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第六章 名前がついた日 〜はじめての確信〜
69話 約束の路地裏で
しおりを挟む週の半ば、水曜日の夜。
まだ陽が残る駅前の道を、ひとりで歩いていた。
待ち合わせの時間までは、あと十五分。
今日の店は、駅から少し歩いたところにある小さなイタリアン。
ケイくんが提案してくれた、隠れ家みたいな場所。
お気に入りの服に、ちょっとだけ髪を巻いて、リップもいつもよりツヤを出した。
鏡の中の自分に「これなら、たぶん……大丈夫」って小さく頷いてから会社を出た。
心の奥に、ほんのり熱い火が灯っているような感覚。
彼と過ごした日々が、頭から離れなかった。
手を繋ぎかけたこと。
またねと手を振ったこと。
そして研修の日に会ったこと。
ゆりさんに背中を押されたこと。
(怖くないって言ったらやっぱり嘘になっちゃうけど……ちゃんと……笑って過ごせたらいいな)
頬が自然とゆるむ。
楽しみ、緊張、でも嬉しい。
胸の奥が、泡のようにふわふわと弾けていた。
夕暮れの空に街灯がひとつ灯る。
カツ、カツ、とパンプスの音が響くのも、どこか軽やかだった。
……けれど。
店へ向かう近道。
大通りから外れて、静かな路地に入った時だった。
(……誰か、ついてきてる?)
心臓が小さく跳ねる。
でも、すぐに自分で否定した。
(まさかね……)
そっと振り返る。
……いない?違うか……。
ほっと息を吐いて、また歩き出した。
カツン……カツン……
足音が自分のものなのか、それとも──。
(……違う。やっぱり……誰か……)
背中を冷たい汗が伝った。
心臓が早鐘みたいに暴れて、呼吸がうまくできない。
「っ……はぁ、はぁ……っ」
喉が焼けるほど息苦しいのに、足は止められない。
影がすぐ後ろに迫っている気がして、振り返る勇気なんて持てなかった。
(誰か……誰か……!)
視界の端で、街灯の光が揺れる。
その明かりの先に、人の気配があるような気がして──一縷の望みにすがるように、さらに前へと駆け出した。
足音が、自分の靴音と重ならないリズムで近づいてくる。
乾いたアスファルトに響く、はっきりとした音。
(……やっぱり……追ってきてる……!)
背後から足音が迫った瞬間、いきなり腕をぐっと掴まれた。
「……っ!」
冷たい掌の感触に、背筋が凍りつく。
振り払おうと必死に腕を引いたけど、鋼みたいな指先はびくともしない。
耳のすぐ後ろで、低い声が落ちる。
「おい、待てよ」
ゾクリと肌が粟立ち、喉が塞がって声が出ない。
心臓の鼓動が暴れて、息が詰まりそうになる。
(いや……いやっ……!)
恐怖で全身に力を込め、渾身の力で腕を振り払った。
一瞬、指が緩んだ隙を逃さず、身体を前へ投げ出す。
走る。走る。とにかく、人のいるところへ──。
でも、
「おいっ、ちょっと待てって……!」
背後から怒鳴り声と足音が追ってくる。
怖い。怖い。怖い。
心臓が喉の奥まで上がってきそうで、足がもつれそうになる。
ヒールの音がアスファルトを打つたび、男との距離が詰まっていくような錯覚に襲われる。
(やだ、来ないで──!)
息が苦しい。喉が焼ける。でも止まれない。
ようやく店の看板が見えてきたその瞬間、道の角を振り返って視線を巡らせた。
街灯の下、男の影がまだ遠くにうごめいている。
息を荒げながら、何かを叫んでいる。聞こえない。聞きたくない。
ただ、冷たい汗が背中を伝っている。
その時、店前に見慣れた背中を見つけた。
「あやちゃん……?」
ケイくんの声が聞こえたとたん、もうこらえきれなかった。
駆け寄って、彼の胸に飛び込む。
わたしの肩が震えていた。
「け、ケイくんっ……っ」
震えが、止まらなかった。
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