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第一章 25歳の前夜
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朝の電車がトンネルを抜けた瞬間、窓の外の光がやけに白く滲んだ。
白石沙也加は目を細め、ぼんやりと車内広告を見上げる。
――「25歳からの転職」「25歳、恋の岐路」「25歳のうちに始めたい投資術」。
どれも似たような文字が並び、視界の端で揺れていた。偶然だろうか、と一瞬思う。
けれど目を逸らすたび、別の広告のどこかに“25”の数字が潜んでいる気がした。
会社までは三駅。
青藤市の朝は、どこか薄く濁った光をしている。
川沿いの並木道には桜の花びらがまだ残っていたが、風に舞うそれさえ湿って見えた。
四月の新年度、職場には新入社員が入り、沙也加は二年目に入った。
仕事もそれなりに覚え、上司との関係も悪くない。
それでも、満たされているとは言えなかった。
昼休みの雑談で飛び交う「転職」「結婚」「実家に帰る」といった言葉が、まるで誰かが自分の将来を決めさせようとする呪文のように思えた。
「25歳までには、何か決めたいんですよね」
新入社員の女子がそう言って笑った。
沙也加は曖昧に笑い返し、コーヒーの紙カップを握りしめる。
――25歳までに。
彼女のその言葉が、胸のどこかに小さな棘を残した。
その週の金曜日、同期の村田悠斗が突然退職を申し出た。
「実家に戻ることにした」と短く言い、机の上を片づける。
明るく社交的な彼が会社を辞める理由を誰も知らなかった。
ただ一つ気になるのは、彼の誕生日が三日前だったこと。
「悠斗くん、二十五になったばっかじゃなかった?沙也加、何か知らないの?」
同僚が言った何気ないその言葉に、なぜか沙也加の背筋がぞくりとした。
退職の帰り際、悠斗は沙也加のデスクに立ち寄った。
「白石さん」
呼ばれて顔を上げると、彼の表情は妙に静かだった。
「二十五の夜には、外を歩かないほうがいい」
そのまま微笑んで、彼はドアの向こうに消えた。
何を言いたかったのか。
その夜、沙也加は帰宅後もその言葉を思い出しては、まるで冷たい指で頬をなぞられたような感覚に何度も襲われた。
翌朝、出勤途中の電柱に貼られた“行方不明者ポスター”が目に入る。
そこには、悠斗の顔写真があった。
「……え?」
息を呑んだ瞬間、春の風が吹き抜け、ポスターの端が小さく震えた。
その日から、悠斗の消息は途絶えた。
LINEは既読にならず、SNSのアカウントはすべて削除されていた。
何かの冗談だと思いたかったが、翌週になっても何の音沙汰もない。
職場では「家の事情らしい」と噂が流れ、やがて誰も話題にしなくなった。
けれど、沙也加の胸の奥では、何かがまだ動いていた。
まるで誰かがガラスの向こうから、自分を見つめているような感覚。
金曜の夜。
帰宅した部屋の郵便受けに、一通の封筒が届いていた。
宛名は“白石理沙”。沙也加の母の名前だった。
失踪したのは二十五年前。沙也加がまだ三歳のときだ。
封筒の差出人の欄には名前も住所も書かれていなかった。
中には古びたビデオテープが一本。ラベルにはボールペンの細い字で「1999.3.25」とだけあった。
押し入れの奥から古いビデオデッキを引っ張り出し、再生ボタンを押す。
ノイズの混じる画面の中で、若い女がこちらを見て笑っていた。
白いワンピース、長い黒髪。
沙也加は息をのむ。間違いなく母だった。
カメラの向こうから誰かが問いかける声。
〈今、幸せ?〉
理沙は少し黙り、やがてカメラに顔を向けて言った。
「……二十五になったら、帰るの」
そのまま、笑みが消える。
次の瞬間、画面が砂嵐になり、再び映像が戻ったときには、理沙の背後にもう一人の女が立っていた。
同じ顔、同じ服。
ただ、表情だけがまったく違っていた――笑っていない。
恐怖よりも先に、体の芯が冷たくなる。
再生を止めても、耳の奥でざらざらとしたノイズが続いているように感じた。
電気を消し、布団に入っても眠れなかった。
夜半、ふと、部屋の壁に映る自分の影が目に入った。
天井の蛍光灯の下、影は自分よりもほんの少しだけ遅れて動いた。
手を上げると、影も上げる。だが、ワンテンポ遅い。
何度か試したあと、息を呑んだ。
影が、違う方向へ歩き出したのだ。
ほんの一歩だけ、斜め右へ。
沙也加は声を出せなかった。
動けないまま、影が壁の端で止まり、ふっと薄れて消えた。
その直後、スマホが震えた。
見慣れない番号からメッセージが一件だけ届いていた。
〈25歳までに、この町を出ろ〉
冷えた指で画面を閉じ、沙也加は目をつむった。
心臓の音が、壁の向こうから返ってくるように響いていた。
その夜、眠りは浅く、何度も目を覚ました。
時計を見るたび、針が同じ位置を指しているように感じた。
2時20分。2時35分。2時50分――少しずつ進んでいるのに、朝は来ない。
夢と現実の境が融けるように曖昧になっていく。
外では風の音がしない。世界全体が呼吸を止めたみたいだった。
気がつくと、目の前の壁に大きな時計が掛かっていた。
いつの間にか部屋の雰囲気が変わっている。
家具の配置も照明の色も微妙に違う。
夢だと分かっていても、現実と区別がつかない。
時計の文字盤には、ありえない数字が刻まれていた。
――25。
その針が“25”を指した瞬間、カチ、と音が鳴った。
秒針が止まり、空気の動きも止まった。
静寂の中で、どこからか水の滴る音だけが聞こえる。
振り向くと、部屋の隅に女が立っていた。
白いワンピース。濡れた髪。
顔は暗がりに隠れて見えない。
ただ、その輪郭がどこかで見覚えのあるものだと気づく。
――母。
沙也加は声を出そうとしたが、喉が動かない。
女はゆっくりと顔を上げ、唇だけが動いた。
〈帰っておいで〉
その声は、外からも内からも響いた。
壁に映った影が波打つように揺れ、部屋全体が水の底のように歪む。
次の瞬間、スマホの着信音が鳴った。
その音で、沙也加は跳ねるように目を覚ます。
部屋はいつもの夜の色に戻っていた。
時計を見る。午前二時五分。
夢だったのか、それとも――。
画面には新しいメッセージ通知。
差出人は表示されない。
文面は一行だけ。
〈25歳までに出ていけ〉
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
手のひらの中で、スマホの光がゆらゆらと明滅する。
その白い光が壁に映り、ふと見ると――影が二つ、並んでいた。
沙也加は息を止めた。
どちらが本当の自分なのか、わからなかった。
白石沙也加は目を細め、ぼんやりと車内広告を見上げる。
――「25歳からの転職」「25歳、恋の岐路」「25歳のうちに始めたい投資術」。
どれも似たような文字が並び、視界の端で揺れていた。偶然だろうか、と一瞬思う。
けれど目を逸らすたび、別の広告のどこかに“25”の数字が潜んでいる気がした。
会社までは三駅。
青藤市の朝は、どこか薄く濁った光をしている。
川沿いの並木道には桜の花びらがまだ残っていたが、風に舞うそれさえ湿って見えた。
四月の新年度、職場には新入社員が入り、沙也加は二年目に入った。
仕事もそれなりに覚え、上司との関係も悪くない。
それでも、満たされているとは言えなかった。
昼休みの雑談で飛び交う「転職」「結婚」「実家に帰る」といった言葉が、まるで誰かが自分の将来を決めさせようとする呪文のように思えた。
「25歳までには、何か決めたいんですよね」
新入社員の女子がそう言って笑った。
沙也加は曖昧に笑い返し、コーヒーの紙カップを握りしめる。
――25歳までに。
彼女のその言葉が、胸のどこかに小さな棘を残した。
その週の金曜日、同期の村田悠斗が突然退職を申し出た。
「実家に戻ることにした」と短く言い、机の上を片づける。
明るく社交的な彼が会社を辞める理由を誰も知らなかった。
ただ一つ気になるのは、彼の誕生日が三日前だったこと。
「悠斗くん、二十五になったばっかじゃなかった?沙也加、何か知らないの?」
同僚が言った何気ないその言葉に、なぜか沙也加の背筋がぞくりとした。
退職の帰り際、悠斗は沙也加のデスクに立ち寄った。
「白石さん」
呼ばれて顔を上げると、彼の表情は妙に静かだった。
「二十五の夜には、外を歩かないほうがいい」
そのまま微笑んで、彼はドアの向こうに消えた。
何を言いたかったのか。
その夜、沙也加は帰宅後もその言葉を思い出しては、まるで冷たい指で頬をなぞられたような感覚に何度も襲われた。
翌朝、出勤途中の電柱に貼られた“行方不明者ポスター”が目に入る。
そこには、悠斗の顔写真があった。
「……え?」
息を呑んだ瞬間、春の風が吹き抜け、ポスターの端が小さく震えた。
その日から、悠斗の消息は途絶えた。
LINEは既読にならず、SNSのアカウントはすべて削除されていた。
何かの冗談だと思いたかったが、翌週になっても何の音沙汰もない。
職場では「家の事情らしい」と噂が流れ、やがて誰も話題にしなくなった。
けれど、沙也加の胸の奥では、何かがまだ動いていた。
まるで誰かがガラスの向こうから、自分を見つめているような感覚。
金曜の夜。
帰宅した部屋の郵便受けに、一通の封筒が届いていた。
宛名は“白石理沙”。沙也加の母の名前だった。
失踪したのは二十五年前。沙也加がまだ三歳のときだ。
封筒の差出人の欄には名前も住所も書かれていなかった。
中には古びたビデオテープが一本。ラベルにはボールペンの細い字で「1999.3.25」とだけあった。
押し入れの奥から古いビデオデッキを引っ張り出し、再生ボタンを押す。
ノイズの混じる画面の中で、若い女がこちらを見て笑っていた。
白いワンピース、長い黒髪。
沙也加は息をのむ。間違いなく母だった。
カメラの向こうから誰かが問いかける声。
〈今、幸せ?〉
理沙は少し黙り、やがてカメラに顔を向けて言った。
「……二十五になったら、帰るの」
そのまま、笑みが消える。
次の瞬間、画面が砂嵐になり、再び映像が戻ったときには、理沙の背後にもう一人の女が立っていた。
同じ顔、同じ服。
ただ、表情だけがまったく違っていた――笑っていない。
恐怖よりも先に、体の芯が冷たくなる。
再生を止めても、耳の奥でざらざらとしたノイズが続いているように感じた。
電気を消し、布団に入っても眠れなかった。
夜半、ふと、部屋の壁に映る自分の影が目に入った。
天井の蛍光灯の下、影は自分よりもほんの少しだけ遅れて動いた。
手を上げると、影も上げる。だが、ワンテンポ遅い。
何度か試したあと、息を呑んだ。
影が、違う方向へ歩き出したのだ。
ほんの一歩だけ、斜め右へ。
沙也加は声を出せなかった。
動けないまま、影が壁の端で止まり、ふっと薄れて消えた。
その直後、スマホが震えた。
見慣れない番号からメッセージが一件だけ届いていた。
〈25歳までに、この町を出ろ〉
冷えた指で画面を閉じ、沙也加は目をつむった。
心臓の音が、壁の向こうから返ってくるように響いていた。
その夜、眠りは浅く、何度も目を覚ました。
時計を見るたび、針が同じ位置を指しているように感じた。
2時20分。2時35分。2時50分――少しずつ進んでいるのに、朝は来ない。
夢と現実の境が融けるように曖昧になっていく。
外では風の音がしない。世界全体が呼吸を止めたみたいだった。
気がつくと、目の前の壁に大きな時計が掛かっていた。
いつの間にか部屋の雰囲気が変わっている。
家具の配置も照明の色も微妙に違う。
夢だと分かっていても、現実と区別がつかない。
時計の文字盤には、ありえない数字が刻まれていた。
――25。
その針が“25”を指した瞬間、カチ、と音が鳴った。
秒針が止まり、空気の動きも止まった。
静寂の中で、どこからか水の滴る音だけが聞こえる。
振り向くと、部屋の隅に女が立っていた。
白いワンピース。濡れた髪。
顔は暗がりに隠れて見えない。
ただ、その輪郭がどこかで見覚えのあるものだと気づく。
――母。
沙也加は声を出そうとしたが、喉が動かない。
女はゆっくりと顔を上げ、唇だけが動いた。
〈帰っておいで〉
その声は、外からも内からも響いた。
壁に映った影が波打つように揺れ、部屋全体が水の底のように歪む。
次の瞬間、スマホの着信音が鳴った。
その音で、沙也加は跳ねるように目を覚ます。
部屋はいつもの夜の色に戻っていた。
時計を見る。午前二時五分。
夢だったのか、それとも――。
画面には新しいメッセージ通知。
差出人は表示されない。
文面は一行だけ。
〈25歳までに出ていけ〉
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
手のひらの中で、スマホの光がゆらゆらと明滅する。
その白い光が壁に映り、ふと見ると――影が二つ、並んでいた。
沙也加は息を止めた。
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