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第三章 境界の町
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目を覚ました瞬間、世界の呼吸が止まっていた。
音がない。
鳥も、風も、時計の針も。
ただ、光だけが、薄い膜のように空気の上に留まっている。
沙也加は布団の中で、しばらく身を動かせずにいた。
部屋の輪郭が曖昧だ。
光がゆっくりと滲み、壁紙の色を少しずつ変えていく。
まるで朝という現象が、途中で止まったまま再生されていないようだった。
スマホを手に取る。
時刻は「7:25」。
もう一度画面を点けても、やはり「7:25」。
通知は消え、電波は圏外。
画面の中の自分の顔だけが、どこか別の呼吸をしているように見えた。
窓の外では、人々が立ち尽くしている。
スーツ姿の男性、傘を持った女性、信号の前の子ども。
誰もが同じ姿勢のまま、凍りついたように動かない。
車は交差点で止まったまま、排気音ひとつ漏らさない。
「……夢?」
声は出た。だが、音が返ってこない。
壁が吸い込んでしまったみたいに。
床の木目に足音を残すたび、世界の表面が微かに震えた。
玄関を開けると、空の色が違って見えた。
白く、淡く、どこまでも同じ明度。
影がない。風もない。
ただ、空気の中に水のような粘りがあり、歩くたびに足を取られる。
通りの自動販売機のガラス越しに、何かが見えた。
自分自身だ。
しかし、ガラスに映る沙也加は、少し遅れて動いた。
目を閉じ、そしてこちらを見返す。
現実の沙也加は、瞬きすらしていない。
喉の奥で、乾いたざらつきが鳴る。
風のようでも、水の底の音のようでもある。
ガラスの向こうで、世界が動いていた。
止まっていた人々が歩き、空が流れ、町が呼吸している。
その中で、ひとりの女が振り向いた。
千佳だった。
ガラスの中の千佳が、ゆっくりと手を伸ばす。
唇がかすかに動いた。
〈こっちが、本当の世界だよ〉
その瞬間、空気が揺れ、時間が裂けた。
風が戻り、光が微かに脈動を始める。
だが、それは昨日までの町ではなかった。
街角の標識が変わっている。
「境二丁目」ではなく――「境二十五丁目」。
沙也加は息を呑んだ。
胸の鼓動が遅れて響く。
世界が、もう一度“再生”を始めたのだ。
風が戻ると同時に、町の色がわずかに違っていた。
空は相変わらず白く、陽の位置は動かない。
けれど、歩道のブロックは新しく、街灯には見覚えのない模様が刻まれている。
何より、通りの看板。
「境二丁目」が、「境二十五丁目」になっていた。
胸の奥が冷たくしびれる。
この町は、ゆっくりと別の町に変わっている。
歩き慣れた道なのに、建物の位置が少しずつ違う。
閉まっていた喫茶店のドアが開いていて、その中では知らない人たちが笑っていた。
彼らの声には、どこか微妙な“ずれ”がある。
喋っているのに、音が一拍遅れて届く。
まるで、現実の音声が再生に追いついていない。
「……ここ、本当に青藤市?」
呟くと、通りすがりの男が笑った。
「境町ですよ、昔から」
その声を聞いた瞬間、沙也加の体が凍りついた。
――村田悠斗。
三週間前、退職を告げたまま姿を消したはずの彼が、そこにいた。
白いシャツに、見覚えのある腕時計。
けれど、その瞳には何の感情も宿っていない。
「悠斗……?」
呼びかけると、彼は穏やかに微笑んだ。
まるで、初めて会う人間に向けるような笑顔で。
「いいえ。人違いですね。では、すみません」
沙也加は、歩き去っていくその後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
壁には、同じポスターが貼られていた。
〈第二十五回 境祭 ― 更新の年 ―〉
白地に赤い墨字。
日付は、明日。
ポスターの端に、薄く手書きの文字が重なっている。
〈25歳までに、出ていけ〉
指先で触れると、紙の表面がざらりと動いた。
インクがまだ乾いていないような、生々しい感触。
その瞬間、通りの空気が歪んだ。
笑い声が消え、遠くで鈴の音がした。
通りの角を曲がると、景色が少し古びていた。
看板は木製に変わり、電線が消えている。
通り過ぎる人々の服装が、どこか懐かしい。
――1999年の写真で見た町。
色も光も、写真の中のように薄い。
遠くの交差点に、白い服の人々が集まっている。
その中心に、赤い布で覆われた大きな鏡が立っていた。
鏡面が風に揺れ、布の隙間からちらりと光が覗く。
沙也加は吸い寄せられるように歩き出した。
その瞬間、胸の奥で“二つの鼓動”が鳴った。
一つは今の自分、もう一つは、どこか遠くの誰か。
「……私、どっちなんだろう」
呟きは風に溶け、町が答えるようにざわめいた。
すべてが少しずつ、見覚えのある“昔の町”に戻っていく。
青藤市ではなく、境界の町として。
夜になっても、空は白いままだった。
昼と夜の境目が失われたような光。
時計の針は「25」の位置で止まっている。
沙也加は、悠斗のアパートへ向かった。
玄関にはまだ彼の靴が揃えられ、郵便受けには古いチラシが詰まっていた。
室内は埃っぽいが、誰かが最近までいたような気配がある。
机の上に、黒いノートPC。
電源を入れると、画面の隅にひとつだけファイルが光った。
〈25_log.mp4〉
指先が勝手に動く。
再生を押すと、映像の中で悠斗が椅子に座っていた。
髪が乱れ、顔色は悪い。
だが、その目は異様に澄んでいた。
「……見えてる、か」
彼はカメラを見つめ、低く笑った。
「もし、これを見てるなら、町がもう動き出してる」
背後の壁には、地図と写真が貼られている。
25人の顔、そして“境神社”の印。
「この町は生きてる。呼吸して、記憶して、再生してる。二十五年ごとに、自分を作り直すんだ。そのために、“記録”を喰う。人間の記憶を」
彼はファイルをいくつかクリックしながら続けた。
「消えた連中は死んでない。記録として保存されてる。鏡の向こうがその“保存層”だ。……俺も、たぶん、もう長くはない」
そこで一瞬、ノイズが走った。
映像の光が乱れ、画面の奥に白い靄が広がる。
その中に、もう一人の“悠斗”が立っていた。
映像の悠斗がゆっくり振り返る。
だが、その背後に――沙也加がいた。
映像の中の沙也加は、無表情でこちらを見つめている。
現在の沙也加は息を止めた。
あれは、いつの自分? どこの自分?
画面の中の“沙也加”が小さく笑った。
〈25時の町で会おう〉
その文字がノイズの上に浮かび、映像は途切れた。
暗転した画面に、自分の顔が映り込む。
けれど、その表情が、ほんの少し遅れて動いた。
翌日。
町の中心に、人が集まっていた。
広場には紅白の幕が張られ、提灯がゆらめいている。
だが、どこを見ても光が一定で、太陽の位置がわからない。
昼とも夜ともつかない白い空。
その下で、白い服を着た人々が整然と並んでいた。
「第二十五回 境祭 ―更新の年―」
スピーカーから流れる声が、ゆっくりと町中に響く。
音程が妙に平坦で、人間の声というより、機械の読み上げのようだ。
沙也加は人混みの中にいた。
胸の奥がざわつく。
誰もが同じ笑顔で立ち、同じ方向を見ている。
子どもまでが無表情で、拍手のリズムを完璧に合わせている。
笑い声が一斉に止み、音が吸い込まれるように消えた。
鹿野神主が舞台に現れた。
白装束をまとい、額には古びた御札。
その手には、赤い布をかけられた鏡が抱えられている。
「二十五年の歳月が巡り、再び、境がひらく時が来た」
声が低く響く。
人々は同時に頭を垂れた。
鹿野が鏡の布を外す。
光が爆ぜ、町全体が一瞬で白く染まる。
視界の奥で、過去と現在の影が重なった。
古い家屋が、現代の建物の上に透けて見える。
人々の服が時代ごとに変わり、顔が交互に入れ替わっていく。
生者と死者、記憶と記録が同じ場所に立っていた。
「更新を始めよう」
鹿野がそう言うと、鏡の中の町が動き始めた。
そこでは、25年前の“彼ら”が同じ儀式をしている。
白い服、同じ人数、同じ動作。
鏡の中と外が完全に一致していく。
沙也加は目を凝らした。
鏡の中の列の最後尾に、自分がいた。
25年前の自分が、こちらを見て微笑んでいる。
手を伸ばすと、鏡の表面が波打った。
掌が吸い込まれるように沈んでいく。
「――やめろ!」
背後で鹿野の声が響くが、もう遅い。
世界が反転した。
音が消え、風が止む。
代わりに、無数の囁きが耳の奥で渦を巻く。
〈ようこそ〉
〈おかえり〉
〈これで町は生きられる〉
鏡の中の町は、赤く滲み始めていた。
人々の身体が光にほどけ、形を失っていく。
それは死ではなかった。
ただ、町が“再構築”されているだけだ。
記憶の断片が溶け合い、新しい層として積み上がっていく。
沙也加は最後にもう一度、空を見上げた。
白い空の真ん中で、黒い円がゆっくりと開いている。
――そこが、25時。
町の時計が、存在しない数字を指す。
光がすべてを呑み込んだ。
夜の境神社は、昼よりも静かだった。
人々の影が消え、提灯の明かりだけが残っている。
その光の下で、地面に亀裂のような線が走っていた。
そこから、微かな風が吹き上がる。冷たく、深い息のような風。
沙也加は導かれるように、その線を辿った。
社殿の裏手、閉ざされた扉の前で足が止まる。
そこに、鹿野がいた。
白衣の裾が風に揺れ、顔は闇に沈んでいる。
「来たね」
「ここは……何があるの?」
「町の中枢。御鏡の間だ」
鹿野は扉を押し開けた。
中には長い石段が続いている。
階段の壁には、古い鏡がいくつも埋め込まれていた。
その一枚一枚に、誰かの顔が映っている。
目を閉じたまま、静かに眠るような人々。
「これが……」
「消えた二十五人。そして、その前の二十五人。
この町が生き延びてきた証だ」
鹿野の声は淡々としていた。
沙也加は鏡のひとつに手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、表面が波打つ。
そこに、自分の顔が浮かび上がった。
今の自分ではない――二十五年前の少女の顔。
「あなたも、“保存”されていたんだよ」
鹿野がそう言った。
「生まれたときから、町の一部として。
君の記憶は町が再生のたびに呼び戻す。
本当の君は、もうとっくに――」
言葉が途切れた。
鏡の中の少女が目を開けたのだ。
彼女はゆっくりと微笑み、唇を動かす。
〈ありがとう。これで町はまた生きられる〉
鏡がひび割れ、光が溢れた。
鹿野の姿が溶け、壁の鏡が一斉に揺らぐ。
無数の声が重なり、天井が崩れ落ちる。
沙也加は耳を塞ぎ、必死に目を閉じた。
次に目を開けたとき、そこは静かな水面の上だった。
鏡の破片が浮かび、夜空を映している。
遠くで鐘が一度だけ鳴った。
その音が、25時を告げていた。
光の中で、沙也加はゆっくりと目を開けた。
あたりは白く、境界がなかった。
上も下もなく、ただ柔らかな光だけが漂っている。
身体が軽い。指先も、息も、輪郭を持たない。
遠くで、鐘の音が響いていた。
それは規則的で、どこか懐かしい旋律のようだった。
音に導かれるように歩く。
足元に道が現れ、風が吹き抜ける。
そこは、町だった。
けれど、どこか違う。
すべてが静かで、美しく整いすぎている。
道に影はなく、空には太陽が二つ浮かんでいた。
「……ここが、25時」
自分の声が遠くで反響する。
町の中央に、大きな鏡が立っている。
その周りには、白い服の人々。
皆が穏やかに笑いながら、何かを祝っている。
その中に、悠斗がいた。
千佳もいた。
そして、母も。
「おかえり」
母の声は柔らかく、風のように通り抜けた。
「やっと揃ったね」
悠斗がそう言って手を差し出す。
沙也加はその手を取り、静かに頷いた。
胸の中に、何かが戻ってくる。
懐かしい、痛みのない記憶。
「これで、町はまた生きられる」
誰かの声が重なった。
人々の身体が光に溶け、町全体が脈打ち始める。
建物が揺れ、空が反転する。
時間が巻き戻り、すべてが“更新”されていく。
沙也加は最後にもう一度、鏡の方を見た。
そこには、25年前の少女――かつての自分――が立っていた。
少女が微笑む。
「ありがとう」
その声が、遠くで消えていく。
光が強くなり、視界が真白に染まる。
町の音も、風も、すべてが静まり返った。
――翌朝、青藤市はいつも通りの朝を迎えた。
人々は通勤し、子どもたちは学校へ向かう。
誰も、“境町”という名前を知らない。
ただ、古い地図の片隅に、かすれた文字が残っていた。
〈境町・更新済〉
音がない。
鳥も、風も、時計の針も。
ただ、光だけが、薄い膜のように空気の上に留まっている。
沙也加は布団の中で、しばらく身を動かせずにいた。
部屋の輪郭が曖昧だ。
光がゆっくりと滲み、壁紙の色を少しずつ変えていく。
まるで朝という現象が、途中で止まったまま再生されていないようだった。
スマホを手に取る。
時刻は「7:25」。
もう一度画面を点けても、やはり「7:25」。
通知は消え、電波は圏外。
画面の中の自分の顔だけが、どこか別の呼吸をしているように見えた。
窓の外では、人々が立ち尽くしている。
スーツ姿の男性、傘を持った女性、信号の前の子ども。
誰もが同じ姿勢のまま、凍りついたように動かない。
車は交差点で止まったまま、排気音ひとつ漏らさない。
「……夢?」
声は出た。だが、音が返ってこない。
壁が吸い込んでしまったみたいに。
床の木目に足音を残すたび、世界の表面が微かに震えた。
玄関を開けると、空の色が違って見えた。
白く、淡く、どこまでも同じ明度。
影がない。風もない。
ただ、空気の中に水のような粘りがあり、歩くたびに足を取られる。
通りの自動販売機のガラス越しに、何かが見えた。
自分自身だ。
しかし、ガラスに映る沙也加は、少し遅れて動いた。
目を閉じ、そしてこちらを見返す。
現実の沙也加は、瞬きすらしていない。
喉の奥で、乾いたざらつきが鳴る。
風のようでも、水の底の音のようでもある。
ガラスの向こうで、世界が動いていた。
止まっていた人々が歩き、空が流れ、町が呼吸している。
その中で、ひとりの女が振り向いた。
千佳だった。
ガラスの中の千佳が、ゆっくりと手を伸ばす。
唇がかすかに動いた。
〈こっちが、本当の世界だよ〉
その瞬間、空気が揺れ、時間が裂けた。
風が戻り、光が微かに脈動を始める。
だが、それは昨日までの町ではなかった。
街角の標識が変わっている。
「境二丁目」ではなく――「境二十五丁目」。
沙也加は息を呑んだ。
胸の鼓動が遅れて響く。
世界が、もう一度“再生”を始めたのだ。
風が戻ると同時に、町の色がわずかに違っていた。
空は相変わらず白く、陽の位置は動かない。
けれど、歩道のブロックは新しく、街灯には見覚えのない模様が刻まれている。
何より、通りの看板。
「境二丁目」が、「境二十五丁目」になっていた。
胸の奥が冷たくしびれる。
この町は、ゆっくりと別の町に変わっている。
歩き慣れた道なのに、建物の位置が少しずつ違う。
閉まっていた喫茶店のドアが開いていて、その中では知らない人たちが笑っていた。
彼らの声には、どこか微妙な“ずれ”がある。
喋っているのに、音が一拍遅れて届く。
まるで、現実の音声が再生に追いついていない。
「……ここ、本当に青藤市?」
呟くと、通りすがりの男が笑った。
「境町ですよ、昔から」
その声を聞いた瞬間、沙也加の体が凍りついた。
――村田悠斗。
三週間前、退職を告げたまま姿を消したはずの彼が、そこにいた。
白いシャツに、見覚えのある腕時計。
けれど、その瞳には何の感情も宿っていない。
「悠斗……?」
呼びかけると、彼は穏やかに微笑んだ。
まるで、初めて会う人間に向けるような笑顔で。
「いいえ。人違いですね。では、すみません」
沙也加は、歩き去っていくその後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
壁には、同じポスターが貼られていた。
〈第二十五回 境祭 ― 更新の年 ―〉
白地に赤い墨字。
日付は、明日。
ポスターの端に、薄く手書きの文字が重なっている。
〈25歳までに、出ていけ〉
指先で触れると、紙の表面がざらりと動いた。
インクがまだ乾いていないような、生々しい感触。
その瞬間、通りの空気が歪んだ。
笑い声が消え、遠くで鈴の音がした。
通りの角を曲がると、景色が少し古びていた。
看板は木製に変わり、電線が消えている。
通り過ぎる人々の服装が、どこか懐かしい。
――1999年の写真で見た町。
色も光も、写真の中のように薄い。
遠くの交差点に、白い服の人々が集まっている。
その中心に、赤い布で覆われた大きな鏡が立っていた。
鏡面が風に揺れ、布の隙間からちらりと光が覗く。
沙也加は吸い寄せられるように歩き出した。
その瞬間、胸の奥で“二つの鼓動”が鳴った。
一つは今の自分、もう一つは、どこか遠くの誰か。
「……私、どっちなんだろう」
呟きは風に溶け、町が答えるようにざわめいた。
すべてが少しずつ、見覚えのある“昔の町”に戻っていく。
青藤市ではなく、境界の町として。
夜になっても、空は白いままだった。
昼と夜の境目が失われたような光。
時計の針は「25」の位置で止まっている。
沙也加は、悠斗のアパートへ向かった。
玄関にはまだ彼の靴が揃えられ、郵便受けには古いチラシが詰まっていた。
室内は埃っぽいが、誰かが最近までいたような気配がある。
机の上に、黒いノートPC。
電源を入れると、画面の隅にひとつだけファイルが光った。
〈25_log.mp4〉
指先が勝手に動く。
再生を押すと、映像の中で悠斗が椅子に座っていた。
髪が乱れ、顔色は悪い。
だが、その目は異様に澄んでいた。
「……見えてる、か」
彼はカメラを見つめ、低く笑った。
「もし、これを見てるなら、町がもう動き出してる」
背後の壁には、地図と写真が貼られている。
25人の顔、そして“境神社”の印。
「この町は生きてる。呼吸して、記憶して、再生してる。二十五年ごとに、自分を作り直すんだ。そのために、“記録”を喰う。人間の記憶を」
彼はファイルをいくつかクリックしながら続けた。
「消えた連中は死んでない。記録として保存されてる。鏡の向こうがその“保存層”だ。……俺も、たぶん、もう長くはない」
そこで一瞬、ノイズが走った。
映像の光が乱れ、画面の奥に白い靄が広がる。
その中に、もう一人の“悠斗”が立っていた。
映像の悠斗がゆっくり振り返る。
だが、その背後に――沙也加がいた。
映像の中の沙也加は、無表情でこちらを見つめている。
現在の沙也加は息を止めた。
あれは、いつの自分? どこの自分?
画面の中の“沙也加”が小さく笑った。
〈25時の町で会おう〉
その文字がノイズの上に浮かび、映像は途切れた。
暗転した画面に、自分の顔が映り込む。
けれど、その表情が、ほんの少し遅れて動いた。
翌日。
町の中心に、人が集まっていた。
広場には紅白の幕が張られ、提灯がゆらめいている。
だが、どこを見ても光が一定で、太陽の位置がわからない。
昼とも夜ともつかない白い空。
その下で、白い服を着た人々が整然と並んでいた。
「第二十五回 境祭 ―更新の年―」
スピーカーから流れる声が、ゆっくりと町中に響く。
音程が妙に平坦で、人間の声というより、機械の読み上げのようだ。
沙也加は人混みの中にいた。
胸の奥がざわつく。
誰もが同じ笑顔で立ち、同じ方向を見ている。
子どもまでが無表情で、拍手のリズムを完璧に合わせている。
笑い声が一斉に止み、音が吸い込まれるように消えた。
鹿野神主が舞台に現れた。
白装束をまとい、額には古びた御札。
その手には、赤い布をかけられた鏡が抱えられている。
「二十五年の歳月が巡り、再び、境がひらく時が来た」
声が低く響く。
人々は同時に頭を垂れた。
鹿野が鏡の布を外す。
光が爆ぜ、町全体が一瞬で白く染まる。
視界の奥で、過去と現在の影が重なった。
古い家屋が、現代の建物の上に透けて見える。
人々の服が時代ごとに変わり、顔が交互に入れ替わっていく。
生者と死者、記憶と記録が同じ場所に立っていた。
「更新を始めよう」
鹿野がそう言うと、鏡の中の町が動き始めた。
そこでは、25年前の“彼ら”が同じ儀式をしている。
白い服、同じ人数、同じ動作。
鏡の中と外が完全に一致していく。
沙也加は目を凝らした。
鏡の中の列の最後尾に、自分がいた。
25年前の自分が、こちらを見て微笑んでいる。
手を伸ばすと、鏡の表面が波打った。
掌が吸い込まれるように沈んでいく。
「――やめろ!」
背後で鹿野の声が響くが、もう遅い。
世界が反転した。
音が消え、風が止む。
代わりに、無数の囁きが耳の奥で渦を巻く。
〈ようこそ〉
〈おかえり〉
〈これで町は生きられる〉
鏡の中の町は、赤く滲み始めていた。
人々の身体が光にほどけ、形を失っていく。
それは死ではなかった。
ただ、町が“再構築”されているだけだ。
記憶の断片が溶け合い、新しい層として積み上がっていく。
沙也加は最後にもう一度、空を見上げた。
白い空の真ん中で、黒い円がゆっくりと開いている。
――そこが、25時。
町の時計が、存在しない数字を指す。
光がすべてを呑み込んだ。
夜の境神社は、昼よりも静かだった。
人々の影が消え、提灯の明かりだけが残っている。
その光の下で、地面に亀裂のような線が走っていた。
そこから、微かな風が吹き上がる。冷たく、深い息のような風。
沙也加は導かれるように、その線を辿った。
社殿の裏手、閉ざされた扉の前で足が止まる。
そこに、鹿野がいた。
白衣の裾が風に揺れ、顔は闇に沈んでいる。
「来たね」
「ここは……何があるの?」
「町の中枢。御鏡の間だ」
鹿野は扉を押し開けた。
中には長い石段が続いている。
階段の壁には、古い鏡がいくつも埋め込まれていた。
その一枚一枚に、誰かの顔が映っている。
目を閉じたまま、静かに眠るような人々。
「これが……」
「消えた二十五人。そして、その前の二十五人。
この町が生き延びてきた証だ」
鹿野の声は淡々としていた。
沙也加は鏡のひとつに手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、表面が波打つ。
そこに、自分の顔が浮かび上がった。
今の自分ではない――二十五年前の少女の顔。
「あなたも、“保存”されていたんだよ」
鹿野がそう言った。
「生まれたときから、町の一部として。
君の記憶は町が再生のたびに呼び戻す。
本当の君は、もうとっくに――」
言葉が途切れた。
鏡の中の少女が目を開けたのだ。
彼女はゆっくりと微笑み、唇を動かす。
〈ありがとう。これで町はまた生きられる〉
鏡がひび割れ、光が溢れた。
鹿野の姿が溶け、壁の鏡が一斉に揺らぐ。
無数の声が重なり、天井が崩れ落ちる。
沙也加は耳を塞ぎ、必死に目を閉じた。
次に目を開けたとき、そこは静かな水面の上だった。
鏡の破片が浮かび、夜空を映している。
遠くで鐘が一度だけ鳴った。
その音が、25時を告げていた。
光の中で、沙也加はゆっくりと目を開けた。
あたりは白く、境界がなかった。
上も下もなく、ただ柔らかな光だけが漂っている。
身体が軽い。指先も、息も、輪郭を持たない。
遠くで、鐘の音が響いていた。
それは規則的で、どこか懐かしい旋律のようだった。
音に導かれるように歩く。
足元に道が現れ、風が吹き抜ける。
そこは、町だった。
けれど、どこか違う。
すべてが静かで、美しく整いすぎている。
道に影はなく、空には太陽が二つ浮かんでいた。
「……ここが、25時」
自分の声が遠くで反響する。
町の中央に、大きな鏡が立っている。
その周りには、白い服の人々。
皆が穏やかに笑いながら、何かを祝っている。
その中に、悠斗がいた。
千佳もいた。
そして、母も。
「おかえり」
母の声は柔らかく、風のように通り抜けた。
「やっと揃ったね」
悠斗がそう言って手を差し出す。
沙也加はその手を取り、静かに頷いた。
胸の中に、何かが戻ってくる。
懐かしい、痛みのない記憶。
「これで、町はまた生きられる」
誰かの声が重なった。
人々の身体が光に溶け、町全体が脈打ち始める。
建物が揺れ、空が反転する。
時間が巻き戻り、すべてが“更新”されていく。
沙也加は最後にもう一度、鏡の方を見た。
そこには、25年前の少女――かつての自分――が立っていた。
少女が微笑む。
「ありがとう」
その声が、遠くで消えていく。
光が強くなり、視界が真白に染まる。
町の音も、風も、すべてが静まり返った。
――翌朝、青藤市はいつも通りの朝を迎えた。
人々は通勤し、子どもたちは学校へ向かう。
誰も、“境町”という名前を知らない。
ただ、古い地図の片隅に、かすれた文字が残っていた。
〈境町・更新済〉
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