君だけに恋を囁く

煙々茸

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君恋6

6-9

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「でも、良かったじゃないか」
 肘を突いて頭を上げた榊さんが口端を持ち上げた。
 俺は上体を起こしてジトッと視線を投げる。
「……何がですか」
「俺の寝顔を拝めて、癒されただろ?」
「それだけは絶対にありませんっ。寧ろ疲れがぶり返しましたよ」
「それだけ、意識してくれてたってことか。嬉しいよ」
「!? ……どうしたらそんな解釈ができるんですか」
 ポジティブ過ぎる思考が逆に羨ましい。
(その眼鏡、踏んでやろうか)
 枕の上にある眼鏡を取った榊さんに、俺は盛大に溜息を吐いて布団から抜け出した。
 そんなことより、とっとと支度して出ないと本当に遅刻する。
 昨日、荷物の整理をする暇も無く布団に入ってしまったから、カバンの中がゴチャついている。
 まずは顔を洗って来て着替えて、五分以内に今日持って行く荷物をまとめなければならない。
 俺は帯を解いて浴衣を足元に落とした。
 榊さんの視線が気になったが、今は時間との勝負が大事だ。
「優一」
「……何です?」
 俺は手を止めないまま返事をする。
「こっちは準備できてるから、先に行ってみんなをまとめておく。早く来いよ」
「あ、はい。お願いします」
 上着を羽織って着替えが済んだところで振り返ると、思いの外榊さんが近くに居て……――、
(え……?)
 頭の後ろに手を添えられ、引き寄せられた俺は、唇に温かいものを押し当てられた。
 それは直ぐに離れて俺を解放する。
「朝のキスがまだだった。それじゃあ後でな」
 部屋の扉が閉まり一人取り残された俺は、準備時間をただただ茫然と過ごしたのだった。

 ――……。

(くっそ。今思い出しても腹立つ! 何が朝のキスだ。そんなもん一生無くてイイっての!)
「優ちゃ~ん。どうしたんスか~?」
「どうもしてねーし顔近いんだよお前!」
 後ろから俺の肩に顎を乗せようとする小笠原の顔面を片手で押し返す。
「ふぐっ。だ、だって優ちゃんがいきなり黙っちゃうからさぁ……。本当に、何もないの?」
「ない。――大人しく座っていられねえなら、ココで降ろすぞ」
 言った途端、素直に座席に腰を下ろして静かになった。
(朝のことは忘れよう。それよりも、今日のこれからは慎重にいこう)
 流れる景色を眺めながら、俺はそう心に決めた。



 君恋6/終
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