くに動けない。固まっている間にも、狼は唸り声をあげながら俺が落ちてくるのを待っている。
そりゃ広い森の中を駆け回って獲物を探すより、俺が木から落ちてくるのを待つほうが賢いけど。その賢さをここで発揮しないでほしい。
「誰か助けて、ラーシュさん……」
もうラーシュの仕事が終わる頃だろうか。帰宅したラーシュは、俺が家にいなくてびっくりするだろう。俺のことを捜してくれるはず。
だが、こんな森の中まで捜しに来てくれるだろうか。森の奥には入らないと約束している。その約束があるから、森の奥までは捜しに来てくれないかもしれない。
ラーシュの怒った顔が浮かんできて、幹にしがみつく。ラーシュは怒った時も、にこにこしている。でも目は笑っていないし、雰囲気が冷たいからなんとなくわかる。
「ラーシュさん、ラーシュさん」
ぎゅっと目を瞑れば、ラーシュの優しい笑顔が浮かんでくる。「いい子にしてるんだよ」と言い置いて、出勤して行ったラーシュの姿。
いますぐあの優しい笑顔に飛びつきたい。
いつもみたいに頭を撫でてほしい。ぎゅっと抱きしめてほしい。
じんわり目頭が熱くなってくる。
「あっち行けよぉ」
木に登ることは諦めたのか。根元に伏せるようにしてのんびり座った狼は、俺が落ちてくるのをひたすら待つ作戦に出るらしい。
ひたすら葉を取って、下に投げつける。ひらひら舞い落ちる葉は、狼の体に着地する。けれどもまったく気にしない狼は、じっと待っている。
気が付けば、もう太陽は沈みかけている。
いつもならラーシュと夕食の準備をしている頃だろう。
ぽろぽろと涙で視界が滲む。せめて短剣だけは落とさないようにと強く握りしめる。
俺はいつまでこうしていればいいのだろうか。ぐすぐす泣く俺は、変な体勢で痛み始めた身体を庇おうともぞもぞ動く。枝から落っこちないように、慎重に動く。その瞬間、全体重を預けていた枝がピシッと嫌な音を立てた。
「っ、!」
咄嗟に幹にしがみついて、枝への負担を減らす。
いや、待って。え、折れるの?
バクバクと心臓が音を立てる。下では狼が、待ってましたと言わんばかりに身体を起こすのが見えた。
「っ、やだっ! やだ!」
ぽろぽろ涙が溢れてきて止まらない。
けれども枝は無情にもミシミシと音を立てている。折れる前に別の枝へ移動しようとするが、恐怖に身体がガタガタ震えて言うことを聞いてくれない。変な体勢でずっと固まっていたせいもあり、うまく動いてくれないのだ。
「やだって、ラーシュさん……!」
下で、狼の目が嬉々と光るのがわかった。
もうダメだ。
幹に縋ったまま、ぎゅっと強く目を閉じる。それでもラーシュに買ってもらった大切な短剣だけは手放すまいと必死で握りしめた次の瞬間、バキッと嫌な音が響いて支えを失った身体が宙に投げ出された。
意を決した俺は、注意深く辺りを見渡す。なにか手掛かりがないかと目を凝らすが、似たような木々が並ぶだけの森である。よくわからない。
誰か他の冒険者でも通ってくれないだろうか。そこまで奥に入ったわけじゃないと思うので、そのうち誰かが通りかかるかもしれない。そんな期待を胸に、ひたすら歩く。そうしないと心が折れて涙が出てきそうだから。
歩き出して少し経った頃、進行方向の草むらが小さく音を立てた。怖々歩いていた俺は、ビクッと体を揺らして立ち止まる。
「だ、誰……?」
通りかかった冒険者でありますように。
祈る俺であったが、現実は残酷だった。
「ひっ……!」
草を掻き分けるようにして出てきたのは、大型犬よりも確実に大きな獣だった。銀と黒が混じったような毛並みに、太い手足。同じ色の尻尾。低く身を屈めて、今にも飛びかかってきそうな体勢で低く唸り声を上げている。
頭の中に、狼という言葉が浮かんだ。
ハンスが言っていたじゃないか。狼の目撃情報があったから気をつけろって。
目の前の狼が鋭い牙を覗かせて唸り声をあげた。
その瞬間、俺は弾かれたように駆け出す。咄嗟に動けたのは、ほとんど奇跡だと思う。近くの木に手をかけて、必死によじ登った。まさに火事場の馬鹿力だ。普段の俺は、ここまで俊敏に動けない。
けれども狼も諦め悪く木に飛びかかろうとしてくる。だが木登りは得意じゃないらしく、地面に後ろ足をついたままガシガシと鋭い爪で幹を引っ掻いている。
「う、うぇ、やめろよぉ」
どうにか狼の手が届かない位置までよじ登った俺は、太い枝に腰掛けて幹にしがみつく。すぐ下には狼。
なにか武器になるものをと考えて、ラーシュが買ってくれた短剣の存在を思い出した。短剣といっても、ほとんどナイフのような感じである。あまり大きなものは扱えないだろうとラーシュに言われて、一番小さくて軽いものを選んだ。これで生き物を狩るのは無理だと思う。
震える手でカバンから短剣を引っ張り出した俺は、そのまま鞘から引き抜いた。その拍子に、鞘がぽろっと手からこぼれ落ちた。
「あっ」
地面にぽてっと落ちた鞘に、狼が気を引かれる。幹から離れて、鞘に鼻先を寄せて探るようにしている。その隙に短剣を持ち直すが、どう考えても俺に太刀打ちできる相手ではない。
そのうち鞘に飽きたのか。
狼が再び木に前足をかけた。ガリガリと木の皮を削る音がして、恐怖に震える。
「あっち行けよ、来ないで!」
出鱈目に短剣を振り回してみるが、刃の届かない狼の頭上でそんなことをやっても意味はない。近くにあった葉をちぎって狼に投げつけるが、ひらひら舞い落ちる葉には何の威力もない。
「やめて、あっち行け!」
枝に腰掛けて、幹にしがみつくという不安定な体勢。おまけに短剣も握りしめている。もう動くに動けない。固まっている間にも、狼は唸り声をあげながら俺が落ちてくるのを待っている。
そりゃ広い森の中を駆け回って獲物を探すより、俺が木から落ちてくるのを待つほうが賢いけど。その賢さをここで発揮しないでほしい。
「誰か助けて、ラーシュさん……」
もうラーシュの仕事が終わる頃だろうか。帰宅したラーシュは、俺が家にいなくてびっくりするだろう。俺のことを捜してくれるはず。
だが、こんな森の中まで捜しに来てくれるだろうか。森の奥には入らないと約束している。その約束があるから、森の奥までは捜しに来てくれないかもしれない。
ラーシュの怒った顔が浮かんできて、幹にしがみつく。ラーシュは怒った時も、にこにこしている。でも目は笑っていないし、雰囲気が冷たいからなんとなくわかる。
「ラーシュさん、ラーシュさん」
ぎゅっと目を瞑れば、ラーシュの優しい笑顔が浮かんでくる。「いい子にしてるんだよ」と言い置いて、出勤して行ったラーシュの姿。
いますぐあの優しい笑顔に飛びつきたい。
いつもみたいに頭を撫でてほしい。ぎゅっと抱きしめてほしい。
じんわり目頭が熱くなってくる。
「あっち行けよぉ」
木に登ることは諦めたのか。根元に伏せるようにしてのんびり座った狼は、俺が落ちてくるのをひたすら待つ作戦に出るらしい。
ひたすら葉を取って、下に投げつける。ひらひら舞い落ちる葉は、狼の体に着地する。けれどもまったく気にしない狼は、じっと待っている。
気が付けば、もう太陽は沈みかけている。
いつもならラーシュと夕食の準備をしている頃だろう。
ぽろぽろと涙で視界が滲む。せめて短剣だけは落とさないようにと強く握りしめる。
俺はいつまでこうしていればいいのだろうか。ぐすぐす泣く俺は、変な体勢で痛み始めた身体を庇おうともぞもぞ動く。枝から落っこちないように、慎重に動く。その瞬間、全体重を預けていた枝がピシッと嫌な音を立てた。
「っ、!」
咄嗟に幹にしがみついて、枝への負担を減らす。
いや、待って。え、折れるの?
バクバクと心臓が音を立てる。下では狼が、待ってましたと言わんばかりに身体を起こすのが見えた。
「っ、やだっ! やだ!」
ぽろぽろ涙が溢れてきて止まらない。
けれども枝は無情にもミシミシと音を立てている。折れる前に別の枝へ移動しようとするが、恐怖に身体がガタガタ震えて言うことを聞いてくれない。変な体勢でずっと固まっていたせいもあり、うまく動いてくれないのだ。
「やだって、ラーシュさん……!」
下で、狼の目が嬉々と光るのがわかった。
もうダメだ。
幹に縋ったまま、ぎゅっと強く目を閉じる。それでもラーシュに買ってもらった大切な短剣だけは手放すまいと必死で握りしめた次の瞬間、バキッと嫌な音が響いて支えを失った身体が宙に投げ出された。
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