イーヴィルアイに宿る色は

早之瀬雫

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終章

14

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 カーテンの隙間から射し込む明るい陽射しに、勢田は目を眇めた。
 全身麻酔から目覚めてから、まだ数時間しか経っていない。手術は成功したが、しばらくは絶対安静と告げられた。出血が激しく、命を落とさなかったのは奇跡に近いとも言われた。
 ――近い、というより、奇跡そのものだろうな。
 勢田は手を伸ばすと、カーテンを捲った。
 窓の外を眺めていると、見覚えのある姿が目に映った。翔とその母親だった。もう一人スーツ姿の男がいるが、おそらく翔の父親だろう。そうだとすれば海外赴任中のはずだが、息子が入院したと聞いて、駆け付けたのだろう。翔は色々と不満を漏らしてはいたが、やはり幸せな家族だと、つくづく思う。
 翔は、ふらふらとした足取りで、父母の後を歩いていた。
 翔が突然、背後を振り返った。
 勢田は、慌ててカーテンを引いた。
 閉めたカーテンと窓枠との僅かな隙間から、勢田は恐る恐る、翔の様子を窺った。
 翔は何かを探すように、病室の窓をひとつひとつ見上げていたが、やがて諦めたように踵を返した。
 勢田は安堵の溜息を洩らすと同時に、そんな自分に腹が立った。
 たとえ自分が罠にはめて破滅させた人間に対してであっても、何事もなかったかのように振舞えるのが、自分の特技だと認識していた。
 それなのに、今、勢田は翔の視線を恐れた。翔に対してだけは、後ろめたさを払拭できなかった。
 そんな感情を抱く自分に、苛立ちを覚えた。
「勢田さん、何してるんですか? 安静にしてなきゃダメですよ」
 振り向くと、看護師の水木美波が歩み寄ってきていた。彼女は翔を担当していた看護師だ。
「美波ちゃん、元気?」
 数時間前に初めて話したばかりの看護師に、勢田は殊更に親しげに声を掛けた。すると美波は嬉しそうに笑った。
 短時間で人の心を掴むのは、勢田の得意とすることだった。
「もしかして、成島君を見てた? さっき、退院の手続きが終わったんだけど」
 勢田の口調につられたのか、美波の口調も砕けていた。
 美波は急に眉根を寄せ、深刻そうな顔を作って、勢田の耳元に唇を寄せた。
「いいの? 成島君、ショックを受けてましたよ」
 美波は囁いた。胸を勢田の腕に押し当てているのは、わざとだろう。
「嫌なこと頼んでごめんね、美波ちゃん。今度、埋め合わせするよ」
 美波は面映ゆそうに頬を赤く染めた。
 勢田は、目覚めた時に傍にいた看護師が翔の担当だと知り、即座に距離を縮めた。その上で美波に、もしも翔が自分のことを何か尋ねてきたら、伝言を頼んでおいた。
 ――金輪際、俺に拘わらないでくれって言っといてよ。
 翔はおそらく勢田のことを気に掛けてはいるだろうが、強く拒絶すれば食い下がってはこないだろう。もっとも、何度か食い下がってきたことはあったが。
「あたしはいいんだけど、勢田さんが辛いんじゃないかと思って」
 囁く美波の吐息が、勢田の頬に触れた。
 水木美波の他にも、勢田に色目を使ってくる看護師が、すでに複数いた。彼女たちをうまく手玉に取っておくのも、悪くはない。ひょっとすると何かの役に立つこともあるかもしれないし、何より、入院生活は長くなりそうだった。看護師と親密になっておくことは、快適な入院生活を送る上で欠かせない。
 ――翔、君は軽蔑するだろうけど、俺はそういう人間なんだよ。これまでそうやって生き延びてきたし、これからだって、そうするつもりだ。所詮、君とは生きる世界が違うんだよ。
 勢田は、心の中で呟いた。

 ビルの外壁落下事故から、一ヶ月ほど経った。
 勢田の入院生活は想像していた以上に快適だった。勢田の入院費用は全額、外壁が落下したビルの所有者が負担することとなり、金銭面の心配はせずに済んだ。術後の経過も順調で、車椅子での移動がこなせるまでに回復していた。
 一方、翔は、同業者から入手した情報によると、退院した翌日から高校に登校し、今のところ、通学を続けているらしい。もっとも、やはり事故のことが知れ渡り、クラスメイトの好奇と恐怖の眼差しに晒されてはいるらしいが。
 勢田は、日課にしているメールの確認を終えると、サイドテーブルに置いてある写真を手に取った。
 家庭教師を引き受ける前に、資料として藤木美奈穂から貰った翔の写真だった。
 高校の生徒証明書に貼付するために撮影した写真らしいが、俯き加減で、緊張しているのか、カメラを睨むつけるような目つきで写っているのが、すこし残念だった。 
 ――こんなもの、未練がましく持ってるから、いつまで経っても忘れられないんだよな。
 勢田は自嘲的に笑うと、翔の写真をサイドテーブルに戻した。
 そろそろ、翔のことは忘れるべきだろう。
 それ以前に、勢田は自分が翔のことを心配する資格などないことを、自覚していた。
 ――あなたを殺して、僕が平気でいられると思ってるんですか?
 悲鳴のような叫びが、今も耳から離れない。
 勢田はかつて、ゲームと称して翔に自分を殺すように嗾けた。
 翔が尊大な言い方や命令口調で言われた時に、激高しやすい性格であることを知った上で、殊更に尊大な態度で接してみた。
 更に、恥をさらすことを極度に恐れる性格と、吉田篤の事故に対して、自分の責任ではないという主張に固執していることを熟知した上で、吉田への謝罪として翔の卑猥な写真を吉田に送ると言って脅した。
 五分五分の賭けではあったものの、充分に勝算があると踏んで挑んだにも拘わらず、幸か不幸か、勢田は賭けに敗れた。
 理由を何度も考えた。
 思い当たったのが、翔の左目に移植されたという角膜が、勢田のものであった可能性だった。角膜移植を受けるにはアイバンクに登録後、数年の待期期間を見るべきだと言われているが、翔はわずか数日で移植手術を受けていた。さらに、翔の父の銀行口座には、翔が手術を受ける直前、不自然な振出履歴が残っていた。
 もちろん、それだけでは翔が移植を受けた角膜が勢田のものであったとは断言できないが、違法に入手した角膜である可能性は高いだろう。
 翔が「イーヴィルアイ」を発動させるようになったのは、角膜移植の後だという。勢田の角膜だったがゆえに、勢田が標的にならなかったという可能性は、否定できなかった。
 だが、それだけでは、ホテルの備品が全く壊れなかったことの説明がつかなかった。
 もうひとつ考えられるのは、翔が本気で勢田に惚れていたという可能性だった。
 勢田が屈辱を与えようとしたところで、翔が嬉々として受け入れてしまったとすれば、翔の憎悪から発動されるであろう「イーヴィルアイ」が不発に終わるのは当然と言えた。
 勢田は、頭を抱えた。
 ――まさか、これが答えか? やめてくれよ……。これだから無菌状態で育ったお坊ちゃんは嫌なんだ……。ちょっと優しくされたら、すぐに気を許す……。
「勢田さんも、ケーキ食べる? 頂き物なんだけど、有名店のものなのよ」
 隣のベッドの患者から声を掛けられ、勢田は慌てて左目を眼帯で覆った。
 勢田のベッドを覗き込んだ隣人が、勢田の眼帯と、サイドテーブルに置かれた洗浄中の義眼を交互に見て、頓狂な声を上げた。
「あら、勢田さんって、義眼だったの?」
「そうなんです。昨晩、洗浄するのを忘れてて……。見苦しいところをお見せして、すみません」
 勢田は笑顔で答えた。 
 中年女性四人を含む、この六人部屋では、昼食後にはいつも井戸端会議が始まる。
 病院内の様々な噂話が共有されている状況は、観察していて面白いが、勢田自身はあまり拘わりたくなかった。それでも、同室の女性たちは勢田が加わると喜ぶので、時々参加することにはしていた。
 井戸端会議が終わって静かになると、勢田は上半身を起こしたまま枕に寄りかかって目を閉じた。他の患者も昼寝をしたりテレビを見たりして、各々自由に過ごしているようだ。
 まどろんでいると、ふと、視線を感じた。
 勢田が寝ている間、時折、顔を覗き込みにくる人がいた。深夜は看護師が多いが、それ以外の時間帯は、他の患者であったり、見舞い客であったりする。鬱陶しくないといえば嘘になるが、勢田にとって容姿は重要な武器だった。武器が有効であることの証と思えば、仕方がないと思えた。
 ――またか? 誰だ?
 眠ったふりをしようかとも思ったが、そうするには、あまりにも無遠慮で、纏わりつくような粘着質な視線だった。
 薄く開いた目に、思いがけない姿が飛び込んできた。
「……翔……」
 思いつめたような目で勢田の顔を食い入るように見据えていた翔は、勢田と目を合わせた瞬間、引き攣ったような悲鳴を上げた。
 勢田は慌てて飛び起きると、翔の口を掌で塞いだ。
 義眼を外していたことを思い出した。勢田の左目は、瞳孔がなく、白目が抉れたような歪な形をしていた。悲鳴を上げるのも、無理はなかった。
 ――タイミングが悪すぎる……。
 勢田は舌打ちしたい思いで、慌てて左目を眼帯で覆った。翔の口から手を離すと、翔は激しく咳き込んだ。
 勢田は翔の背中をさすりながら、囁いた。
「嫌なもの、見せてしまったね」
 ようやく咳が止まった翔は、深々と頭を下げた。
「僕のほうこそ、すみません。失礼な態度を取ってしまって」
「別に謝ることじゃないよ。てか、ごめんね。 せっかく来てくれたのに、いきなりグロいもの見る羽目になっちゃって」 
 勢田は軽い調子で笑ったが、翔は不安げな様子で勢田の顔色を窺っている。
「そんな顔するなって。看護師さんにだって、 目を逸らす人がいるくらいなんだから」 
 翔が急に顔を上げると、必死の形相で呻くように言った。
「眼帯、取ってください」 
「え? なんで?」
 勢田が中学生の頃、わざと眼帯を外しては、「キモー」「シロメ」などと騒ぎ立てるクラスメイトがいたことを思い出した。
 ――でも、翔はそんな悪ガキみたいな真似、しないだろうし……。
 勢田は小首を傾げた。 
「ちゃんと先生の顔を見たいんです。もう悲鳴なんて絶対に上げませんから」
 悲壮感すら漂う風情に、勢田は苦笑を漏らした。
「優等生のお坊ちゃまらしい決意には感服するけど、また悲鳴上げられても困るから、やめとくよ。君の入院してた病室とは違って、大部屋だからね」
 翔は傷ついたように俯いた。ちょっと言い過ぎたかとも思ったが、いつまでも食い下がられたら面倒だ。
 翔の足元に、大きな花束が転がっていることに気づいた。ドラマのプロポーズシーンでありそうな、真っ赤な薔薇の大きな花束だった。
「それ、俺にくれるの?」
 翔は弾かれたように花束を抱き上げると、顔を真っ赤にして頷いた。
 ――こんなもの、俺にどうしろって言うんだ……。花瓶にも入りきらないし、そもそも花瓶なんか持ってねえよ。
「ご迷惑かもしれませんが……」
 翔は、勢田の顔色を窺いながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
 迷惑だよ、などとは言えず、礼を言って受け取った。
 ――二万円は下らないな。
 花束を贈る機会が多い勢田は、即座に値踏みした。
 ――こういうものは、金をかければいいってものじゃないんだよなぁ。
 手間がかかるものだけに、喜ぶ相手と迷惑がる相手がいる。
 とはいえ、翔なりに精一杯気遣ってくれたのだろう。
 ベッド用テーブルの上に手にした花束を置きながら、勢田は横目で翔を観察した。見ないうちに、少し雰囲気が変わったような気がした。
 ――いや、雰囲気というより、この子に纏わりついていたオーラみたいなのがなくなったような……。そうか、多分「イーヴィルアイ」を失ったんだろうな。
「で、今日はどうしたの?」
 勢田が水を向けると、翔は緊張した面持ちで、ポケットの中に手を入れた。
「すみません。大事なものだったんですよね」
 翔はおずおずと、真っ二つに割れたガラス玉を手渡してきた。
「えっ?」
 勢田は驚いて、渡されたガラス玉に見入った。
「お守り代わりに、ずっと大事にしてたんです。でも、あの事故の時に……」
 勢田が怒っているとでも思ったのか、翔は慌てて弁解するように言い募った。
「……捨ててなかったの? マジ?」
 初めて翔と会った日、勢田は、陶器の欠片がガラス玉に変わったら、翔がどんな反応をするのか見てみたくなって、面白半分ですり替えた。すぐに捨てるだろうと思っていたのに、勢田が家庭教師を辞める時に、まだ持っていることを知って、驚いた覚えがあった。
「まだ持っていてくれたんだ? ありがとう。一応、思い出の品だからな」
 勢田が怒っていない様子に安心したのか、急に翔は饒舌になった。
「やっぱり、先生の義眼だったんですね。ということは、これ、実際に使ってたんですよね?」
「ああ、これは、既製品の安物なんだ。それなりにリアルに見えるかもしれないけど、こんなのを入れてたら、誰が見てもすぐに義眼だって分かるよ」
「そうなんですか……。あの、思い出って……?」
 翔は続きを聞きたそうに、身を乗り出している。
 ――さっきから、すごく聞き耳を立てられてる気がするんだよな。まあ、いっか。俺のことくらい、誰に知られても。
 割れた義眼を掌の中で転がしながら、勢田は話を続けた。
「中学3年の時だっけ? いきなり左目を親父に切りつけられたんだ。あいつ、闇金から借金してたんだけど、のらりくらりと躱して、まともに返済してなかったみたいなんだ。ついに貸主側が痺れを切らして、どうしても返済できないなら、角膜でもよこせ、凄んできたらしい。それにびびった親父は息子の角膜を差し出そうとしたってわけだ。短絡的すぎて、笑えるだろ」
 翔は笑うどころか、顔を硬直させていた。無理もなかった。翔のような良家のご子息には、無縁の話だ。
 ――いや、無縁というよりも、むしろ、そういった訳ありのものを入手する側だよな。
「その後、俺の角膜がどうなったか知らないけど、それがきっかけで、母親が俺だけを連れて、親父のもとを逃げ出したんだ」
「あ、だから松井さんは……」
「母親にも余裕がなくて、妹まで連れて行けなかったんだろうな。それに、妹は俺と違って、親父に可愛がられてたしね」
 聞き耳を立てられている状態で、あまり恭子のことは話したくなかった。
「母親は、お金がない上に、親父に見つからないように逃げ回ってたから、俺は治療を受けることなんかできなくて、左目だけ瞳孔がないまま、1年くらい過ごしてたんだ。俺は義務教育を終えたらすぐに働くつもりだったんだけど、母親に懇願されて、高校に進学したんだ。その時に母親が、義眼を買ってくれたんだ。安物の既製品だけど、すごく無理して買ってくれたんだと思う。あれが、母の愛情を感じた最後だったな」
 翔に語っているというより、勢田自身の独り言に近かった。
「じゃあ、お母様は今は……」
 翔が勢田の顔色を窺いながら、訊ねてきた。
「さあ? どっかで生きてるとは思うよ。男作って、どっかに行っちゃったんだ。それで、俺もなんだか自暴自棄になって、高校辞めて、その日暮らししてたわけだ。まあ、そんなもんだよ、俺の人生って」
 勢田は自嘲的に笑った。
 ここまで話す必要はなかったが、なんとなく興が乗って話してしまった。それに、勢田は翔とは違う世界で生きてきたことを、翔に理解してもらいたかった。
「中学時代、同級生にシロメ、って呼ばれて、高校に入ってからは、ガラス玉って陰で囁かれてたな。そういや、君もたまに俺の眼を見て怯えてたよな。ガラス玉みたい、って思ったんだろ」
「……そんなこと……」
 翔は居たたまれなくなったのか、俯きながら口ごもった。
 そんな翔を横目で見て、勢田は満足した。後味は少し悪いが、これで翔は勢田と拘わりを持とうとはしなくなるだろう。
「じゃ、これは返してもらうよ」
 勢田は手にしていたガラス玉をポケットにしまい込んだ。
 翔は申し訳なさそうに項垂れている。
「そんな大事なものを割ってしまって……」
「そういや、目玉型のお守り、知ってる? イーヴィルアイ・チャームってやつ。あれって、持ち主の身代わりになった時に割れるらしいよ。ま、そんなわけだから気にしなくていいよ。つい話し込んじゃって、ごめんね。わざわざ返しに来てくれてありがとう」
 勢田は適当に話をまとめると、遠回しに帰るように促した。
「……あの……、例の『イーヴィルアイ』なんですが……、その……、僕……」
 ――ああ、やっぱり……。その話をしたくて来たのか……。
 病室内の人々の注意が、勢田と翔との会話に集中していることが、痛いほど感じ取れた。しかも、噂話が大好きで、井戸端会議が日課になっている病室なのだ。
 勢田が片目を失った経緯など、噂が広まったところで痛くもかゆくもないが、翔の「イーヴィルアイ」については、そうもいかなかった。
「外に行こうか」
「え? でも、外は暑いですよ?」
「まあ、いいじゃん」
 勢田は、車椅子に身体を移した。危なっかしく見えたのか、翔が慌てて車椅子に手を掛けた。
「大丈夫。こう見えても、けっこう自由に動けるんだから」
 陽気に言ったつもりだったが、翔は眉をひそめた。
「いつになったら、歩けるようになるんですか?」
 言った瞬間、自分の失言に気づいたのか、翔は苦しげに唇を噛み締めた。
 ――リハビリは順調だと言われてるけど、普通に歩けるようになるかは、担当医も何とも言えない状態だって言ってたけど……。
 だが、そんな風に返答したら、翔がますます萎縮するだろう。
 勢田は車椅子を漕いで、ドアに向かった。だが翔はついてこない。怪訝に思って振り向くと、翔は食い入るように、サイドテーブルを見つめていた。置きっぱなしになっている翔の写真に気づいたようだ。
 ――気づかれたか。仕方ないな。
「その写真、返すよ」
 それだけ言って、勢田は部屋を出た。
 翔が小走りで追いかけて来た。
「どうしてこんなものが……?」
「家庭教師を引き受ける前に、君に利用価値があるかどうか、調査したんだよ。その時に手に入れた写真」
 勢田はあえて翔を傷つけるような言葉を選んだ。だが翔は食い下がってきた。
「……もう調査済みでしょう? さっさと捨てればいいのに、どうしてまだ持ってるんですか?」
「荷物に紛れ込んでただけだよ」
 翔は俯きながら、勢田の後ろをついて来た。
 勢田が向かったのは、屋上の庭園だった。
「うわっ、暑いなあ。汗かくじゃないか。マジかよ。シャワー浴びるのも一仕事なのに」
「だから、言ったじゃないですか」
 翔は背後に立ったまま、ふて腐れたように呟いた。
 それでも木陰に入ると、多少はましだった。
「もう夏休み?」
「終業式は、まだです」
 聞かれたことに答えはするが、ふて腐れた表情のままだ。勢田は苦笑しながら訊ねた。
「さっきの続きだけど、『イーヴィルアイ』、なくなったんだ?」
 翔は驚いたように目を見開くと、嬉しそうに笑った。
「どうして分かったんですか?」
 どうやら、勢田が自分のことを解ってくれていると思って、喜んでいるらしい。
「そんなこと、君の口調から、誰でも推察できるよ」 
 取り付く島もない返事をしたつもりだが、それでも翔ははにかむような笑みを浮かべている。
 仕方なく、勢田はしばらく雑談に付き合った。
 一通り雑談を終え、そろそろ帰るよう促そうとしたところで、突然翔が尋ねてきた。
「先生は、もう僕に拘わりたくないんですよね? でも、もう僕には『イーヴィルアイ』はありません。それでもダメですか?」
「ダメって、どういう意味? 今後君と俺の人生が交差することはないと思うけど」 
 勢田が質問で応酬すると、翔はうっすらと涙が張りついた瞳で睨みつけてきた。
「僕は、先生と拘わり続けたいんですけど」
「止めた方がいい。君と俺とは、住んでる世界が違う」
「……意味が分からないんですけど」
 翔は食い入るような目で勢田を見据えた。
「僕の『イーヴィルアイ』は、僕自身には発動されても、先生に対しては、全く発動されなかったのは、どうしてだと思います?」
 茶化すような返答だけは絶対に許さない、と言わんばかりの真剣な眼差しで、翔は勢田を見据えていた。
 ――翔も、自分に移植された角膜が、俺のものであった可能性を考えてるのか? だとしたら、どう返答するべきか……。
 勢田が考え込んでいると、焦れたのか、翔の方が先に口を開いた。
「僕、先生に一目惚れしたんだと思います。だから……」
「いや、多分違うよ。君、初めの頃、自分がどんな目で俺を見てたか覚えてないのか? 俺なんか、源川第三高校の連中以下の下種だもんな、思いきり軽蔑を露わにしたような目だったよ」
 翔が反駁するよりも早く、勢田が言葉を継いだ。
「君の移植手術で使われた角膜は、俺のものかもしれないとは、考えたことがあるよ」
 そんなことを考えたことがなかったのか、翔は目を見開き、水中の金魚のように口を開いた。
「もしそうだとしたら、君を苦しめた原因は、俺だったってわけだ」
 翔は納得がいかないのか、不満げな顔で勢田を見つめていた。
「俺が君を苦しめた元凶だったとすれば、こんな言い方をしたら君は怒るかもしれないけど、俺にとっては、君の悩み自体が、温室育ちのお坊ちゃま特有の甘ったるい感傷としか思えなかったんだ」
「どういう意味ですか?」
「自分に害を為す人間が、勝手に事故に遭うならそれでいいじゃん。誰にも裁かれる心配がないわけだし。俺だったら、絶対そう考える」
 翔は眉を顰めた。
「ほら、そんな反応する」
 あまりにも予想通りの反応に、思わず勢田は噴き出した。
「君さ、よく俺のこと軽蔑したような目で見てたよな。そりゃ、無理やりヤッたことは軽蔑されても仕方ないけどさ、ちょっとしたことで、すぐそんな顔してたよ」
「そうでしたか……」
 翔は落ち込んだように俯いた。
「いや、非難してるわけじゃないんだ。所詮、俺は君とは住んでいる世界が違うってこと」
 勢田はあえて軽い口調で告げた。
「俺さ、ガキの頃、しょっちゅう親父に強要されて、他人様の家に忍び込んで、金目の物盗んでたんだ。人ん家に入り込むなんて、君には想像もつかないだろ。でも俺はそういうことを平気でやってきたし、これからだって、食い詰めたらやるかもしれない」
 翔は雷に打たれたように、身を硬直させた。やっと、自分と理解し合える人間ではないことを悟ったのだろう。
 ――終わったな。
「そろそろ日が落ちる。お母様が心配するだろうから、もう帰りなよ」
 勢田は翔の肩に手を置いた。翔の肩は、小さく震えていた。
「そうだ。最後に言っておかなきゃならないことがあったな。あの事故で俺が死ななかったのは、多分君のおかげだよ。ありがとう」
 翔はゆっくりと顔を上げると、睨みつけるような目で勢田を凝視した。
「何言ってるんですか? 僕のせいで外壁が落ちてきたんですよ?」
「なんて言ったらいいんだろうな。うーん……。俺、今まで、いつ死んでもいいや、って思って生きてきたんだ。だから、俺としては、あのおんぼろビルの外壁の下敷きになって死んでも良かったわけだ。でも君、すごく泣いてくれただろ? 君に、俺の死なんか背負わせるわけにはいかないって、思えたんだ」
 勢田は夕焼けに染まった空を見上げながら、ゆっくりと話した。
「だから、君が俺の怪我のことを気に病む必要はない。早く忘れてしまえばいい」
 勢田は、翔の手を軽く握った。
「もう会うことはないだろうけど、元気で」
 翔はまだ石のように固まっている。噛み締めすぎて青紫色に変色した唇が、痛々しかった。
「じゃあ、俺は行くから。君も早く帰れよ」
 車椅子を漕ぎかけたところで、翔が車椅子を掴んだ。
「……嫌です」
 車椅子をアームサポートを強く握りしめた翔の手は、小刻みに震えていた。
「前に、勢田先生だけだ、って言ったの、覚えてます?」
 翔は俯いたまま、消え入るような声で呟いた。
 勢田が翔の家庭教師を辞めた時のことだろう。
「うん。俺だけが、君の『イーヴィルアイ』を制御できる人間だったんだよね。君に『イーヴィルアイ』を与えてしまった張本人だったとすれば、まあ、当然といえば当然かもしれない。でももう『イーヴィルアイ』がなくなったんだから、どうでもいいことじゃないか?」
 ようやく翔が顔を上げた。
「違うんです。あの時、僕が本当に言いたかったのは、そういうことじゃなくて……」
 翔は一旦言葉を切ると、悲壮感を帯びた双眸で勢田を食い入るように見つめた。勢田は息苦しさを覚えたが、視線を逸らすことができなかった。
「離れたくないと思った、初めての人なんです。僕、やっぱりあなたのことが好きです」
 大して驚きはしなかった。これまでにも、悲壮な顔で告白をされたことなど、幾度もあったし、それを躱すことに苦労したことは一度もなかった。
「それ、君の思い込みだよ。ひとりで悩んでた時に、懐に入り込むような真似をしておきながら言うのもなんだけど、俺は単に君を利用しようとして近づいてきただけの、薄汚い人間だ。もう『イーヴィルアイ』から解放されたんだから、誰とでも付き合えるよ。自分に見合う相手を探しなよ」
 翔は勢田が拒否することを想定していたのだろう、怯まず切り返してきた。
「見合う相手って、何ですか? 僕は、先生のことが好きなんです。先生に僕を拒絶する権利はあっても、僕の気持ちまで、否定する権利はないんじゃないですか」
「まあ、そうだけど……」
 勢田は言葉を失った。
 ――正論ではあるけど、権利って……。これで、この子は俺を口説いてるつもりなのか?
 この調子では、当面恋人など作れそうにない。なまじ顔も頭もいいだけに、少し残念な気がした。
「僕のこと、嫌いならはっきり言ってください。そういう断りかたって、残酷です」
 勢田が怯んだのを見て取ったのか、翔は強気に捲くし立ててきた。
「嫌いだって言われたら、気が済むんだ?」
 勢田は笑いながら訊ねると、翔はむきになって言い募った。
「そんな意味じゃありません! そういう断り方をするくらいなら、嫌いだと言ってくれたほうがまし、ってことです。でも、僕、嫌いって言われても、絶対諦めませんから」
「翔、落ち着けよ。それ、君の思い込みだよ?」
「そんなこと、決めつける権利はないでしょう。諦めないのは僕の自由です」
 ――また権利かよ?
 口説いているというよりは、宣戦布告しているような喧嘩腰の姿勢に、勢田は呆れた。
 だがそれ以上に、そんな翔に対して不快感を抱いていないどころか、可愛いと思ってしまっている自分にも呆れた。認めたくはなかったが、勢田も翔に惹かれていた。
「そこまで言うなら、付き合ってあげてもいいけど? 君、それなりに利用価値がありそうだもんな。一応、君についてはある程度調べたけど、君の家の資産価値はかなりあるし、お父さんの社会的地位も高くて高収入だ。お母さんの実家は、資産はそれほどでもないけど、旧華族の名家で、スキャンダルを嫌う家風だよね。金づるとしては上々だ。搾取できるところまで搾取して、利用価値がなくなったら、ぼろ布みたいに捨ててあげようか」
 勢田は冷笑を浮かべながら言い放った。さすがに、翔も引くのではないかと思ったが、翔は引くどころか、嬉しそうに笑った。
「先生がしたいようにしたら、いいんじゃないですか? 僕は全然構わないので、付き合ってくれますか?」
 予想外の反応に、勢田は面食らった。
 翔の顔を凝視したが、挑発している様子でもなく、期待と不安の相俟った面持ちで、勢田の返事を待っていた。
 勢田は大きな溜息をついた。
「……君さぁ、身ぐるみ剥がされてから後悔したって、遅いんだよ?」
 だが、これ以上言葉を重ねても、翔の心には響かないだろう。
「……眼帯、外していいですか?」
 翔が、勢田の顔色を窺いながら、囁いた。
 ――思ったよりも、強引だな……。
 とはいえ、拒絶することはまだ不可能ではない。きちんと拒否してやるのが翔のためだということは、頭では分かっていた。だが勢田自身、翔を手放したいとは思っていなかった。
 ――あーあ、この俺が、子供の青臭い告白に絆され、押し切られるとは……。
 今まで言い寄ってきた人間はたくさんいたが、ここまで捨て身でしがみつかれたのは、初めてかもしれない。
「こんなもの見たがるの、君だけだよ?」
 皮肉まじりの捨て台詞を承諾と捉えたのか、翔は嬉しそうに微笑んだ。
 翔の手が微かに震えながら、ゆっくりと伸びてきて、眼帯を外した。
                                      
【完】

【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(__)m
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漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

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ブログに掲載した短編です。

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