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出会い
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馬車の旅は三日目を迎えていた。
王都を離れるにつれ道は細くなり、雪は深くなり、乗客たちの表情からは次第に余裕が消えていく。御者さえも「この先は自己責任で」とぼやきながら手綱を握っていた。
そんな中、アイリスの体調は徐々に限界へ向かっていた。屋敷を追われる直前まで満足な食事も睡眠もなかったうえに、慣れない揺れと冷気で身体は芯から冷えていた。
「……少し、だけ……」
馬車が休憩のために止まった隙に、アイリスは荷台からそっと降りた。吐く息は白く、足元の雪は膝近くまで積もっている。それでも外の空気を吸いたかった。誰の視線もない静かな場所で、胸につかえた思いを追い出したかった。
だが、足が思うように動かない。血の気の引いた指先が震え、視界がかすむ。
(大丈夫……私は自由になったんだから……歩ける、はず……)
小さな布袋を抱きしめながら雪原を数歩進んだところで、膝から崩れ落ちた。手袋もない素手が雪に触れ、熱が奪われる。
──その瞬間だった。
風の唸りとは異なる、硬質な雪を踏みしめる足音が近づいてくる。馬車の御者でも、道行く兵でもない。もっと重く、もっと静かな気配。倒れ伏した身体はもう震える力すら残っていなかったが、それでも本能だけがその接近を察した。
視界の端が揺れ、不意に身体が支えられる。
「……!」
温もりを感じるより先に、肌の奥まで刺すような冷気の圧に反射的に身が縮む。けれど触れられている腕からは、雪よりもはるかに確かな熱が伝わってくる。不思議な矛盾。
「生きてはいるな」
低く落ち着いた声が、頭上から雪明かりを割って降る。その声音は意識の朧げな彼女にもはっきり届いた。
ゆっくり瞼を開くと、昏い冬空を背景にひとりの男が立っていた。
銀灰の髪。氷を削り出したような鋭い眼差し。分厚い外套の上からでもわかる威圧感と静かな力。吐く息すら白く凍りつきそうな男なのに、抱き起こす腕だけはひどく暖かかった。
(誰……)
声にならない震えだけが唇から漏れる。
男は何も問わず、彼女を抱き上げる。横抱きにされた身体は軽々と持ち上げられながらも、壊れ物でも扱うように丁寧に固定された。
裾に纏わりつく外套にはちらちらと氷の結晶が付着している。その冷たさの奥に、焚火の火種のような確かな熱が宿っているのを、肌は微かに感じ取った。
「この魔力……」
男の瞳がわずかに細められる。まるで目には見えぬ気配を探るように。
そして――低く呟いた声はアイリスの耳には届かなかった。
問いただす余裕はない。ただ、その胸に抱かれながら、意識が再び遠のいていく。
そのとき、彼女の指から小さな布袋がこぼれ落ちた。雪の上に散らばるのは、旅の途中で拾った野草の種。男はそれに一瞥を落とし、静かに拾い上げると言葉もなく外套の中に収めた。
ほんの一瞬だけ、その横顔から氷がひび割れるように寂しげな影が覗く。雪は何も告げずに降り続けていた。
◇
雪に沈みかけていた意識は、いつの間にかじわじわと戻ってくる。頬に触れる手は冷えているはずなのに、それよりも自分の身体が冷え切っていたせいか、逆に熱を帯びて感じられる。けれどその温もりにすら、眉をひそめるほどの思考はもう残っていない。
馬車の車輪が軋む音も、吹き荒れる風も遠ざかっていた。代わりに聞こえるのは、衣擦れと一定の呼吸の音。揺れを伴って移動しているのに、抱え上げる腕は揺らぎなく安定している。抱くというより、落とさぬよう支える腕。その慎重さが妙に心に残った。
雪明かりすら薄れる頃、鼻先をくすぐったのは薪の焦げる匂いだった。厚い扉の軋む音、石床を踏む靴音――そこは吹雪の外ではない。屋敷か、城か。判断する前に視界が白く滲む。
瞼をわずかにこじ開けると、天井高く吊された燭台の灯がゆらゆらと揺れて見えた。冷えから解放されたはずなのに、遅れて指先がじんじんと痛む。靴を脱がされる感覚。毛布の感触。唇は動かず、声も出ない。ただそれだけを朧げに認識する。
「……っ」
指先を包む毛布ごしに、誰かの指がそっと触れた。脈を測っているのか、温めようとしているのか。それを考える余裕もない。ただその手は自分より大きく、それでいて驚くほど静かだった。
やがて喉に温かな液体が流し込まれる。むせかけた瞬間、肩を支えられる。草と香辛料の苦みに微かな甘みが混じる。薬湯だと気づく前に、熱が胃の底から身体の隅々へと広がった。
(……助け……られた?)
疑問だけが胸をかすめ、その答えは出る前に眠気に呑まれていく。瞼が落ちる直前、近くから低く沈んだ声がした。言葉は拾えなかった。けれどその声音だけが、雪を溶かす焚き火のような温度を持って耳に触れた。
胸にかすかな安堵が満ちる。自分でも驚くほど自然に、強ばっていた体の力が抜けていく。
(……寒く、ない……)
思うより先に眠りが落ちてきた。雪は遠のき、呼吸だけが静かに続いた。
王都を離れるにつれ道は細くなり、雪は深くなり、乗客たちの表情からは次第に余裕が消えていく。御者さえも「この先は自己責任で」とぼやきながら手綱を握っていた。
そんな中、アイリスの体調は徐々に限界へ向かっていた。屋敷を追われる直前まで満足な食事も睡眠もなかったうえに、慣れない揺れと冷気で身体は芯から冷えていた。
「……少し、だけ……」
馬車が休憩のために止まった隙に、アイリスは荷台からそっと降りた。吐く息は白く、足元の雪は膝近くまで積もっている。それでも外の空気を吸いたかった。誰の視線もない静かな場所で、胸につかえた思いを追い出したかった。
だが、足が思うように動かない。血の気の引いた指先が震え、視界がかすむ。
(大丈夫……私は自由になったんだから……歩ける、はず……)
小さな布袋を抱きしめながら雪原を数歩進んだところで、膝から崩れ落ちた。手袋もない素手が雪に触れ、熱が奪われる。
──その瞬間だった。
風の唸りとは異なる、硬質な雪を踏みしめる足音が近づいてくる。馬車の御者でも、道行く兵でもない。もっと重く、もっと静かな気配。倒れ伏した身体はもう震える力すら残っていなかったが、それでも本能だけがその接近を察した。
視界の端が揺れ、不意に身体が支えられる。
「……!」
温もりを感じるより先に、肌の奥まで刺すような冷気の圧に反射的に身が縮む。けれど触れられている腕からは、雪よりもはるかに確かな熱が伝わってくる。不思議な矛盾。
「生きてはいるな」
低く落ち着いた声が、頭上から雪明かりを割って降る。その声音は意識の朧げな彼女にもはっきり届いた。
ゆっくり瞼を開くと、昏い冬空を背景にひとりの男が立っていた。
銀灰の髪。氷を削り出したような鋭い眼差し。分厚い外套の上からでもわかる威圧感と静かな力。吐く息すら白く凍りつきそうな男なのに、抱き起こす腕だけはひどく暖かかった。
(誰……)
声にならない震えだけが唇から漏れる。
男は何も問わず、彼女を抱き上げる。横抱きにされた身体は軽々と持ち上げられながらも、壊れ物でも扱うように丁寧に固定された。
裾に纏わりつく外套にはちらちらと氷の結晶が付着している。その冷たさの奥に、焚火の火種のような確かな熱が宿っているのを、肌は微かに感じ取った。
「この魔力……」
男の瞳がわずかに細められる。まるで目には見えぬ気配を探るように。
そして――低く呟いた声はアイリスの耳には届かなかった。
問いただす余裕はない。ただ、その胸に抱かれながら、意識が再び遠のいていく。
そのとき、彼女の指から小さな布袋がこぼれ落ちた。雪の上に散らばるのは、旅の途中で拾った野草の種。男はそれに一瞥を落とし、静かに拾い上げると言葉もなく外套の中に収めた。
ほんの一瞬だけ、その横顔から氷がひび割れるように寂しげな影が覗く。雪は何も告げずに降り続けていた。
◇
雪に沈みかけていた意識は、いつの間にかじわじわと戻ってくる。頬に触れる手は冷えているはずなのに、それよりも自分の身体が冷え切っていたせいか、逆に熱を帯びて感じられる。けれどその温もりにすら、眉をひそめるほどの思考はもう残っていない。
馬車の車輪が軋む音も、吹き荒れる風も遠ざかっていた。代わりに聞こえるのは、衣擦れと一定の呼吸の音。揺れを伴って移動しているのに、抱え上げる腕は揺らぎなく安定している。抱くというより、落とさぬよう支える腕。その慎重さが妙に心に残った。
雪明かりすら薄れる頃、鼻先をくすぐったのは薪の焦げる匂いだった。厚い扉の軋む音、石床を踏む靴音――そこは吹雪の外ではない。屋敷か、城か。判断する前に視界が白く滲む。
瞼をわずかにこじ開けると、天井高く吊された燭台の灯がゆらゆらと揺れて見えた。冷えから解放されたはずなのに、遅れて指先がじんじんと痛む。靴を脱がされる感覚。毛布の感触。唇は動かず、声も出ない。ただそれだけを朧げに認識する。
「……っ」
指先を包む毛布ごしに、誰かの指がそっと触れた。脈を測っているのか、温めようとしているのか。それを考える余裕もない。ただその手は自分より大きく、それでいて驚くほど静かだった。
やがて喉に温かな液体が流し込まれる。むせかけた瞬間、肩を支えられる。草と香辛料の苦みに微かな甘みが混じる。薬湯だと気づく前に、熱が胃の底から身体の隅々へと広がった。
(……助け……られた?)
疑問だけが胸をかすめ、その答えは出る前に眠気に呑まれていく。瞼が落ちる直前、近くから低く沈んだ声がした。言葉は拾えなかった。けれどその声音だけが、雪を溶かす焚き火のような温度を持って耳に触れた。
胸にかすかな安堵が満ちる。自分でも驚くほど自然に、強ばっていた体の力が抜けていく。
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